歌うのは好きだけど

「カラオケで何歌いますか?」
そうたずねられた瞬間、焼き肉コンロの前で冷や汗が噴き出しそうになりました。カラオケ、何だかとっても苦手なのです。
そんな質問に晒されたのは、新たな仕事に就くため、急きょ東北方面に引っ越すことになった仲間を送る会。メンバーは僕を含め5名。かつ、僕以外は全員30代。若い連中なら二次会の既定路線はカラオケだったか……。それを忘れていた自分を呪いたくなりました。
世代差があるにせよ、カラオケで何を歌うかたずねられて、皆あの歌この曲と即答できるものなんですかね。仮にオハコがあったとしても、僕は答えられません。自分で発表するくらいだからさぞ上手なんだろうと期待されたくないし、実際に歌って下手くそだったらマイクのコードで首をくくりたくもなります。
わかっているんです。酔った勢いで騒ぐのが目的だから、歌のスキルなど関係ないことくらい。けれど、どうせ歌うならというささやかな意欲は抑えきれないし、その上で場の空気を乱さない選曲にも配慮しなければならない。そうしてあれこれ気を回した挙句、ついには苦しい気分に陥る。それが僕にとってのカラオケ現場なのです。
そんなこんなで、昨年はたぶん一度も行っていません。そうして避けてきたにもかかわらず、迂闊だったその晩の結末が、「調子に乗って行くんじゃなかった」だったらよかったかな。
冒頭の質問をはぐらかし、新たな注文をするなどして話題の方向転換を図った末に、カラオケの4文字はコンロの煙とともに店の外へ。言い出した本人が酷く酔っ払ったのが最終的な回避理由でしたが、いい気なもんですね。記憶がないだろうから、また同じ質問をされるのかな。
少し前の出来事を本日持ち出したのは、自宅でYouTubeに合わせて、ビリー・ジョエルの『Just The Way You Are』を口ずさんでみたことに端を発しています。原曲キーでも案外気持ちよく歌えたので、ならばカラオケで披露か? なんてわずかでも考えた自分が恥ずかしなりました。英語詞を得意げに歌い上げる大人になんか、決してなりたくないのに。
この曲の邦題は『素顔のままで』。素顔を晒すのは自宅だけで十分。歌うのは好きだけど、カラオケは苦手という人に共感してもらいたくて、こんな話になりました。

梅とか気になる頃合いです。すぐに暑くならないようにと祈ったりもします。

電車の座り方

先月末、仮称A地点に定期的に通うようになり、クルマではなく電車を選んだ件をお伝えしました。実はその時点から、小さく戸惑っていたのが電車の座り方です。
いや、健康的な座り方ではなく、それ以前の、座るか座らないか問題。いわゆる在来線を利用する際、ガラ空きでもない限りは基本的に座りません。理由はいくつかあります。まずは、座るべき方に座っていただくのが筋だと思っているから。それから、椅子取りゲームの断固拒否。さらに付け加えると、座った目の前に立った方を観察して、譲るべきか否か悩むのが面倒臭いというのもあります。
以上に鑑みると、とにかく座らなければ無駄なストレスを負う必要がないという結論に達するわけです。ただし例外は、片道90分以上で、1路線の乗車時間が30分を越える場合。これは考えどころです。往復の疲労を考慮すれば、そのくらいは基本ルールを緩めてもいいはず。なので、実質40分乗り続ける路線において、少なくとも半分以上の時間は座れる策を講じました。
比較的空いている先頭または最後尾の車両に乗る。意気地ない策のような気もするけれど、何にせよ椅子取りゲームは嫌だし、これだけ空席があるならむしろ座ったほうが自然という状況に身を置きたいんですよね。そのためにホームの端まで歩くのもカッコいいとは言えないけれど。
しかしこの策、効果的です。いまだ自分が求める座り方ができなかったケースに遭遇していません。おかげでゆっくり本が読めるし、ウトウトできるし、疲労軽減にも役立っています。
ただ、座れば座ったで、ざわつくことが生じます。体格への意識を喪失したまま自分の居場所を死守する人もいれば、この前などはかかってきた電話に応じた人もいました。席を離れないんですね。電車の椅子って、そんなに貴重なのかな。
そこで思い出したのです。パーソナルスペースを犯される不快感を解消するため、電車利用を避けた過去の自分を。まぁ何にせよ、この社会は大なり小なり自分の思った通りにはならないものです。その縮図を電車の中で追体験しているといった感じでしょうか。
そうした公共交通機関でそれとなく恐れているのは、いつか誰かに席を譲られる日が来ること。素直に従えるかな。他者との距離感が難しい環境下で、そんな日が来ない自分でいられたらいいけれど、どうなんだろう。

そんなわけで、名もなき駅のホーム端っこ写真を撮るようになりました。

小豆が好きだ!

ブームを超えて定着した感のあるクラフトビール。聞いたところによると、独自のビール開発を行う小規模ブルワリーは、これまでになかった素材を取り込んで新しいテイストを発見するのに意欲的なんだそうな。とは言え、ハンバーガービールをつくりたいがため、樽にハンバーガーそのものを入れちゃうというエピソードには呆れました。実際にハンバーガービールは完成したんだろうか?
そんなクラフトビールに小豆入りがあると教えられた刹那、一も二もなく飲んでみました。赤みがかっていて、香りも柔らかで、口に含んだ途端ほっとした気分になって、これは紛うことなき小豆だわと感動したのです。甘味は練乳によるもの。樽に小豆を入れたかどうかは確かめませんでしたが、とにかく小豆の風味がしっかり感じられる一品でした。
そこで久しぶりに、「やっぱりオレ小豆が好きだ!」と叫びたくなったのです。小豆の何がいいかというと、そこはあんことニアリーイコールですが、粒のままの小豆が見え隠れする赤飯も好物なんですよね。ゆえに必ずしも甘さではなく、小豆自体に特別な魅力を感じているみたいです。
実のところ、小豆そのものに強い味は感じません。ただし、加熱すると独特の甘い香りが立つので、菓子との相性がいいらしいんですね。一方で渋みも出るので、塩味のある料理とも合うという。その何とでも仲良しになれる特性は、紀元前1世紀の中国人が気づいていたし、日本人も奈良時代の文献に小豆記述を残していたそうです。
それから、熱を加えるとほくほくした食感になるんだとか。それですね。僕はあのほくほくに、他では得難い安堵を覚えるのでしょう。そんな結論では小豆が好きな理由解明に届かないけれど、あとはすべて太古から刻まれ続けた日本人のDNAのせいにします。
それほどの小豆好きながら、特に砂糖を大量に使うあんこはわりと控えています。なので時々、タッパーいっぱいに詰まったあんこを独り占めする状況を想像してみるんですね。それだけでも脳内に幸福ホルモンが湧き出る気がするから。
そう言えばバレンタインデー。チョコではなくあんこをリクエストするのは何様って感じですから、自分で買ってくることにします。そう考えた途端、僕の脳ではセロトニンやドーパミンの分泌が始まるのでしょう。安上がりな気もするけれど。

買ってみた! サイズ統一の小ぶりが愛おしい、大福とおはぎ。

間違ったらごめんなさい

2008年2月13日は、当時のオーストラリア首相のケビン・ラッド氏が、アボリジニと盗まれた世代に対して、政府として初めて公式に謝罪した日なんだそうです。
難しい話題に触れた自覚はあります。アボリジニとは原住民を意味する英語、かつ先住民を侮辱する名称であるだけでなく、法律などによって隔離され、様々な困難を強いられた先住民の地を引く子供たちを盗まれた世代と呼ぶからです。
この件に関して、大したことを語れもしない僕が関心を寄せたのは、12歳の自分がオーストラリア、正確に言えばその大陸に構える世界最大級の一枚岩に惹かれた記憶に端を発しています。
だいぶ前にも触れましたが、小学6年生のとき、授業の一環で訪れた図書室でたまたま手に取った図鑑の中に、夕日を浴びて朱色に輝いた岩を見ました。理由はまるでわからないけれど、気づいたらその写真を凝視したまま授業が終わったんですね。10年足らずの人生で初めての出来事だったので、もしや前世からの縁があるのではないかと思ったくらいでした。
その一枚岩の名前がエアーズロック。周囲に住んでいた先住民がアボリジニ。それだけは忘れないでいた約30年後。縁あって取材で現地に行けることになりました。そこで改めて調べたら、後に入った西洋人の名前に由来したエアーズロックは、先住民の名称であるウルルに改名されていると知りました。アボリジニもアボリジナルピープルや、ファーストピープルと呼ばれるようになったそうです。
ただ知らないだけだろうけれど、民族対立のようなものを直に体験していない僕は、そうした先人に対する敬意の示し方は当然と思ったし、むしろウルルと呼べる方がうれしい気がしました。そんな呑気さとはまったく別の次元で、先も後も含めたオーストラリアのすべての人には、揺るぎ難い歴史への憂慮があるのだと思います。
2008年の今頃のニュース記事によると、謝ってもらうまでに200年以上かかったとファーストピープルの人々が語ったそうです。率直に、過去を悔い改めるのに200年もかかる業を生む人間の哀れを感じました。また、それでも罪を犯した者は謝るべきであり、虐げてきた人々に許しを請い続けなければならないということも。
極めて複雑な問題をざっくりまとめますが、間違ったらごめんなさい、ですよね。それもできれば早いほうがいいというのは、人類共通であると。幼い感想ですみません。

冬至から約1か月半。日差しの色味が変わってきていますよね。

 

身内びいきだったのに

現在開催中の冬季オリンピック。何を軸に注目するかというと、それはもう身内びいき的に自国の選手になりますよね。テレビ中継のプログラムも、日本代表が出場する競技がメインだし。
その上で、観るべき競技を選んでいくと思いますが、自分が経験したことのあるものに関心が向くのは、極めて自然なことでしょう。その線でいくと、僕はアイスホッケー一択になります。
そんなわけで、身内びいきとともに女子日本代表チームの試合を観てきたのですが、とても複雑な思いを抱いたというのが今日の本題です。
すでに報じられているように、予選リーグB組に属した日本は、1勝3敗で準々決勝進出ならず。とは言え、国内ではマイナースポーツのアイスホッケーなので、多くの方が特に気にも留めていないかもしれません。
実は僕にしても、オリンピックが始まるまで女子日本チームの現状をよく知りませんでした。でも、ちょっとした期待があったのです。
予選リーグB組に出場できるチームは、世界ランキング7位から15位。日本は8位で、B組内ではスウェーデンの7位に次ぐ上位2位。初戦で勝利したフランスは15位で、2戦目のドイツは9位。地元開催枠のイタリアに至っては18位でした。この数字をもとにすれば、3勝1敗もあり得た。しかしランキングは目安に過ぎなかった。
ご批判覚悟で感想を述べると、女子日本チームはどの試合でも勝ち筋が見えませんでした。他国との体格や体力の差は明らかだったものの、それを踏まえた戦術すら感じることができなかった。いやまぁ、さすがに「経験があるから自分なら」などと驕った気持ちにはなりません。ただ、下手くそな自分もやっていた非効率なスティックの振り回しなどが随所に見られて、「世界8位なんじゃないの?」と嘆いたり。それゆえ、身内びいきで注目したはずなのに、むしろ身内に厳しい見方になっていくのが酷く苦しくなりました。
前回の北京大会から大幅な世代交代があったとか、事情はいろいろあるようです。なので、結果について文句を言いたいわけではないんですね。彼我実力差を体感して傷ついているに違いない選手たちを責めるつもりもありません。あくまで、僕の見方の問題です。
たぶん、身内的ではない選手による、経験値がない競技を観るほうが、変なバイアスなしで楽しめるんだろうな。すると、何を観たらいいんだろう。そんなこんなで、今ちょっと困っています。

何かつけクレーンに目が向く感覚、もはや自分でも理解不能です。

口のだらしなさあっての厄介事

『孤独のグルメ』の主人公のような、幸福に空腹を満たすときは誰にも邪魔されず、または気を遣わず食べる行為に並々ならぬ意欲を持てたなら、僕の人生は違ったものになっていたんだろうかと思ったりします。
たとえば、移動の合間が昼前後に差し掛かった場合、乗換駅の周辺で飯を食べようかと考えると、ちょっとワクワクするんですね。なぜなら、昼飯を外で食べる機会が極めて少ないし、不慣れな町で飲食店を探すことも滅多にしないから。
そうした食活動に積極的な人は、けっこう多いんじゃないでしょうか。事前にスマホであれこれ調べたりして、そういうのはきっと楽しいのでしょう。
しかし残念ながら、僕は食活動の楽しみや幸福を享受できる感性が乏しい。どうやら、「これが食べたい!」とか「あれも食べたい!」といった欲が薄いみたいなんですね。もちろん、食べ物は美味しいほうがいいし、少なくとも価格に見合った満足を得たい。なのだけど、「じゃ何が食べたい?」と自らに問うても、「これ!」や「あれ!」がまず浮かばないのです。
そんな性質なので、「何にします?」とたずねてくれる店では、答えに窮する困惑の時間を招きかねない。それでは先方に迷惑なので、僕は常に二つの返事を用意しています。一つは、「本日食べて(飲んで)おいたほうがいいものを」。オススメとは言いません。メニューのすべてがオススメのはずだから。もう一つは、「お任せで」
いずれにせよ客の注文責任を完全放棄するので、何を出されても文句なし。ただ、もらい事故みたいに責任転嫁された店の人も、そこはプロなので間違いない品を用意しながら、それを出した理由を説明してくれることが少なくありません。そうした客あしらいというか、その店その人ならではのグルーブみたいなものに、強いて言えば食以上に僕の興味は向かいます。まぁ、何でも食べられるし飲める人間の、口のだらしなさあっての厄介事ですが。
先日、移動の合間が昼時に重なり、飯屋を探す機会に恵まれました。なのに、「これは何か違う」とか、「けっこう並んでる」とかネガティブな言い訳に支配された挙句、駅まで戻って改札間近の吉野家へ。ドアを開ける直前、我が身を言いくるめました。誰にも邪魔されず、気を遣わずものを食べる行為には合致していると。まぁ、吉野家もかなり久しぶりだったので、決して不幸ではなかったですけれど。

ひれ伏すほどの敬意を抱くのは、高所で働く人々。

 

 

「人々の生活や社会を良くするために」

そんなわけで衆院選が終わりましたが、選挙が行われるたび、政治家になるため立候補するのは、果たしてどんな人なんだろうと思ったりします。
「政治家とは、人々の生活や社会を良くするために必要な法律や政策を考え、議論し、決める職業」
これは、政治家をキーワードに検索していた最中で見つけた、あるサイトの一文です。となれば立候補する人は、「人々の生活や社会を良くする」意欲をもった方になりますよね。その意欲を施策に変えて選挙中に訴え、個々の清き一票をいただいて当選を目指す。
いやいや、話はそう簡単ではないでしょう。意欲があろうと、どこの誰かがわからなければ票を投じてもらえない。そのための信用を積み上げるには、かなりの時間がかかるはず。
その知名度もなんとか稼げた上で、ようやく立候補に漕ぎつけ、いよいよ世間の審判を仰ぐステージにたどり着くわけですよね。それでも「人々の生活や社会を良くする」意欲を維持できる人って、どれくらいいるんでしょうか。少なくとも僕には、そこまで強固な精神力は根付かないと思います。
また一方で、心から尊敬される職業ではないイメージが拭えない気もします。僕は一度だけ、国会議員にインタビューしたことがあります。道路行政がテーマだったかな。インタビュイに会ったのは、霞が関の議員会館。「ここかあ」とか感心しながら指定の部屋で対面した議員の最初の一言が「勉強してきたのか?」でした。横柄さがあまりに想定通りだったので、うっかり吹き出しそうになったのを覚えています。議員の名前は忘れたけれど。
あくまで1サンプルに過ぎないので、政治家の皆さんすべてが「いかにも」ではないでしょう。けれど彼らが「人々の生活や社会を良くする」意欲を失わなければ、一庶民のインタビュアに対する態度は違ったものになったのではないでしょうか。
ようやく当選を果たした先で、そんな疑念を持たれながら職業をまっとうできるなんて、やはり並大抵の人物ではないのかもしれません。そうはなれない僕は、だから政治家になりたいどなたかに丸投げしてしまうんだろうな。
そんな他人任せでは日本は良くならないと奮い立つ人が立候補する。そういう循環が、僕の知らないところに存在しているのかもしれません。

月曜の朝も残っていました。これじゃエンジンが冷えすぎて、かかりが悪いに違いない。

語りたい言葉を大勢に

予想通り、何かにつけ冬季オリンピックを観ております。言うまでもなくジャパンが軸ですけれど、早くもメダルを獲った日本人選手がいて、インタビューでは周囲への感謝を口にされておりました。
それを、日本人らしい謙虚さの表れと見るか、あるいは大人たちからの指導の賜物と取るかはご想像にお任せします。けれど僕には、自分を応援してくれた人々に対する、純粋かつ真摯な思いを抱くアスリートの言葉を聞いた記憶があります。
プロゴルファーの宮里優作さん。ゴルフ専門誌で彼の活躍を追いかける連載企画が始まったのが2010年でした。僕らが記事でもっとも伝えたかったのは、優作さんの初優勝。学生時代に数々の大会で勝ち、いわば鳴り物入りで2003年にプロデビュー。新たなステージでも大活躍すると思いきや、それから7シーズンを経ても未勝利のままだった。
そうして連載が始まり、様々な場所で開催された試合を見に行くことができました。中でもいちばん慌てたのが、2011年に高知で行われた大会。土曜日の終了時点で2位となり、いよいよ来るかと日曜朝一の高知行き航空券を手配したのです。残念ながら来なかったんですけれど、そうこうしているうちに連載も3年を迎え、ここで一旦という区切りを迎えることになりました。
そうしたら、翌2013年の最終戦ですよ。僕の母親もテレビ中継を観たくらい劇的な結末で、ようやく初勝利を手にした。なのにその日の僕は、別の仕事で海外にいたという、今でも優作さんからツッコまれる取材者人生最大の汚点を残したのです。
さておき、未勝利記録を消したことによって翌年から連載が再開。現在に至っているのですが、リスタートの最初は、当然のことながら初優勝について聞かねばなりません。その答えの中で深く刻まれたのが、こんな言葉でした。
「自分がどうこうより、身近な人たちがこんなによろこんでくれるなんて……」
実感だったようです。何より自分を誇っていいはずなのに、彼の口から出たのは周囲への思いでした。勝負の世界に生きていない僕には、優作さんが体感した歓喜や感謝の真実を共感できなかったけれど、勝者が抱く感情とはそういうものかと思わされました。
オリンピックの話題に戻りますが、あれほどの大舞台でメダルを獲り、インタビューを受けられる選手は、その機会にこそ周囲への感謝を述べたいんだろうなと、そんな想像をしながら観ています。一人でも多くの選手が、語りたい言葉を大勢に伝えられたらいいですよね。

撮りたくなりますわね。起きてべランダに出て、ここまで降ると思わなければ。

ピークを知っておけば

小学生くらいだったと思うけれど、「今日は大雪なので学校に来なくてよろしい」みたいな通達をされた日がありました。僕はそういうとき、「むしろこういう天気こそ行くべき」と、異常なまでの通学意欲がたぎる子供でした。あれは何だったんだろう。誰かに褒められることを期待したのかな。
話題は変わりまして、野球の練習。年明け第1週をのぞき、ここまで毎週末ひたすら励んでおります。関東の冬は天気が安定するので、雨天中止がないおかげでもあります。
ところが昨日の土曜日は、朝から曇天。なおかつ前日までの暖かさも一転。この後どうなるんだろうと空を見上げていたら、ちらちらと白いものが舞い始めました。そりゃ、これだけ寒ければ雨ではなく雪になるのが道理。では練習はどうなるんだろうと心配したのですが、その日のグラウンドが人工芝だったこともあり、少なくとも僕らの開始時間の午前11時は問題なく実行されました。
それでも、すんげぇ寒かったです。手が冷たいままのキャッチボールは軽い拷問。ようやく体が温まってきたら、また小雪。やがて視界を遮るほどの本降り。こんな日に野球をやるなんて阿呆だなと呆れたところで、小学生の頃の妙な意欲が沸き立ってきました。今季もっとも寒い日を体感しておくべきと。
あらゆるご指摘やご心配を無視して言うと、僕はそれ、とても大事だと思っています。ピークを知っておけば、その前後など恐るるに足りなくなるはずだから。だからこそ、多少無理してでも、全身で雪を浴びる経験をしておきたい。話のタネにもなるし。
なんてことを考えながら、練習終わりのグラウンド整備をしている最中、ふと不安が頭を過りました。極端さが際立つ最近の気候ゆえ、春になったと思ったらすぐに夏になって、また40度近い日が続くに違いない。それもまたピークなので、時論を譲らないなら体感しておくべき……。
一昨年も昨年も炎天下で野球をしました。今夏はいよいよ誰もついてきてくれないかもしれないし、ついに本気で叱られるかもしれない。まだ冬なので、夏になったらまた考えてみます。

小雪が舞い散る直前の、たぶん気温1度のグラウンド。

良い人のままで

2月4日から6日まで、東京・恵比寿で開催された『大日本市』に行ってきました。全国各地で素敵な製品をつくっている110のブランドが出展し、バイヤーなどのビジネスのプロと出会う機会をつくるのがイベントの主旨だそうです。
僕は例によって、110ブランドの中の1ブランドの取材で赴きました。こうした見本市は久しぶりだったので、予定より30分くらい早く会場入り。あちこち見て回りました。
できればいちいち足を止めて、あれこれ聞きたくなる性分なのだけど、取材時間に遅れるといけないので、ぐっと我慢。ブースの中に半歩だけ踏み込んだのは2軒のみ。ひとつは、日本に三基しかないという焙煎機を使っている愛知の製茶屋さん。試飲の麦茶が驚くほど香り豊かで爽やかでした。
もうひとつは、和歌山に本社があるという、たぶんブラシ屋さん。妙な毛束が目に入ったのでたずねたら、棕櫚(しゅろ)のキッチンブラシだそうな。表面加工をしているフライパンも痛めないことを自慢されておられました。
僕が取材したのは、奈良産のお箸。料亭やレストランで出される高級な使い捨て箸に、銘木として名高い吉野檜を用いた一品。料理の繊細な味わいを損なわないため、先端を直径2ミリまで削り詰めるという技が素晴らしかった。
そうしたこだわりの品を丁寧につくり上げる人たちは、おおむね控えめで、みんな良い人に見えます。その理由、いささか穿った見方になるけれど、どちらかと言えば商売が上手くないからみたいなんです。そもそも大量生産に向かない手仕事の製品ばかり。ゆえに大ヒットにつながり難く、その分を補う意味でも相応の単価設定を行わなければならない、といった事情があるようです。
それでも、手塩にかけた製品を知ってもらいたいし、使ってほしい。そんな思いを抱きながらもガツガツしていない(できない)人たちが集った会なんだと、僕は見受けました。
程よい塩梅ってどの辺なんでしょうね。一個人が犠牲を払って伝統工芸を守死するのは違うだろうし、かと言って、何かの拍子にめちゃくちゃ売れた末に品質が粗くなるのも残念。
良いものが良いと認められて適度に浸透して、つくり手が良い人のままでいられる社会になったらいいのにと、選挙前日だからじゃないけれど、そんなふうに思います。

こちら、奈良の『大門箸』。使い捨て前提でこの先端の細さって、ちょっとクレイジーだな。