Ama diver!

先日の取材旅行のささやかなエピソードです。場所は、宿の喫煙ルーム。タバコを吸わない方には忌み嫌われますが、罪悪感を覚える者同士がひっそりと情報交換するには最適なスポットだったりします。
前夜もほぼ同じタイミングで煙を吐き合った外国人カップルと再会したのは朝食後。宿泊施設に備わる喫煙ルームは、致し方なく設けられた留置所みたいに狭いんですね。そこは廊下の角の外気に晒されたスペースで、椅子も4脚のみ。先に僕らのグループがぷかぷか。そこに男性が「Excuse me.」とつぶやきながら入ってきた。彼の表情には、「済まないけれど混ぜてもらっていいかな」という遠慮と、「昨晩もここで会ったね」という親しみが浮かんでいました。
「ベルギーから3週間前に」
これは、僕の横に座った男性にどこから来たのかたずねた際の答えです。「ほお」と声が出てしまいました。どこからだって日本に来ることはできるのに、ベルギーという国名になぜか意表を突かれた気持ちになったからです。
「まず東京に着いて、大阪や京都を巡ってからここに来たが、いちばんの目的はドウォバ」
ドウォバ? お台場? それどこ? みたいな顔を僕が浮かべたら、男性は首を小さく振りながら不慣れな地名を絞り出してくれました。「ミエのドウォバ? いや、トバ」
三重県の鳥羽? これも意外。だから聞き返さずにはいられなかった。Why Toba?
「Ama diver!」
海女さんに会いたかったそうな。彼はシェフをやっているらしく、日本の海産物とその漁獲法に興味があったみたいです。でもね、関東あたりから鳥羽まで出かける人って、そんなに多くないと思うんですよね。なのにはるか彼方のベルギーに暮らす料理人は、三重県の志摩半島の小さな町を目的地に選んでやってきた。現地ではどんな紹介をされているのか、めちゃくちゃ知りたくなりました。何しろAma diverですからね。どんな印象を持ったかも聞きたかった。
そのあたり突っ込んでみたかったけれど、僕の英語力はカサカサだし、喫煙ルームでの対話時間はタバコ1本分が紳士協定的。「よい週末を」と言い合って別れました。
外国人観光客のオーバーツーリズムが取り沙汰されているけれど、日本に寄せる個々の関心まで十把一絡げで語ってはいけませんね。それにしても鳥羽か。取材で一度だけ訪れたことがあるけれど、東京からでもずいぶん遠いと感じたんだよなあ。

表通りの裏手の家々のそこここに。

 

 

アポロから修学旅行まで

7月20日は、後に記念日の由来となるような、大きな出来事がいくつも起きた日みたいです。
アポロ11号が月面に着陸。人類が初めて地球以外の星に降り立ったのが1969年の今日。ライブだったかどうかは忘れましたが、夏休みを直前に控えた小学1年生だった僕は、テレビでその様子を見た覚えがあります。当時はアメリカとソ連の冷戦時代で、宇宙開発競争を代理戦争に見立てていたとか、そういう重い話はまったく耳に入ってきませんでした。そんなことより、人が月面に立ったという事実に鳥肌が立つような高揚感を覚えたんですよね。それ以降は月の眺め方が変わったりして、あらゆる未来は満月のように輝いていると思えた。今となっては懐かしい感覚です。
そしてまた、山梨女子師範学校の女子生徒22人が京都・奈良・伊勢に旅立ったのが1899年7月20日だったことから、今日は『修学旅行の日』でもあるそうな。実際には修学旅行という名称ではなく、「体力養成実地修学」。めちゃくちゃタフそうですね。山梨から徒歩で往復したのかな。そんなはずはないか。
クラスメイトたちとお泊りするってのは、ワクワクとワサワサが交錯しますね。でも、ワクワクは中学までだったかな。男子校だった高校時代のそれは、ワサワサした記憶しかありません。それぞれいろいろお考えはありましょうが、やはり思春期は相応に異性との接点を持ったほうが後々の人生を過ごしやすくなると僕は思います。理由について詳細に述べるのは、別の機会に譲りますが。
1971年、やがてスマイル0円を記載するマクドナルドの1号店が銀座で開店。1981年、郵政省が東京・名古屋・大阪の三都市間でファクシミリ電送業務を開始。それらも7月20日。初めてマクドナルドを口にしたのはいつだったかな。ファクシミリは、1980年代半ばから2000年代の初め頃までしっかり活用しました。締め切りぎりぎりの手書き原稿を何十枚も送ったりとかね。
当然のことだけど、すべて過去の、今の若い人にはお伽噺みたいな出来事ばかり。新しい話をしたいですね。呑気にやり過ごすのではなく、今日起きることに注目せねばと思います。

梅雨の最後の日。

もてなすとは

「もてなす」とはどういうことなのか、あれこれ調べてみると複数の説明が出てくるので、そもそも意味合い自体が曖昧な言葉なのでしょう。なおかつ日本人の精神みたいなものまで関わってくるので、かなりややこしくなります。
「ごちそうする」という意味があるそうです。となれば、タダのものなのか。確かに、たとえば家族や友人など親しい間柄の家に招かれ歓待された場合は、そのもてなし自体に直接的な対価を払いませんよね。招待の繰り返しで仲を深めていくことが目的でもあるから。あるいは通例でもあるから。
他方で「世話をする」という意味もあるので、客商売では優れたもてなしを売り物にします。しかし、もてなし自体には値段をつけられない。ゆえにもてなしを品書きに加えることもできない。なぜなら日本人的感覚のもてなしは、料理の手法や素材や、店の設えと言った物理的投資ではなく、世話に代表される(無償に換算されがちな)人の行為に他ならないから。
ふと思い出したのが、「スマイル0円」。メニューの端っこにそんな表記をしたのはマクドナルドでした。あれは笑顔をもてなしと判断する日本ならではのギャグですよね。なおかつ、それがタダでなければ納得されないのも実に日本的。海外でもやっていたのかな。どうなんだろう。
そんなこんなでもてなしは、割引や値下げ、もしくはタダと混同されるくらい、客が求めて当然の世話と思われがちな風潮が根付いています。でも、それは改められるべきです。お品書きにもてなし料が記載されない現実は、自分が一方的なサービスを強いられたときに実感するだろうから。その報復感情を別の場所や相手に向けてしまうのかな。
話がぐしゃぐしゃになってきました。この値段なら当たり前と思う以上のもてなしを体感させてくれた宿泊施設に行ってきました。しかも一人だけではなく、従業員のほとんどから同じレベルで。それを、企業の方針に則った教育が行き届いているというような、有体の評価に留めたくないんですよね。
あえて、心がこもっているとは言いません。そのもてなしは、確かな満足が得られる上に、もう一度訪れたい気持ちにさせるだけの優れた売り物になっていると、そう言わせていただきます。あれはタダじゃない。まぁ、僕は取材なので無償で経験させてもらいましたが。

鬼怒川です。

 

家を建てるなら

風光明媚な場所でランニングしたい願望がゼロの僕が走るとすれば、自宅をスタート&ゴールにした住宅街を周回するしかありません。目新しさはないけれど、1年を通じてコース周辺の些細な変化に気づけるのは、それなりに楽しいものです。
中でも目を引くのが建築。これも、古い家屋が取り壊され、平地になり、そこに新しい家が建っていくという町の変化ですから、走る際の些細な楽しみになります。
そうした新築物件って、案外木造が多いみたいです。自然災害の凶暴さが取り沙汰されているので、懐かしい『三匹の子豚』を思い出せば、藁の家より木の家よりレンガの家のほうが安心できるんじゃないかと思うわけです。しかし地震大国の日本には当てはまらない常識というか、間違った認識なんだそうな。
他の材にくらべて軽量。これが木造建築のメリット。ある資料によると、木造の住宅を1とした場合、鉄骨造で1.5~2.5倍。鉄筋コンクリートで3倍の重さになるらしいんですね。地震が発生したときに建物にかかる力は建物の重さに比例するというので、ならば軽い木のほうが安全なのだと。硬そうなら堅牢というわけじゃないんだ。
材料が安価。断熱性の高さと調湿作用を有する点。そして増改築のしやすさも木造のメリットですって。対してデメリットは、天然素材ゆえばらつきが出ることと、白アリ対策が不可欠なこと。なるほど。
そうした説明を知らずに生きてきたのは、僕が自分の家を建てようとする経験を持たなかったからです。なぜ家を欲しがらなかったのだろう。これは我が人生最大の不思議でもあるな。
一方で、人様のお宅が出来上がっていく様子には多大な興味を覚えます。おそらく家を建てる人は、建築の様子を眺めながらどんな暮らしをしようか想像するのでしょう。けれどそこに住むはずもない僕は、無垢の木の柱の美しさに足を止めます。このままでもいいんじゃないかなあと勝手な思いを抱きながら。
そういうときって、「自分が家を建てるなら」という発展的な考えが浮かばないんですよね。生まれついての根無し草性か、キリギリス症候群の最たるものかもしれない。あるいは、もはや養育は無理と世間に出されて我が家を建てようとした、あの有名な豚の三兄弟の足元にも及ばない生活意識の低さが災いしているのかもしれません。

無垢の木材が組み合わさって構造物になっていく姿が好きなんです。

セントとテント

漢字、平仮名、片仮名と、3種の表記を用いて多彩な言葉をつくり、なおかつ国民のほとんどが使い回せるところに日本語のおもしろさがあると思っています。ただし、多彩ゆえに生じる意味の曖昧さに言動の逃げ道を用意している点で、他国の人には理解しがたい言語だとも思います。何を言っているか、わかりにくいですよね。つまるところ、セントとテントの話です。
今日は『東京の日』。慶応四年七月十七日(西暦1868年9月7日)、明治天皇が発表した詔勅(しょうちょく)で、江戸を東京に改称すると伝えられたことに由来しているそうです。
ご存じの通り、それまでの江戸は徳川家が約260年間に渡って幕府を置いた、国内政治の中心地でした。しかし将軍すら治める天皇が江戸時代より長くおられたのは京都。このややこしい二重構造を、慶応四年一月に樹立した新政府は改めようとしました。
そこで年内中に明治へ改元する直前、政治と天皇を密接に機能させるべく、江戸を改め東京という新しい首都が設けられた――。そういう説明で済むなら話は簡単。実は現在も東京は、法的に首都ではないらしいんですね。
明治天皇が発した地名改称の詔勅は、実質的に天皇が東京に住まうことが示唆されていました。であれば、一国の政治と文化の中心地すなわち首都を移す遷都(せんと)とすべきなのです。ところが歴史的に天皇と深い関係を築いてきた京都に気を遣ったんですね。京都に対して東の都という名前を用意したのは、その表れに他なりません。
なので明治時代初期に実施された政治的機能の集約は、新たに都を定める奠都(てんと)と位置付けられました。これについては、現在も正式に改められていないそうな。
「どっちでもいいじゃん。すでに東京が日本の首都だと思っている人しかいないだろうから」というのが現代人の感覚でしょう。でも個人的には、遷都と奠都の使い分けでなし崩しに事態を収拾しようとする曖昧さにこそ、今も脈々と受け継がれている日本人の感性が見て取れると思います。言葉が存在するから、それもありと許容してしまうのは、果たしていいことなのかどうか。
「だから都は移っていないし、天皇さんも長く留守にされてはるだけ」という意識を持った京都の方が今もいらっしゃると聞きます。そんな感覚をおもしろいと受け止めてしまえるのも、僕の中に根付いている日本人的感性によるものでしょう。一字違いのセントとテントも、その類かもしれない。それでいいのかな。

ベランダの先の絵画的世界。

初鳴きは海の日

ふと、今年はまだセミの声を聞いていないと思ったんです。机に座って目の前の北側の窓をぼうっと眺めながめているときに。
すると、突然ジージージリジリミーンという、アブラゼミらしき声が響いてきたのです。いや本当なんですってば。
そんな偶然に自分で驚いて、件の窓から外を見降ろしてみても、どこで泣いているかわかるはずはありません。けれど決して遠くない。なので一度は東側のベランダに出てみたのだけど音が遠くなったので、逆サイドの西側に備わるドアから廊下に出てみたら、壁伝いで鳴いているんじゃないかと思うほど、その声は近くで響いていました。これは写真が撮れるかもと、スケベ根性を出して部屋にスマホを取りにいったりするのは、ダメなんですね。廊下に戻ったときには鳴き止んでいました。
言い伝えられたセミの寿命は7年7日。現在では3年から5年という研究報告があるようですが、いずれにしても成虫の期間は1週間程度。なので、いまだ短命生物の代表格を保っているのは間違いないところでしょう。
とは言え短命と決めつけるのは人間の勝手です。また、3年であれ7年であれ、幼虫として日の当たらない地中で過ごす生態に同情を寄せるのも傲慢。果てしなく暑い時期の地上に出現中、雄雌互いに相手を見つけて交尾し種の保存を行うためには、長い準備期間を要するのが彼らの生き方だろうから。
そんなタフな生涯を選んだセミが、緑が少ない住宅街でも鳴いてくれると、なんだかとてもうれしくなります。それも人間ならではの一方的な感傷にすぎないけれど。
様々な事情に鑑み、気象庁が生物季節観測の見直しを実施したのが2021年の1月。それまで開花や初鳴きの対象としていた植物34種目/動物23種目を、植物の6種目9現象に絞りました。アブラゼミもその時点で対象外。
しかし方々検索してみたら、各地の初鳴き記録をブログで著している方がけっこういらっしゃいました。そんな皆さんの参考になればと報告させていただきます。僕の町の2024年アブラゼミ初鳴きは、海の日の午後3時頃でした。幻聴でなければ、という但し書き付きですが。

異常な湿気の中でもサッカー少年は走り回れるんだね。憧れるわ。

揚げ足

「揚げ足を取る」という慣用句に触れてみようと思ったのです。
相撲や柔道でよく見られる「相手が技をかけようとして振り上げた足を取って倒す」技の応酬が語源らしいです。これが「言い間違いや言葉尻だけをとらえて責めたり、からかったりする」に転じたそうな。ただ、発言ではなく「失敗行動全般を責めからかう」という、本来とは異なる意味合いで使っている人が全体の9パーセント近く存在すると、文化庁が発表した令和3年度「国語に関する世論調査」で報告されているとか。この調査、毎年行っているようですが、なかなか興味深いですよ。
さておき、相手の動きに応じて技をかけあう相撲や柔道では、おそらく揚げ足を取り合う行為は重要な勝負ポイントになるだろうし、決して非難されるものではないはずです。けれど、「今そこで足を揚げなくても」という間の悪さは指摘の対象になるかもしれません。
他方、自分の得意技で豪快に勝つのではなく、技を出そうと繰り返し足を揚げる相手のミスばかり狙う戦い方も、見ていて気持ちいいものではないから非難の的になるかもしれない。
え~と、今日の話は、彼の国の現大統領の言動に端を発しています。だいぶおじいちゃんになったんだから、ちょっとくらいの言い間違いで揚げ足を取ろうとする周囲の態度は、さすがに大人げないなあと思ったんですね。
しかしこの時点での現大統領は、だいぶおじいちゃんであることが不安の種に他ならず、なおかつ然るべき立場の人間の言動は、それでなくても常に揚げ足取りに晒されるから、普段から細心の注意が必要のはず。にもかかわらず「自ら足元をすくわれにいっちゃったよなあ。高齢だとそうなっちゃうよなあ」って感じで、相手に有効ポイントを与えたように見せてしまった。
で、遠く離れた場所から眺めながら、この一件で現大統領の立ち位置がますます危うくなったと思っていたところに、前大統領の銃撃事件が伝わってきました。何が起こるかわからないことだらけですが、何となく世界の足元が揺らいでいるようで、いささか不安な気持ちになりますね。

新築工事現場は、コンクリ見たいの流し込み作業開始。着々だな。

ミュシャのファンを公言できるくらいには

主に植物をモチーフにした緻密な背景に、天女のような美しい女性を描いたアルフォンス・ミュシャという画家をご存じの方は多いと思います。僕もこの人の作品が好きで、今年の正月には書店の店頭に並んでいた画集を衝動買いしてしまいました。けれど、数多くの作品が掲載された本を手にしたのはこれが初めてだった。だからミュシャの生涯もよく知らなかった。好きと言いながら、それじゃファン失格も甚だしいですよね。
1860年7月24日、スラブ民族を祖とするチェコで誕生。裕福とは言い難い家庭に育つも、声の良さを認められ聖歌隊に入ったり、聖歌隊の合唱歌集の表紙を描いたりと、少年時代からアーティスティックな才能を発揮したそうです。
ミュシャが最初に注目を集めたのは、あと5年で新世紀を迎える19世紀末のパリ。後に触れる奇跡的な仕事によって、その後10年間は演劇のポスターやタバコ、シャンパン、菓子、自転車等の広告で彼のデザインがあふれかえります。この期間の最大のトピックスは、1900年に開催されたパリ万博。ミュシャは、オーストリア館とボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の内部装飾と、各種グラフィックを担当しました。
広告関連と決別すべく、画家活動のスポンサー探しでアメリカを歩き回ったあと、50歳になる1910年にチェコに帰国。スラブ民族の歴史を描いた、20点からなる大きな壁画の『スラブ叙事詩』の制作に取り掛かります。
以上が、あまりにざっくりとしたミュシャの人生。知らなくて驚いたのは、彼が世に出る大きなきかっけとなった演劇ポスターの発注経緯でした。当時のフランスの人気女優、サラ・ベルナールが主演の舞台『ジスモンダ』が初日を迎えるのは1895年の1月。ポスターの依頼があったのは、その数日前の1894年12月25日。そんな年の瀬にパリに留まる画家などほぼ皆無だったそうな。
慌てた発注者の電話がようやくつながったのは版画工房。なんとそこでミュシャが働いていた! そんなことあるのかって話です。彼が急いで仕上げたポスターは年明け早々のパリ市内に貼り出され、舞台は大盛況で閉幕。主演女優がミュシャを気に入り、それから6年間はお抱え絵師としました。僕が特に好きな、特徴的なフォント入りの広告の依頼も、そのクリスマスの奇跡から始まったわけです。あるいは本当の才能とは、運の強さに恵まれることだと思わせる逸話ですよね。
もうひとつ知らなかったのは、1939年の今日がミュシャの命日であること。それに気づけたのはミラクルではないけれど、これを機会にもっとミュシャを知らねばと思った次第です。最低でもファンを公言できるくらいには。

ミュシャの『ジスモンダ』が世に出てから129年後の正月に手に入れた本がこれ。キラキラ装丁。

だからこそ登山者は!

富士山のベテラン登山ガイドに話を聞きました。各方面で報道されているのでご存じの方が多いと思いますが、今年の山開きから登山のルールが大きく変わったことを受けた、タイムリーな記事をつくるためのインタビューでした。
僕は登山関連にまったく疎いので、知らないことだらけでした。お会いしたガイドは、文字通り依頼を受けて山を案内するだけでなく、富士登山の安全と保全を推進させる事業を行う団体も主宰しています。そこに属しているのが、登山適正化指導員たち。彼らは登山道を巡回しながら、個別で頂上を目指す人たちに様々なアドバイスを行うそうです。そしてまた、事故が起きれば救護者として現場に向かうといいます。
そんな仕事に臨む気持ちも、僕には推し量ることができませんでした。こんなパターンもあるんじゃないかと思うからです。
危険を指摘され続けている強行突破の弾丸登山を実行する者や、3000メートル超の山を登るにはあまりに迂闊な軽装者に対して適切な注意を促しても、耳を貸してもらえなかったり、または耳に入ったアドバイスに罵声で応じられたり。そんな人々が事故を起こした現場に嵐の中でも駆け付け、然るべき処置を施す……。
彼らが従事しているのは、そうした残念な場面に何度も遭遇する仕事です。もちろん、ガイドによって生涯忘れ難い登山を経験した人からの感謝に触れる機会だって多いでしょう。おそらく後者の幸福感が大きな支えになっていると思うけれど、何かできたんじゃないかと自分を責めかねない無念さとのバランスの取り方が、僕にはまるでわからなかった。
そのあたりをそれとなく聞いてみたんです。答えをはぐらかされたのだけど、あえて応じないその姿勢にガイドとしての覚悟を見たような気がしました。
これまた当人は絶対に口にしないでしょうが、救護に責任を持つ人は、計画を軽んじたり山をなめたりするどんな人間であっても見捨てません。だからこそ登山者は! というのが今の心情です。少なくとも今夏の山開き中は、富士山登山のニュースが気になって仕方ないと思います。

梅雨の空って、こんな感じだったね。

熱中症時代にて

先週の日曜日は、35度前後の気温の中、午後3時から野球の練習がありました。そりゃメチャクチャ暑かったし、汗も雨後の滝のようにドバドバ流れたのだけど、その状況、僕はなぜかけっこう大丈夫なんです。むしろウェルカムというか、野球ってそういうものだろうと周囲に話したら、馬鹿を見下すような表情とともに「そういう時代じゃない」と叱られる始末。
オレは本当に馬鹿なのか? それが心配になり、改めて熱中症について調べてみました。
環境省の『熱中症予防情報サイト』では、「環境」「からだ」「行動」の3つの要因に分類して熱中症が起きる条件を説明しています。
「環境」要因の最たるものは、気温と湿度の高さ。強い日差しはもちろん、エアコンのない締め切った部屋でも熱中症の危険性が語られるのが、大昔の日射病との違いと思われます。
「からだ」においては、高齢者や乳幼児といった体温調節が上手くできない世代的要因だけでなく、肥満体質や持病のある人も危ないとされています。下痢などによる脱水状態と、二日酔いや寝不足による体調不良も挙げられていますが、これはまぁ当然ですわね。
「行動」要因として常識的なのは、長時間の屋外作業と運動。そして水分補給ができない状況。激しい筋肉運動も危険要因みたいです。
以上を総合すると、ほぼ猛暑日の屋外で2時間の運動をする野球は、環境省にも叱られる熱中症リスクの高い行為に他ならないわけです。もちろんわかっています。だから他の時期以上に休憩時間を取るし、水分補給も怠らない。それに、温度や湿度や日差しの強さを察知できないほど僕の肉体はポンコツでもない。
「とか過信している、そこそこ年を喰ったヤツが倒れたりするんだよ」
それ、いちばんカッコ悪いケースですよね。同じような注意は、もっと優しい口調で母親に伝えたりもするしなあ。この人生で明確な熱中症に襲われたことがないから、甘く考えているのかもしれません。
でも、言い訳だけど、あれこれ正しく配慮しながら「野球ってそういうもの」を貫きたい思いもあるんですよね。ダメ、ですかね。「知ったこっちゃない」と周囲に言わせるのも、大人としてよくないですよね。

よく見かける青が素敵なこの花の名は、アガパンサスで合っていますか?