嫌いとか苦手とか

嫌いと苦手について考えています。この二つは、似て非なるものなのか。それとも、似てさえいないものなのか。その区別がポイントになるのかもしれません。
食べ物を例にしてみます。僕は好き嫌いが少ないほうだけど、苦手で真っ先に思い浮かぶのがホヤです。まず、食べ馴染みがない。宮城あたりの人によれば、ごく普通に食卓に上がるらしいのですが、関東の家庭に育った僕にはまるで縁がなかった。
そんなこんなで、だいぶ大人になるまで目にすることすらありませんでした。何かの折に、やはり東北出身者に勧められて食べてみたんですね。見た目の臓物感がしんどいと、それとなく遠慮したのだけど「切っちゃえば大丈夫」と返され、恐る恐る口にしたら、僕には生臭さが強かった。なので、これは無理な食材と決めつけようとしたら、またあるとき、極めて新鮮なホヤを食べる機会が巡ってきたのです。これは生臭くなく、意外にイケるんだと感じました。
だからと言ってホヤ好きになれたわけではありません。結局は、克服する理由が見つからないので今でも苦手なまま。ただ、誰かの好物にケチをつけるつもりはないし、ホヤに恨みを覚えることもないんです。その感覚に鑑みると、自分は食べないという条件を設定できれば、存在自体を許容できるのが苦手と論じていいのかもしれません。
では、嫌いとは? 再びホヤを例に出すと、仮に何かの縁でとても美味しいと感じて、人に好物を聞かれたら「ホヤ!」と答えるまでになったとします。ところが、何かの手違いでホヤのせいで食あたりを起こした場合、僕は心から嘆くと思うんです。こんなに好きになったオレを裏切るのかと。こうなると、二度と交わろうとは思わなくなる。遠くから「ホヤが旬です」という声が聞こえても。
つまるところ嫌いとは、一度は好きになった経験があるからこそ生じる感情なのかもしれません。なおかつ、時間を費やした先で白が黒に反転するほどの衝撃を伴うから、記憶の定着力が強い。ゆえに心の中から消し切れない可能性が高くなるのでしょう。
え~と、男女間の話ではありません。かつて仕事をした仲間にそういう人物がいて、最近になり様々な噂が耳に入るようになったので、こんなことを考えてしまいました。正直なところ、うっとうしいです。嫌いとか苦手とかに惑わされる自分の狭小な思考が。

5階の窓へようこそ。

 

自分とは無縁と言えばそれまで

かつて5月16日は、高額納税者を公表する日でした。税務当局が定めた高額納税者公示制度によるもので、これを受けて情報番組あたりがネタにしたのが長者番付でした。今は見ませんね。2005年いっぱいで制度が廃止されたからです。
始まりは1947年。高額所得者の所得金額を公示することで、第三者の確認による脱税牽制効果を狙うのが目的だったそうです。この目的を果たすため、第三者たる情報提供者には、脱税発見額に応じて報償金を支払う第三者通報制度も導入されていたとか。あまりに危なかったしい制度なので、1954年にはなくなりました。加えて、1983年度からは所得金額ではなく納税額に改められています。まぁ、多少は間接的になったというか。
ある文献には、この制度によって世間に名を知られた人は、多くの税金を納めることで多大な社会貢献を果たす人物として崇められる効果もあると記されていました。そんなお金持ちのおかげで島に橋が架かったなんて話があるのかもしれませんが、たいがいは感謝より妬みを抱くのが人間ってものではないでしょうか。
対して高額納税者にすれば、正しく税金を納めたのに妬まれるのもたまったもんじゃないはず。しかもこの公示は、氏名や住所を記載した名簿をつくるのが慣例でした。氏名はカタカナ表記という、これまたお茶を濁したっぽい間接的な措置が取られていたものの、バレないはずがない。驚くべきは、この名簿が市販されていたこと。だからマスコミは勝手に長者番付をつくれた。
そうしてより広く世間に高額納税者である事実が伝わったせいで、強盗に狙わる事件も起きました。それを恐れた高額納税者は、相応の費用や手間をかけて公示逃れの策に出ます。するとマスコミがあれやこれや指摘し、噂を聞きつけた税務当局は脱税扱いにしてしまった。なかなかの横暴ですね。
そんなこんなで、最終的には無茶がたたって、2005年いっぱいで高額納税者公示制度は反故に。よかった、のかな。実のところ、そこがよくわかりません。所得税額1000万円超が高額納税者らしいので、自分とは無縁と言えばそれまでです。
ただし、税金についてはちゃんと知りたいと思います。特に消費税の在り様は、税務当局を含め公の場で行われる、まっとうな議論を聞いてみたいものです。

僕がスケートボードを初めて見たのは18歳くらい。オリンピック競技になるなんてねぇ。

 

昔はどうしてたんだろう?

「昔はどうしてたんだろう?」と疑問に思うのは、昔を知っている人に限られるんじゃないでしょうか。今しか知らない若い世代は、比較材料としての昔を経験していないから。
ややこしい言い回しですね。ここで取り上げる“今”の代表格は、スマホ。この21世紀前半で大普及している文明の利器で僕がもっとも重宝しているのは、ナビゲーション機能を備えた地図アプリが使えるところです。それ以前にドライブの助けとなっていたのはカーナビですが、僕はそれ、自分のクルマに装着したことがありません。古臭いデザインのクルマには合わないという趣味の問題以上に、およその経路は事前に下調べしておくものであり、なおかつ運転前にいちいち目的地を入力する行動自体がカッコ悪いと決めつけていたからです。
そんな見栄も外聞も、GPSの精度向上に伴い、リアルタイムに近い道路状況を表示してくる現在の地図アプリは軽々と吹き飛ばしてしまいました。未知の遠方へ行く際に留まらず、道をよく知っている都内でも、最短ルートの検索に手放せなくなるなんて、オレも変わったなあと照れ臭くなります。
そこでふと「昔はどうしてたんだろう?」と考えるわけです。そりゃもう印刷物の地図に頼るしかありませんでした。同乗者がいてくれるなら、膝の上に地図を広げてもらってナビゲーターをお願いしたわけです。単独で知らない場所に向かうときは、前夜に地図を読みこんで、場合によっては自分流のコマ地図をつくったりもしました。交差点名に右折や左折と記すような感じで。
それは不可欠な準備でした。料理をするなら鍋や釜が必要なのと同じように。とは言え、道を間違えることも少なくありませんでした。ナビゲーターが地図を読むのが下手だったり、あるいは手書きのコマ地図が間違っていたり。でも、そういうことが起こり得る前提でいると、景色を見て運転する意識が高まるので、道を覚えられるようになります。
しかし、それを今時の若い世代に自慢しても、「ああ、そうですか」って呆れられるのもわかっています。地図アプリのアナウンスに従ったほうが運転に集中できるんじゃないかと問われたら、返す言葉もないし。
それでも僕は今でも、未知の場所に行くときは、少なくとも前夜までには地図アプリで経路と時間を確認しておきます。運転者として、何も知らずに発進するのはカッコ悪いと思うから。自動運転が叶う頃には、そういう過去からの縛りもこの世から消え去るんだろうけど。

まだ未体験の都心から羽田に降りるルート。渋谷はどう見えるんだろう。

 

 

懸命な見栄

「昨日、すっごく疲れませんでした? 私なんか、家に帰ってすぐに爆睡で、10時間も寝ちゃいましたよ」
これは、この週末の3日連続アウトドア取材の、土日にいっしょだった30代女子の言葉です。確かに土曜日は1日中炎天下で立ちっぱなしだったから、疲れるのも無理はありません。で、聞かれた僕は、その段になって自分の疲労具合を確認して、「そう言われてみれば、脚にだるさのようなものはあるかなあ」と答えました。
実は、少しだけ見栄を張りました。実際にそれとなく脚にだるさがあったのは事実。なおかつ土日は、2日続けて片道2時間の運転で取材地を往復する予定だったので、相応に疲れることも予想していました。
ただ、自分から疲労を話題にしたくはない。すれば嫌われるんじゃないかと怖くなるから。これはわりと真剣に気を遣っている部分です。ずいぶん前から、ともに仕事をする仲間は年下ばかり。30歳下なんてざらです。当然ながら彼らにすれば、僕は30歳も年上で、そんな親くらいの人間が何かにつけ「疲れたなあ」と口にする姿は見たくないと思うんです。若い頃の僕がそうだったし。
誤って疲れを吐露した先で何が起こるかというと、「この人、もういいや」なんです。これはフリーのライターにとって死の宣告そのもの。もちろん、よい原稿を書く力量があれば相応の依頼があるはず。しかし現場に赴く取材は、スタッフといっしょに同じ体験をする。言い方を変えれば、ともに疲れることが必須条件なんですよね。
とは言え僕も不死身ではないので、たとえば3日連続アウトドア取材が明けた昨日は、ちょっとぐったりでした。その凌ぎ方は、睡眠時間の確保に他なりません。さすがにこの週末で10時間は寝られなかったけれど、そこはベテランなので、あの手この手で実はよく寝るのです。
なんてことを若い仕事仲間に知られたら、「この人、そろそろかな」と思われるかもしれません。まぁでも、当分は現場で情けない様子を悟られないよう必死で努める所存です。いやまったく一介のフリーは、知力よりも体力。あとは懸命な見栄が大事なんですよね。

あんな高所の縁に自ら立とうとする人の気持ちが、僕には1ミリも理解できない。

意固地な日焼け

先週末は、久しぶりにアウトドア3連発でした。金曜日は午前中から夕方まで宮下公園、じゃなくてMIYASHITA PARKで新車の発表会。会場が屋上の芝生ひろばと呼ばれるスペースで、昔より高い位置になったせいか、日差しが一段と強かったです。
土曜日は、関越道東松山ICからクルマで約15分のビール工場内での音楽フェス。確か5月としては記録的な暑さだったにもかかわらず、これまた日差しを遮るものがほとんどない広場でした。
そして昨日の日曜日は、金曜日の新車発表会に関連するMIYASHITA PARKのイベントを昼過ぎまで取材したあと、ビール工場内音楽フェスの2日目へ。東京から埼玉あたりは曇りがちだったので、日差しや気温にひぃひぃ言うことはなかったです。いずれにせよ、どのイベントもうんと前から屋外で開くことが決まっていたので、関係者の皆さんは晴天に感謝されたと思います。
僕も感謝しました。ここが日焼けのチャンスと思ったから。毎年5月くらいにアウトドアでの取材があって、そこで一足早く夏仕様の自分になるのが楽しみなのです。
今時日焼けが流行らないのはよくわかっています。風邪の予防になるというのは古い迷信らしいし、紫外線の類が体によくないという研究結果もよく目にします。悩ましいことに、光老化なんて現象もあるらしい。長年紫外線を浴び続けると、肌に生じた活性酸素のダメージが蓄積されて、肌の老化が進むんだそうです。シミや深い皺やたるみをつくるだけでなく、白髪や白内障、皮膚ガンまでも……。
それが客観的事実なんだろうと思います。だけど、これからやって来る半袖短パンの時期に白い肌というのが、どうにもしっくりこないんですよね。あくまで個人の主観であり、これだけ語られている健康被害を無視する阿呆の考えに過ぎません。ただ、こういう自分でいたいという意固地が僕を日焼けに導くのです。
飲み仲間にアフリカ系アメリカ人がいて、彼がよく自分の腕と僕の腕をくらべながら、こんなことを言うのです。「黒人の僕より黒いんじゃないの?」。ジョークなんだろうけど、返し方がわからないですよね。ちょっと面倒臭いので、今年は彼より黒くなってやろうと思っています。いやいや、それでまた意固地が膨らむのも大人げないよな。

あの麦わらのでっかい束。大人も乗ってみたいはずだよね。

深刻に考えない母の日

「私もついにボケたねぇ」
そんなことを母親は、例によって電話でカラカラと言い放ってきます。カラカラは明るい響きのオノマトペ。なので言葉尻を真に受けないようにするのだけど、ひとまず老人の発言なので、軽く身構えたりはします。
「わざわざ銀行まで行って、通帳を忘れちゃうんだから困るよねぇ」
どうやら前の日に、外出で済ますべき用事を細かくメモしておきながら、当日の出がけに別のことに気を取られて、それで通帳を持ちそびれたらしい。
確かにボケてはいます。本人がどう思っているかわかりませんが、昔からおっちょこちょいなところは多分にありました。あるいはさすがに高齢なので、認知症が始まっている可能性を完全には否定できません。
ただ、あくまで勝手な判断ながら、通帳を忘れてしまった原因を正しくつかみ、ミスを後悔した上で笑い飛ばしているうちは、それほど深刻に受け止めないでおこうと思っています。僕にしても、加齢によって起きるいくつかの情けなさを本気で情けないと悔やんでしまえば、ひたすらしんどくなるからです。それに、本人は笑い話にしたいのに周囲が真顔で心配したら、当人が不安に駆られてしまうだろうから。とは言え、そうした猶予がいつまで続くかは、さりげなくも注意深く見守らなければならないと思いますが。
さておき、今日は母の日。今はどうか知りませんが、僕が小学生の頃は、お母さんが生きているなら赤いカーネーションを。お母さんが亡くなっているなら白いカーネーションを贈ると教わりました。実際に白組だった同級生がいたりすると、それとなくクラスが無言のざわつきを見せて、ずいぶん残酷な区別をするもんだと子供ながらに悩んだものです。
色分けの正式な理由はわかりませんが、アメリカの母の日の起源とされる行事で、亡き母を偲んだ娘が、母が好きだった白いカーネーションを参加者に配ったらしいんですね。それが後々の色分けに紐づいたところがあるような。何にせよ型は大事ですが、母が好きな花なら何でもいいんじゃないかと思うのは罰当たりでしょうか。
いやいや、罰当たりを続けているのは、母の日に何も贈らず今日まで来ている僕です。だからと言って突然赤いカーネーションを届けたりすれば、驚いた拍子に体調を崩すかもしれません。何もしないことが定番なら、それを深刻に考えないのも大事だろうと、そうして今年の母の日も何事もなく過ぎていくのだと思います。

カーネーションよりバラが好きなお母さんもいらっしゃるでしょう。

弱り目に祟り目

弱り目に祟り目? いや、泣き面に蜂。あるいは、踏んだり蹴ったり……。ふむ、どれもふさわしいようでいて何か違って感じるのは、偶発的不運の連続ではないと思うからです。
部屋の鍵をなくしました。見当たらずに焦ったのは、近所まで買い物に出ようとしたときです。つまり僕は部屋の中にいた。ということは、最後に出かけて戻った昨日の午後、僕は鍵を開けて部屋に入ったわけです。となれば鍵は、この部屋から外には出ていないはず。なのに、どこを探しても見つからない。狭いと評すべきささやかなスペースなのに。
大事なものは、常に置き場所を定めておけばいい。その通り。普段は、自宅に戻ったら机の隅に置くようにしています。クルマの鍵も同様。なのでたいがいは、机上が散乱していてもその中からカチャカチャと現れてくれます。
しかし今回に限り、最後に机の上に置いた映像記憶がない。ふとよみがえったのは、最後の外出から戻った瞬間の様子でした。たぶんちゃんと部屋の鍵を開けて下駄箱まで入り、一抱えの荷物を近くのテーブルの上に投げ出した。その刹那、意識の中では「あ、鍵」とつぶやいたんじゃなかったか。ただ、意識下の文言をもう一度なぞるようにして鍵の在りかを確認しなかった。
敗因はそれ。とは言え室内の出来事だから、本格的かつ本質的に消え去るはずはない。そういう思いが焦りを募らせていきます。今日だって出かけなくちゃいけないのに。
結局のところ大家さんに連絡し、マスターキーの合鍵をつくるのではなく、シリンダーから全交換してもらいました。親切な方だと知っているので、こんなことでお手間を取らせたくなかったです。
そんなわけで、このあと従来の鍵が見つかったところで使うことはできません。なのに、死んだ子の齢を数えると言えばよくないか、割った茶碗を継いでみるというか、いまだに古い鍵が気になって仕方ないのです。この町に住んだときから使っているキーホルダーだったなあとか、昨年の夏に手放したオートバイのオリジナルキーもつながっていたなあとか。
そういう思い出が、紛失に連鎖する弱り目に祟り目なんでしょうね。特に根拠はないけれど、しばらくしたらふっと出てくるような気がするんです。冷蔵庫からとか。まぁ、そこもくまなく捜索しましたが。

アルファベット表記になってからのMIYASHITA PARK。初めて行きました。よいところね。

愛鳥

本日5月10日から16日まで愛鳥週間。野鳥保護思想普及のために鳥類保護連絡協議会が設けたそうです。って言われても、ピンときませんよね。僕にしてもそうですが、記憶の中ではささやかな接点が無きにしも非ず。
小学6年生のとき、飼育部に入りました。その当時はセキセイインコを飼っていて、近所の小さなペットショップにもよく出入りしていたので、それとなく飼育に興味があったのかもしれません。そんなわけで部員としては、愛鳥週間に何かを企画しなければならなかった。けれどたぶん、自作のポスターをつくって校内に貼った程度だったと思います。それがどんな効果を挙げたかはまったく覚えていません。
さておき、最初に飼ったセキセイインコは、10年を越える長寿でした。借家住まいなので犬猫とは無縁。ペットと言えば金魚が関の山だったので、肩や手にとまるそれは生物のぬくもりに満ちた、本当に愛しい存在でした。それゆえ愛鳥という言葉に触れると、あの黄色に緑が混じったダミ声のインコを思い出します。僕より父親に慣れていたのは、ずっと癪だったけれど。
いやいや、愛鳥週間は野性の鳥向けだった。
4月末のニュースですが、千葉県野田市ではコウノトリの自然界における繁殖が確認できたそうです。両翼を広げると2メートルに達する国の特別天然記念物なので、野生化に努めてきた方々にすればうれしい限りだと思います。
他方、ウチのベランダあたりから毎日見かけるのはカラス。次いでスズメ。池の公園まで行けば、水辺に集まる野生の鳥が何種か確認できます。意外なのはオウムの類。大学の森を根城にしているらしく、けっこうな数の群れで生息しているようです。あれほど鮮やかなグリーンが日本固有種のはずはなく、目に入った瞬間なかなかの違和感を覚えますが、飼われていたものが逃げ出したか追い払われたかで野生化したのでしょう。すべては人間の仕業。この1週間を機会に、それも愛する心を持ちたいと思います。

右折車線の高架下に、なぜか造花。自然じゃないものって、不自然が際立つなあって。

何でも当事者になるのも

メジャーリーグが開幕してから、午前中はほぼ毎日ドジャーズの試合を見るのが習慣になっています。大谷翔平さんが気になるから仕方ないのだけれど、弊害がないわけではありません。最大の懸念は、前夜を含めた、その日そこまでの世間の情報を知るのが遅れること。まぁ、試合の録画やライブ中継を見た後で知ったところで、実質的な問題は起きたりはしないんだけど。などという呑気さは、まさに高を括った悪い見本でした。
昨日のライブ中継の合間、先発の山本由伸投手も大谷選手も画面に映らないタイミングで他局のニュース番組にチャンネルを移したら、食品の異物混入報道が飛び込んできました。これがまた僕が好んで買う食パンブランド。「さっき朝飯で食べちゃったじゃん!」と声が出るほど驚いて、慌ててネットで調べたら、ブランドは同一ながら製品が違っていました。生産ラインも異なるらしいので、たぶん僕の食パンは大丈夫だと思うけれど。
何にせよ、テレビやネットで伝えられる事件や事故は、なぜか遠くでき起きているように感じがちです。それはおそらく、すぐ近くで事件や事故が起きていない幸運の連続がもたらす危機感の喪失に他なりません。だからできるだけ、数少ない自分の経験をもとに、実際の被害に遭っている方々の大変さを想像しようと努める。けれどやはり、想像は現実に勝てません。
ここのところは、当事者になったからこそわかる心情の変化に触れています。いやまったく、「そうらしい」と「そうだ」は完全に別物ですね。他者を思いやるなら、あれこれ経験しておいたほうがより親身になれるのでしょうが、かと言って何でも当事者になるのも、なかなかしんどいものですね。
さておき僕の食パン。袋の中をのぞいた限り異常は確認できず。でも、どうしたものだろう。

雨の日に履くべき靴は、完全に濡れないか、濡れていもいいかの二者択一。

当事者の気持ち

1年前の今日は、新型コロナが季節性インフルエンザ等と同様の5類に変更された日。これを持って外出時のマスク着用は個人の判断に託され、2020年に始まったコロナ禍の終幕と受け止められました。
この件に関しては、当初から何かしら書くつもりでいました。それまでとそれからで変わった気分の記憶とか。しかし、まさかこのタイミングで感染すると思っておらず、よって現在の気分は大きく変わってしまいました。
医師から指示された自宅待機期間が終わり、食料など調達せねばならないので買い物に出るわけですが、誰かに害を及ぼさないため積極的にマスクを装着しようとしたのは、おそらく人生初かもしれません。インフルエンザが流行しても無視してきたし、あるいはコロナ禍であっても、手軽な感染予防として利用したけれど、どちらかと言えば世間に同調する措置として取り入れた感が強かったと思います。元より自宅仕事なので、マスクをつけている時間も短かったし。
そうして街に出てみると、マスクをされている方がけっこういることに気づかされます。いや、何となく目に入ってくるというより、装着率を自ら確認しにいっていると言うべきですね。この時期にマスクをしている自分が変に見えないか心配になって。
そこでこんなことを思うのです。大方は予防でマスクをされているのだろうけど、中には僕と同じ事情の人がいるかもしれないと。
気分や心情の変化に伴って、新たに気にし始めたのが、新型コロナの定点把握データです。5月7日に速報値が発表されました。東京都は前週から0.38人減の2.39人。全国も0.42人減の3.22人。以上は4月22日(月)から4月28日(日)の平均値なので、都の場合は約400の指定医療機関数、全国なら同様に約5000を掛けると、1日当たりの概算実数が見えてきます。
ちなみに、僕が行ったクリニックが指定医療機関かどうかは不明ながら、5月2日(木)に診てもらったので、僕の結果が速報値には含まれるのは来週になりそうです。数字に名前はないけれど、たぶん気になってチェックするはずです。不謹慎と叱られそうですが、当事者になってみないとわからないことは多いというのが、今の偽らざる気持ちです。

連休明けでいきなり嵐みたいな天気。厳しい現実を突きつける気?