あり得ないこと、というものがこの世にはあるけれど、あり得た瞬間にそれはあり得ることとして、来るべき未来が想定する範疇に収まっていきます。そう考えると、時間が経つほどに実現の可能性は膨らんでいくわけだから、何でもあり得ていくんだなあと、未来は忙しいなあと思います。
そのすべてが、僕らの日々を豊かにしてくれるものだったらうれしいですよね。手元にあるスマートフォンはその代表例ですね。つい数十年前まで電話が持ち運べるなんてあり得ない話だったし、インターネットを日常的に利用するなんて夢にも思わなかった。
しかし残念ながら、あり得ないことをあり得ることにした不幸な例もたくさんあります。それを思い起こさせるのが、8月6日の広島。そして9日の長崎。
あり得ないことというのは、あり得なさをイメージできた時点であり得る芽を生んでいるのかもしれません。人間という生物に、その想像と創造は止められないのでしょう。けれど僕らが真に間抜けでない限り、あり得てしまったことを再びあり得ないこととして刈り取れるはずです。そうであってほしいと、そうでありたいと、願うばかりです。
昼間にクルマで行くのは久しぶりだった、絵画館前の銀杏並木。盛夏に緑が燦燦。