締め切りは神様のギフト

どんなに苦しめられようと、それがなければ先に進めないものって何だ?
自分で振っておいてナニですが、なぞなぞが苦手なのですぐに答えを出します。締め切りです。
先月後半、「いつまでに」と指定されない原稿書きの仕事がありました。とは言え、他の記事も依頼された不定期刊行物なので、全体の進行状況に即したおよその締め切りはあったのです。ただ、当初から最後に取り掛かる予定だった記事ゆえ、担当者が気を遣ってくれたのか、具体的な納品日の指定がなかったんですね。
となると、勝手に推測するわけです。このへんまでに提出すればお咎めなしだろうと。そうして自分なりに予定を組んでみたのだけど、締め切りが曖昧な原稿はどんどん先送りしてしまい、気付けば自分の首を自分で締めているようになりました。
どんな仕事にも締め切りは必須。逆を言えば、締め切りのないものは仕事ではない。
そう言えば、村上春樹さんは新作の書下ろしに締め切りを設けず、日々コツコツと書き溜めて出来がったところで出版社に提出するらしいんですね。それが許されるのは大物だからではなく、誰もが待ち望む『作品』だから。何よりも、締め切りなどなくても書く衝動が絶えないところが素晴らしい。
対して僕にできるのは、様々な制約があってこその仕事。なので、時に「そんなに早いの?」と嘆きたくなる締め切りなくして成立しません。というかゴールがないと、いつストレッチを済ませ、どんなシューズを履けばいいか悩んだまま、延々と走り出せないのです。そんな苦悶を久しぶりに経験しました。やがて先方から「まだ?」と催促されるんじゃないかとびくびくし始める。あれは精神状態を落としますね。
そこで痛感しました。それがなければ先に進めない締め切りは、神様のギフトだと。ありがたく頂戴しながら、仕事に励みます。たとえ「じゃ、連休明けに提出よろしく」と押し切られようと、決して嫌な顔などせずに。

こちらは巻積雲【けんせきうん】。いわし雲やうろこ雲の別名あり。天気が悪くなる兆しらしい。

文化をすすめる日

3連休の真ん中に埋没しているように見えますが、今日は文化の日。1946年のこの日に日本国憲法が公布されたのを記念して、1948年に国民の祝日としなりました。憲法と言えば5月3日が憲法記念日ですが、こちらは日本国憲法が1947年のその日に施行されたことに由来しています。このややこしさは、時代背景が影響しているみたいです。
新たな憲法の草案をつくったのは、第二次大戦終了と同時に日本を占領下に置いたGHQ。その草案をもとに日本政府が協議した末に生まれたのが日本国憲法。この仕事に関わった人によれば、どの国もまだ実現していない戦争放棄を宣言したことがとても重大だったそうです。もう二度と軍国主義に戻らない決意を憲法で示したのが心強かったのではないでしょうか。その新憲法が「自由と平和を愛し、文化をすすめる」旨を骨子としているので、公布日を文化の日としたかった。できれば、それまで明治天皇の誕生日を祝ってきた明治節と同じ日に。
これにNGを出したのがGHQ。そもそも彼らの目的は、敵対国だった日本の弱小化で、中でも天皇と関係する事柄は可能な限り排除したかったわけです。これを受け、当時の衆議院は施行された日を憲法記念日に制定。しかし参議院は公布された日を譲れなかった。
「ならば天皇を想起させず、憲法記念日でない名称にはどんなものがある?」と、持ち掛けてきたのがGHQだったらしいんですね。そうして新憲法の文脈を尊重する形で、文化の日に決まったんだそうです。いずれにしても、多くのご苦労が偲ばれます。
文化とは何かについて語る前に、文化の日について語るのであれば、やはり自由と平和を愛さない限り文化をすすめられないという、その1点が極めて重要ということではないでしょうか。時に縛りを感じても、おおむね楽しく幸せを享受できるのが文化であれば、なおさら。そんな思いを込めつつ、今日の僕は野球文化を尊びながらバットを振ってきます。

巻雲。読みは【けんうん】。刷毛でいたずらしたみたいね。

髪切りスパン

髪を切りに行きました。周期は、およそ3カ月。期間を固定しているわけではありません。何となく頭が重い感じがしてきて、そろそろ切らなきゃと思うのが、僕の場合はたまたま3か月なのです。そこで、いつも僕の髪をちゃんとしてくれる女性店長に聞いてみました。やっぱり3カ月は放っておき過ぎかと。
「男性は1カ月ごとですね。たいがい短髪なので、襟足が長くなったら切りに来てくれます。トナオさんみたいに長めの人は、3カ月経っても変化が小さいので大丈夫。でも、かつて3カ月だった人がやがて1カ月になるんですよ。伸ばせる髪が減ってくるから」
何となく、聞かなきゃよかったと思いました。僕もそのうち髪切りスパンが短くなるんだろうか。面倒臭がりなので、髪が元気なうちは3カ月に1回でお願いしたいけれど、
そんなこんなでお喋りは、髪が薄いのと白髪はどちらが清潔感に満ちているか等々に転じて、気付けば女性の化粧に関する話題になりました。
「このあたりでも、すっぴんで歩いている女性がいるじゃないですか。私あれ、どうかと思うんです。そんなに自信があるのかって」
論理展開が著しく飛躍するのは、彼女が20代からの特徴です。それにしても、ひとまずサロンとか呼ばれる店ゆえ女性客しかおらず、この子の尖った発言に冷や冷やさせられるのも昔から変わらないところです。
さておき、すっぴん観は男女で違うんじゃないでしょうか。何よりも、化粧をしないのは自信の表れととらえる感覚は、おそらくほとんどの男性が理解できないと思います。
「むしろすっぴんのほうが好きという男性が多いのは、実はベースメイクをしている状態に騙されているだけなんですよ。だって本当に化粧ゼロだと、顔全体がびっくりするくらい暗くなるんですよ。そんなじゃ外に出られません」
なのにすっぴんで出歩く女性に疑問を覚えるのは、彼女の職業的倫理観に抵触するからかもしれません。にしても、そうなのか。僕は騙されてきたのか……。
いずれにしても3カ月に一度、楽しい時間を過ごせるのは彼女のおかげです。帰り際、「よいお年を」と言われました。僕の髪切りスパンなら、次は来年なんだなあ。

路傍の向日葵の最後。本来ならもっと早く逝っていたんだろう。

一度ならず

「勝ちましたねぇ、ドジャース」
このセリフをここで最初に記したのは10月23日。その2日前の21日は、ドジャース対メッツのリーグ優勝決定戦第6戦がテレビ中継されたものの、取材だった僕は録画を残して朝から出かけたわけです。可能な限りの情報遮断を心掛けながら。なのに向かった先の京都で、取材対象者に件の結果をつぶやかれた。それは間違いなく、こちらの事情を知る由もない相手の、時候の挨拶みたいなものだったけれど。
誰が言ったかバラしちゃえ。長く追っかけ連載をやっている宮里優作くんです。プロゴルファーが野球の話をすんなよぉってツッコみました。いやまぁ、彼はスポーツ全般が好きだし、その日も途中までドジャース戦を観ていたらしいので致し方ありません。そもそも帰宅するまで、話題の試合結果に触れないでいるのが不可能なのだし。
そんな珍事をすっかり忘れていた昨日、再び災難に遭いました。今度は、よく話す社長さん。ご存じの通り、ドジャース対ヤンキースのワールドシリーズ第5戦。そのときは午後1時からお話する予定だったので、それまでは緊張感をもって試合に食い入ろうと。もし午後1時までに試合が終わらなかったら、続きはお話し後に録画で確認しようと。そして試合が大詰めを迎えたところで予定の時間に。そうして最初にかけられた言葉が、優作くんがつぶやいた文言と一字一句同じでした。その社長さんは、野球よりサッカーが好きなのに……。
こういう場合、「そうなんですね」程度の軽い返しが妥当とわかっています。スポーツの結果に一喜一憂する素振りを仕事の場に持ち込むなんて、大人としてあるまじき作法だし。なのに僕は、傷口に塩を塗り込まれたような気持ちになったんでしょう。「いやそれは、これから録画で……」と、喉を締められたようなかすれ声でボヤいてしまいました。「あぁ、ごめんなさい」って、その業界では仕事ぶりが注目される有名な社長さんに謝らせるなんて、オレはどうしたかったんだ?
以上の話には何の教訓もありません。ただ、一度ならず二度までもという慣用句の信憑性を体験的に学習して、来年の今頃も同じことで苦しむのかもしれないと思っただけです。11月の始まりに、そんな呑気なネタを披露したかったわけじゃないんだけどな。

撮るとき頭の中で鳴ったのは、童謡の『もみじ』。子供の頃は「てるやま」の意味が不明だった。

また今月が終わっていきます

そんなわけで10月最終日となり、今月はどんなことがあったのか振り返ってみました。始まりの1日は、母親の90歳の誕生日。やはりさすがに90年は、なかなかごっつい。ゆえに今月は、おおむね親のトピックに引っ張られました。
月半ばあたりでなぜか連続した、懐かしい人たちとの再会。ひとつは、20年くらい前に知り合った古い仕事仲間との飲み会。もうひとつは、中学校の同級生たちとのバーベキュー。かつて30代だった仕事仲間も今や50代なので、「そろそろ親のこと」が悩みの種に入ってくるようでした。
一方、全員が62歳になる年の同級生が会えば、両親ともに見送ったヤツもいれば、「ようやく介護が終わった」というヤツもいたりします。
その類の話題は、いずれにしても楽しいものではありません。だから精神がガキのままの僕は、あまり積極的に参加したくはないのです。最たる理由は、高齢の母親に対する自分の対応に自信が持てないから。つまるところ、僕の親に向けた心配は、「これで正しいのか?」という不安に行き着くのでしょう。
けれどみんなの話に耳を傾けていると、親の状況や家族の事情は異なっても、本質的な心配や不安は、おおむね似ているみたいです。現時点で明確な回答が見出せない点も同様で、だからこそ気を許せる相手にだけは、正解を求めるでもなく、愚痴をこぼすでもなく、なんとなくつぶやきたくなるのでしょう。
そういう場面に遭遇すると、自分だけの悩みではないことになぜかホッとします。あるいは、束の間であれホッとすることが大事な問題なのかもしれません。
「まだまだサッサと歩けるのよ。杖を使うのも上手って褒められるし」
これは僕の母親の、直近の自慢。息子から見れば、確かに杖は上手に突けているけれど、もはやサッサと歩ける足ではありません。なのにこの発言は、痩せ我慢という他になし。見栄っ張りところは、親子でよく似ているなあと思います。でも、母親の痩せ我慢に救われているのが僕なんですよね。母親の強気がいつまで続くか見通せないまま、また今月が終わっていきます。

晴れてるだけで丸儲け、って気分。

やっちゃう!

これ以上1ミリでも動いたらやっちゃう! と瞬時に感じて全身を固めるのって、動物的な本能みたいです。え~と、腰の話です。
僕の主業務たる原稿書きは、100パーセント座り仕事。だから肉体的な疲労は少ないはず。しかし同じ姿勢を長い時間保つには案外体力が必要なこと、オフィス勤めで同じように座りっぱなしの方は共感していただけると思います。
本質的には、いわゆる良い姿勢をキープするために体感を鍛えるべきなんだろうけれど、口で言うほど簡単じゃないですよね。誰かがそのためのトレーニング費用を払ってくれるわけじゃないし。昨今は、健康的で幸福な働き方を目指すウェルビーイングを標榜する組織が増えているようだけど、一見楽そうな座り仕事の大変さにも光を当てるべきではないでしょうか。
何の話だっけ? オレの腰の件だ。昨日もそうだったのだけど、椅子に座り続けて数時間後、何気なく体勢を変えたとき、「これ以上1ミリでも……」に襲われ、軽くお尻を上げた状態であらゆる動きを止めました。ピキピキッて体の中で何が響いた感じ。実際に音はしないけれど、段差がずれる気配みたいなものは確かにあって、次にどんな動作をすれば大きな地震を引き起こさないか、しばらく様子を見なければならなくなる。これはかなりの恐怖です。
ぎっくり腰なんでしょうか。癖になっている人は、くしゃみした拍子や、靴下の脱ぎ履きでもやっちゃうそうな。そんな日常的な動作すら注意しなければならないなんて、ある種の呪いですよ。
実のところ、僕はぎっくり腰の経験がありません。くしゃみも平気だし、靴下も大丈夫。重い荷物を一気に持ち上げようとするとやっちゃうらしいので、そういう場面では全身を使うようにしています。なのに、慣れているはずの座り仕事で不意のピンチに晒される。なめちゃいけないってことなのかな。あとは、負担の蓄積か、小声で言いたいけれど加齢?
ここに来て、何かの腹いせみたいに急に気温が下がっているので、皆さんもやっちゃわないように気をつけてください。しかし、怪我の類って「やった・やらない」とか、語彙の乏しさを露呈するような表現のほうが伝わりやすいのって、なぜなんでしょう。それも動物的ってことなんだろうか。

オレのギター、特にこの円形の細工がキレイ。

ニュース

ニュース離れの傾向は、世界的に深刻なんだそうです。僕が見たインターネット利用に関する記事によると、報道専門サイトから直接ニュースを得るのは22%に過ぎず、動画サービスを含むSNSの29%や、検索エンジンの25%より低い結果に鑑みても、ニュースに対する関心は低下していると言わざるを得ないらしい。
この世界的な調査で特筆すべきは、若者たちのニュース獲得手段が2~3分のショート動画に集中していること。中でもTikTokの伸びは著しく、世界全体では66%、日本では39%が毎週アクセスしているのだとか。僕はTikTokをほぼ利用しないし、どちらかと言えば無意味だけど楽しそうな動画ばかり閲覧できるアプリでニュースを知ることができる点に驚きました。ニュースというよりは、世の中の流行を確認するってことなのかな。
ニュース離れには様々な理由があるとされています。大きな事件や事故に触れるたび無力感を覚えるから遠ざけるとか、表向きの報道は陰謀の隠れ蓑に感じるとか、AIの普及でフェイクニュースばかりが流れる等々。ふむ、わかる気もします。僕もおおむねメディア側にいる人間なので、ニュースが伝える事実には取捨選択があるし、表現によって真実が変わっていく事情を知っています。
ただ、大きな報道機関を信じているところもあるんですよね。社会的立場を組織的に守っている彼らは、興味本位で物事を伝えてはならないという最低限のルールを守っていると思うんです。そしてまた、コンプライアンスの縛りによってテレビがつまらなくなったとしても、コンプライアンスをもっとも重視しているのがテレビでもあるし。
そんなこんなで日曜から月曜は、選挙結果と大谷翔平選手の怪我に関するニュースを、あらゆる手段を使って追っかけました。選挙結果は深夜まで各放送局が一生懸命報じていたけれど、大谷選手の状況は現地との時差もあって詳細が伝わってこなかった。だからヤキモキ。
って、そういう精神状態に追い込まれたくないから、ニュースを見たくないのかもしれませんね。現状をつかんだところで、僕に今後の政局を動かせる力も、亜脱臼を治せる技術もないわけだし。でも、知りたい。知って自分なりの考えをまとめたい。そういうのも世代差なんでしょうか。僕はいまだにニュース音痴になるのが怖いです。

近所で夜間工事多発中。騒音も振動もなかなかだけど、深夜に働く人も大変だと思うとね。

「クルマはいいのに」

一般的に高級とされるヨーロッパ方面の外国車が品のない動きをすると、とても残念な気持ちになります。クルマはいいのになあと。
高級な商品というのは、およそ高額と同義。ゆえに高価なクルマを買えるなら生活レベルも高く、精神面にもゆとりが生じるはず。そうであれば、時間帯によって首都高速の分岐の片側が渋滞するのを知っていながら、あえて列に並ばず、分岐の直前で横入りするようなセコい真似はしないでいただきたい。「こうなること、知らなかったんじゃない?」と助手席から優しいフォローが聞こえてきても、やり口やナンバープレートを見れば確信犯であることは一目瞭然。
そんな行為を迫られると、せこせこ生きている僕は車間を詰め、己のズルさを思い知らせたくなります。とは言え事故は避けたいし、いつまでも譲らないでいる自分が悲しくなるから、最終的には折れる形をとるけれど、なんかちょっと悔しい。高級車なら譲られて当然とか、それが賢い方法とせせら笑っていたなら。
ふと思うのは、ご当人に高級車を運転している自覚があるか否か。地域性にもよるけれど、高価な外国車は目立つじゃないですか、それが下品な運転を披露したら、周囲に「これ見よがしかよ」と不快感を与えるかもしれない。となれば、それはもう高級車ではなく、ただの高価車になり、ブランドイメージも下がる。そうして「クルマはいいのに」と揶揄されていいんですかと、ご当人に問うてみたくなります。
おそらく、ブランドイメージの責任まで個人で負おうなどと考える人は少数なのでしょう。でも、じゃなぜそれを買ったんだろう。そのブランドの価値を自分に融合させたくて手に入れたなら、ブランドの価値を下げる行為は自分までおとしめることにならないのだろうか?
そんな部分に鋭敏な人が多かったら、セコい外車は減るんでしょうね。そうはなかなかならないなあというのが僕の感覚ですが、いかがでしょう。何と言うか、高価=高級とは限らない世界に触れたいです。理想論でしょうが、すっぽんぽんになったときの佇まいで等級を推し量りたいというか。なんてことを口にすれば、「だから貧乏人は面倒臭い」と煙たがられるだろうけれど。

どれだけの人がこの表示を頼りにしているんだろうと思って。

 

土産考

たとえば、土産。もし僕が日本語を学ぼうとする外国人だったら、この漢字二文字と対面した瞬間にすべてを投げ出すでしょう。
土も産も、音読みなら【ど】と【さん】で、そのまま【どさん】と発音したら【土地の産物】という意味がある。なのに現在一般的には【みやげ】と読むなんて、統一ルールのない試合じゃ戦う前に気力が失せます。ちなみに、語源は例によって諸説あり。日本語の風情ってことで目をつむっておけばいいのかな。
さておき先日の京都。同行のフォトグラファーは、指定された集合時間より早く京都駅に着いていたそうな。理由は、「先にお土産を探しておこうと思って」。僕の定義では、帰りに探すのがお土産。そういうもんじゃないの? とたずねたら、「ウチの子供たちはアレルギー体質なので、グルテンフリーじゃないとダメなんですよ。お土産って、たいがい小麦を使っているじゃないですか。そうじゃないものを探すのに時間がかかるんです」
じゃ、買わなきゃいいじゃん、などと性悪なことは言いません。それぞれ事情があります。
これは別の人から聞いた話。女性同士で近くの外国まで旅行した際、相方は往きの空港の免税店でブランドバッグを買ったそうな。免税店であれば、高額商品ほどお得な買い物ができるのだろうけど、往きで買ったら旅の間中ずっと荷物になるんじゃないでしょうか。
ならないんでしょうね、その旅でそこで買うことは計画されていたはずだから。それにそのバッグは、土産ではなく自分へのご褒美なのでしょう。となれば、いつもと違う場所で買うもの。そして他者に贈るためではないものは、必ずしも土産に該当しないのかもしれません。そうして僕の定義は跡形もなく崩れ落ちていく……。
それが残念でもないのは、僕にお土産への執着がないから。はるか以前から、他者にも自分にも土産を買い求める習慣を持っていません。「お印だから、何でもいいんだよ」という説もありますが、何でもいいものを判断する能力が僕にはない。土産話ならできるんですけれど、それがよろこばれたケースも少ないので、僕はこのまま土産と距離を置いたたま生きていくでしょう。土産を【みやげ】と読むいい加減さより、ずっと潔いはず。
全国の土産物屋さんを敵に回す話しでした。皆さんは、今日もよいお土産探しを。

素敵な土産に満ち溢れているに違いない町。

 

金八先生的インパクト

1979年10月26日は、『3年B組金八先生』の第1回目が放送された日なんだそうです。その45年前の第1回、僕はリアルタイムで観ました。当時は高校2年生だったので、金八先生が受け持った中学3年生の物語は後輩を眺めるような感覚だったし、もはやテレビで描かれることが真実でもないと悟っていたので、視聴タイミングはさておき、すべてがリアルとは思っていませんでした。
それでも金八先生や3年B組の生徒たちから目を放せなかったのは、ごくシンプルに言えば、おもしろかったからです。後に第1シリーズと呼ばれる初回では15歳の妊娠が扱われ、17歳の少年にすれば理解が追いつかないところがあったけれど、お人好しで熱血漢の先生と、おおむね素直な生徒たちの関係性は、おそらく当時の多くの人にとって、触れるほどに安心できる理想だったんじゃないかと思います。
かつてのテレビって、そういうものでした。今から見れば過激と非難されるけれど、それも実際は、テレビで描かれる世界がリアルではないという前提のもと、僕らが見たかった世界だったと思うのです。
そして現在も、テレビがリアルではない基本は変わっていないはず。なのに、およそコンプライアンス云々に押し流され、どことなく弱腰になってしまった。それも時代の流れなのだろうし、だからどうしてほしいというリクエストもありません。でも、たとえば『3年B組金八先生』は、現在のテレビドラマと違って半年間も放送していたんですよね。1年の半分も毎週フィクションを送り届けるのって、相当な気概が必要だったんじゃないでしょうか。それを発揮できなくなった事情もお察ししますが。
最近、飲み仲間によく叱られます。「まだNetflix観てないの?」と。聞けば興味深いコンテンツが多いらしいんだけど、そうした動画配信サービスにすっと踏み込めないのは、金八先生的なインパクトをいまだ地上波のテレビに期待しているからでしょうか。それはもう、この時代のリアルじゃないんでしょうね。

眼下の新築工事現場。たぶん初の夜間工事。着々ですな。