ひとつ年を重ねた心境に通じる話ですが、63歳の僕と、たとえば十分に物心がついている50歳下の13歳では、生まれたときになかったものの違いが大きすぎると思ったんですね。もはや体の一部と錯覚する人が少なくないスマホは、その筆頭でしょうか。あれが電話しかできなかった機械から発展したことも、若い人は知らないかもしれない。
言うまでもなくスマホも携帯電話も、それからPCもインターネットも、今や世界の隅々まで行き渡っているテクノロジーは、僕が生まれたときにはありませんでした。テレビにしてもそう。テレビ放送が始まったのは1953年ですが、ごく庶民の僕の家にその装置がやってきたのは、それから10数年後。幼いときは、すでにお持ちの家庭で鑑賞させてもらった記憶もあります。
その他もろもろ、僕らの暮らしは新製品の登場で大きく変化していきました。あまりに画期的なものもあれば、徐々に浸透していったものもあったり、あるいは話題になったわりにはあっけなく姿を消したものあった。何が言いたいかというと、その一つひとつにちゃんと驚くことができたのです。
そうした、終わりがないように感じた過渡期を経験できたのが僕ら世代だけだとしたら、これはなかなかの愉悦ですよね。若い世代にすれば年寄りの自慢に聞こえるだろうけど、進化が蔓延しすぎた現代に生きる若者たちには、今あるものが当然ではなかった事実を体感するのは至難でしょう。
しかし中には、「人類が火星に移住できる日にあんたは生きていないだろ?」と突っかかってくる奴がいるかもしれない。それはそうだけど、アポロ計画で人類が月に降り立ったのをリアルタイムで知っているから、火星もその延長に過ぎないと高をくくることはできます。
とか、世代の得意を語っておりますが、自分で製品をつくったわけではなく、あくまで時代の恩恵を受けただけということは忘れないでおきます。
本日の話は、1971年9月18日にカップヌードルが発売された史実が出発点です。お湯を注いで3分でラーメンが食べられたのも、当時は驚異的なイノベーションだったんですよね。

「また?」と呆れられても、サルスベリの花の長さには感服しかないんですよ。
