「大変ですね」
声をかけてくださった方は、ただの挨拶にすぎなかったと思います。けれど声をかけられたほうは、その言葉が妙に響いたままになりました。状況を説明します。
母親が一人暮らしをしている団地内の道路は、クルマが1台通れるほどの幅。そこに自分のオンボロを押し込み、助手席側のドアを開けて待機。ほんの数分ながら、狭い道をさらに狭くしているので、すぐにクルマを動かせるよう周囲に目配りをしていた――。
というような場面で、自転車に乗った初老の男性が通りかかる際、僕に向かって冒頭の言葉をかけたのです。
なぜ大変に見えたのか。自転車の男性には察しがついたのでしょう。僕が子供時代を過ごした団地は、今や高齢者ばかり。彼らを連れ出すときは、僕と同じ行為が繰り返されているに違いありません。そして実際に、僕は母親の通院のために訪れていた。ただの挨拶が妙に響いたのは、それが理由です。
これは本当に大変なことなのだろうか?
母親の付き添いは、移動や診察時間で半日を費やします。だから大変? いや、それらが対価の発生する仕事とわかれば、労働内容が察し切れない通りすがりの人は、「ご苦労様」はあっても「大変」とは言わないんじゃないでしょうか。
つまるところ、強いて言えば身内による見返りのない介護ないしは付き添いは、傍からは大変なことに映るのかもしれません。あるいは僕にしても、親の面倒を見ているという近い世代の話を聞けば、反射的に同じセリフを口にしているかもしれない。
もうひとつ考えたのは、自転車の男性がすでに周囲の支えを受けているからこそ、身内の大変さを実感しているのかもしれない、ということでした。
僕自身は、大変と感じたことがありません。ごくシンプルに、たとえば仕事と変わらず、自分がやるべきミッションと捉えているから。などと冷静に話せるのは、母親の状態がまだ深刻とは遠い幸運のおかげですが。
そんな感覚だったところに「大変」と言われて、「実はそうなの?」とたじろいだ次第です。ちょっと怖かったんでしょうね。様々なミッションを自ら大変と決めつけてしまうと、手をつける前に諦めそうで。
他者の判断を受け入れるべきか、はねつけるべきか、よくわかりません。ただ、悔いを残さないよう、やれることはやろうと、そう思うだけです。

桜もついに丸裸直前。寒そうね。
