晦日に書いた慎ましさを

今年も今日を含めて2日となり、皆さまはどう過ごされているでしょうか。ここに至り僕は、あくまでわずかながら、孤独にも似た居たたまれなさを感じております。できるだけネガティブにならないようお話しますけれど、そうなる理由は、「やり切った感」が乏しかったからだと思います。
とは言え、「こんな壁を乗り越えられるか?」と臆するようなピンチ続きの日々では、心も体もしんどくなりますよね。そこまで自分を追い込まずとも、もう少しやれたんじゃないか? もっと多くを求めるべきではなかったか? という物足りなさが、毎年この時期の僕を攻め立ててくるのです。
例年の疑問はまだあります。それら不足感を迎春による強制リセットでチャラにしていいのか? これもまた悩ましい問題です。かつては誰もが元日にひとつ歳を取っていたので、生まれ変わりを期待するなら横並びの初期化に身を委ねてしまっていいのかもしれません。あるいは、特に再起を誓いたい場合、大きな節目が救いになったりもするでしょう。
それでもなあとジクジクした気持ちを抱くのは、僕の中にはまだ燃えたぎる意欲があるからのか、はたまた自分のポテンシャル低下を気付けないでいるせいなのか、これもよくわかりません。わからないから居たたまれなくなる……。
しかし、様々な問題を挑むべき課題に変えることはできそうです。先日の野球最終戦。見逃し三振で最後のバッターになるという不甲斐ない結果に終わりました。フルカウントで苦手な外角に手を出せなかったのが原因です。あの場面、あわよくばファーボールで出塁しようなどと考えず、どんな球でも打ちに行くべきだった。そうできなかったのが自分の弱さと判明すれば、来年はやり切った感を得るための練習ができる……。
とまぁ、自分を戒めるファクターは至るところに落ちている事実を忘れちゃいけないのだけど、最後になってそれっぽくまとめたところで、ネガティブな印象が拭えない話になっている自覚はあります。大晦日ではなく、あえて晦日に書いた慎ましさをご理解いただければ幸いです。

今年最後の試合は、今年最高の球場でできました。

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