つける嘘とつけない嘘

時事関連に触れます。電力会社が行った不正データ事件。歴史的な被爆体験や原発事故を経ている国なのに、なぜそんな捏造や改ざんができたのか、どうしても理解できません。その背景や事情、および嘘の良し悪しを取っ払って、こんなことを考えました。
端的に言います。人が集まる組織は、わりと簡単に嘘が生まれるんじゃないでしょうか。なぜなら、それが会社や団体の名称のもとにつくものだから。
けれど、どんな組織であれ、最初は嘘じゃなかったかもしれません。やむにやまれる中で微かに沸いた期待が、何人かの耳に入る過程で確信に偏り、組織の総意として固まっていく、ように思えます。
そこで起きているのは、責任の転嫁または希薄化。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という古の名ギャグがあるけれど、仮に嘘をつくにしろ、「みんな」である組織が行っていることだから通せるに違いないと強気になってしまう。
しかし、みんなで渡ろうと一人ひとりの信号無視は罪だし、集団で赤信号を突っ切る場面にクルマで遭遇したらたまったもんじゃありません。そうした集合体による判断の見誤りを、集団的浅慮と呼ぶそうです。
対して一個人は、社会を揺るがすような重大な嘘はつきにくい。0.5秒でも考える時間があれば、バレたときの責任を一人で負い切れない恐怖におののくはずです。それに個人名で虚偽を働けば一発アウト。当分か、または無期で社会的地位が取り戻せなくなる。
もちろん組織の虚偽も、やがて責任者の名前が公表され、この社会から弾かれる可能性が高まります。それで会社までなくなるかというと、首のすげ替えで生きながらえるかもしれないし、それが社会インフラを担う組織なら、なくすになくせない苦肉の策が取られるでしょう。
以上は、個人名で仕事をしている僕の、いささか穿った組織観です。特に恨みはありませんが、何かが起きたとき、社員たちが会社の名のもとに説明してくるケースは何度も経験しました。本当のことを言ってくれたらいいのにと思ったりするけれど、そうもいかない場合は嘘を利用するんでしょうね。でも大丈夫。僕一人くらいじゃ社会的な問題にならないし、理解できる範囲の嘘ならぐっと飲みこめるから。

極寒期はエンジンがかかり難い我がオンボロのスイッチを入れるときの、祈るような気持ちは誰も知らない。知らないほうがいいけれど。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA