科学を抒情で納得しようとする者にとっての冬至

「太陽にも雨が降っている」という記事と遭遇しました。何となく哲学的かつ抒情的な印象を受けたんですよね。それで記事を読み進めたら、「雨と言っても水ではなく、プラズマが雨粒のような塊となって再び太陽表面に落下する」という記述に到達した時点で、僕にはお手上げになりました。それは、浅はかな天文好きの限界という他にありません。
けれど、そのまま放置じゃ悔しい気もしたので、そもそも太陽って何だ? という基本に立ち返り、またあれこれ調べてみるのです。それで「ガスのかたまりの中で核融合が続いている星」と知っても、「そうなのね」としか言いようがなくなる。思考はそこで止めるべきですね。でないと、なぜ太陽はそこに留まり、僕らが住む地球に様々な恩恵をもたらすのかといった、自分にはまるで解けない難問が立ちはだかるだけになるから。
以上は前振り。そんなわけで、今日は冬至。夏至とセットで必ず触れておりますが、そこまで気になる理由を人に話しても、あまりうまく伝わらないみたいです。
冬至は、ざっくり言えば1年で昼がもっとも短い日。それが今年は12月22日で、日本ではこれからどんどん寒くなっていくのに、昼の時間は夏至に向かって毎日少しずつ長くなっていく。そのアンバランスな状況に、強いて言えば希望や期待のようなものを感じるのです。そうした感傷をもとにした説明は曖昧すぎるので、共感してくれる人が少ないのでしょう。
それから、いささか大仰な表現になるけれど、当時や夏至は、僕なりの死生観の源泉になっていると思うのです。何のかんの人間は、結局のところ星の巡りで生かされている。その絶対的な宿命を、せめて年に2回は思い出し、宇宙の時間では一瞬にすら満たない人生を生きる指針とする。
って、これも他人には怪しい団体が唱える呪文みたいに聞こえそうですよね。僕にしたって、それなりに言葉にしただけで、核心の部分はガスみたいな気分でしかないし。それに「春分や秋分じゃダメなのか」と問われたら返答に困ってしまうのです。
でも、決して見落としたくないんですよね。あるいは正月よりも、迎えられてうれしい日かもしれません。あくまで、科学を抒情で納得しようとする僕にとっては。

星の巡りがどうであれ、今の地上はこんな気分ですよね。

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