それを称賛力と呼ぶなら

日本に続きアメリカでも野球殿堂入りしたイチローさんのうれしいニュースに触れて思ったのは、人を称える大事さでした。それを称賛力と呼ぶなら、僕にはかなり欠けているものかもしれなません。
妬み。まったくもって粗悪で邪魔な感情だけど、何かにつけそこから始まってしまうところがあります。たとえば、誰かの持ち物を紹介する取材。豪奢なお宅のインテリアとか、コレクションしている絵画とか、あるいは滅多にお目にかかれないクルマであるとか。そういう類を見たいという一般的な興味の在り様は理解しているし、それに応えるのが仕事であれば、自分の感情など関係なく遂行しなければなりません。
けれど内心では、感嘆ではなく嫉妬の溜息が止まらないんですね。先方様の趣味の良し悪しに関係ありません。ただ単純に、おそらく自分の育ちで醸成された価値観との齟齬によって、無駄で生臭い呼吸を繰り返すスイッチが入ってしまうだけです。
その、自分では致し方ない条件を含んで形成された価値観は、そう簡単に変えられません。となれば、話題の矛先を変えるしかない。なぜあなたはその(普通では持ち得ない高価な)ものを愛でるのか? それを掘り下げていけば、個人特有の価値観が見えてくるし、あるいは僕のような人間が記事を読んでも嫌味にならないだろうと思うから。そのあたりを上手いこと丸め込んで書いてきました。特に、粗悪で邪魔な感情を受け入れきれなかった若い頃は。
しかし要は、僕に絶大なる称賛力があればいいだけの話なのです。境遇は人それぞれだから、妬んだりひがんだりしても仕方ない。さすがに現在はそっちのモードながら、ここに至るまでは、差ではなく違いと我が身を騙し込めるよう、かなり意識的に鍛えました。それでも欠乏を実感してしまう場面が、少ないなりに今もあるのが残念ですが。
イチローさんの話題に戻りますが、野球殿堂入りのニュースによろこべた、というか妬みなどまるで覚えなかったのは、彼の極めて稀な活躍をそれなりに知っていることと、何より僕が野球好きだからです。そしてまた改めて感銘を受けたのは、優れた選手の名誉を称えるシステムが確立していることでした。それが文化の継承に不可欠なら、称賛は歴史をつくっていく重大な要素のひとつと言えそうです。ならお前も大事にしろよと、つまるところそういう話です。

長いトンネルの渋滞中に想像しちゃいけないのは、大地震だと思います。

78歳のウルトラマン

幼き日のヒーローは、ウルトラマン。地底に潜んでいた怪獣や、地球征服を企む宇宙人が現れると、身を挺して僕らを守ってくれるのです。あるいは戦闘の場が都会となれば、ビルや高速道路をなぎ倒してでも。
もちろんウルトラマンは破壊者ではないので、人々が時間をかけて積み上げた建築物やインフラを敵もろとも壊すことなんて望んでいません。言うなれば、止む無し。その破滅ぶりが派手なほど、子供の頃の僕は感激していました。
けれど大人になるにつれ、3分経ったら空高く飛んでいく姿に、必ずしも「ありがとう!」と言えなくなっていきます。なぜなら、戦いの後始末の大変さが想像できるようになるからです。
「最初から光線なりビームを繰り出してくれたら被害も少なかったんじゃないかな」と、ため息交じりでウルトラマンを見上げる人が少なくなかったかもしれない、とか。場合によってはウルトラマンが倒したビルの下敷きになった民間人もいたはず、とか。いやまぁ、そんなことにいちいち関わっていたら勧善懲悪の物語は前に進まないし、何より憧れのヒーローなんて生まれないのだけど。
要するにリアルなヒーローとは、ある側面から見た限定的な救いの象徴に留まるものかもしれません。ゆえに異なる側面から見れば、放置や遺棄や裏切りの対象になる可能性も秘めている。だから思うのです。僕はウルトラマンにはなれないと。そもそも非力なただの人間というだけでなく、憎悪を向けられてでも何かを守り通す覚悟を持てそうにないから。
なんてことを、彼の国の大統領就任式を見て考えました。あらゆる敵を一撃で仕留めそうな言動の光線やビームを放ちながら、これから黄金時代がやってくるなんてセリフを吐けば、それはもう誰かのヒーローになること間違いなしでしょう。しかし、止む無しを繰り返すほどに後始末が大変になっていくとしたら、やがてどうなるのかしら。
いずれにしても彼の国の大統領はユニークな存在です。映画ではテロリストやエイリアンとの戦いに自ら臨んだりもするので、やはりタフさやヒロイズムが期待されるんでしょうね。何より78歳になってもウルトラマンになろうとするのだから、感服する他にありません。

時に僕の部屋まで揺らしていた近所の工事は、何だか一段落したみたいです。

僕を楽しませてくれる人たちに

こんな寒い時期でも野球をやっていると言えば、ほとんどの方が「元気ですねぇ」と半笑いを浮かべます。自分だって呆れるくらいですから、苦笑もろもろバッチコイですけれど。
しかし、どんな時期であれ僕の「野球したい!」願望は、僕ひとりで叶えられるものではありません。心から感謝しているのは、仕事の隙間時間も使って練習場所の確保にいそしんでくれるチームメイトの存在です。これは断言できますが、そうした献身的な人がいないと大人のクラブチームは続きません。
そしてまた存続に欠かせないのは、確保してもらった練習機会を積極的に生かす各自の姿勢と、定期的な新規メンバーの勧誘。さらに、チーム内の明朗会計。もしあなたが大人の集まりを企画されるなら、ぜひ参考にしてください。とは言え、僕が現チームで果たせているのは積極参加と現金払いだけなので、偉そうなことは言えませんが。
さておき、献身的なチームメイトをこの数か月間悩ませていたのが、利用頻度が高かった河川敷グラウンドの使用不可でした。昨年8月末の大雨で冠水被害が起こり、広い範囲で復旧工事が必要になったようです。当初は2カ月程度で終了すると聞きましたが、実際には年末までかかったそうな。「よう」だの「そう」だのと曖昧な言い回しになるのは、そんな状況下も別の場所を探し当ててくれたチームメイトの苦労を知らなかったから。本当にありがたい。心の生涯最優秀選手賞を彼らに!
そんなこんなで一昨日の野球は、昨夏以来の河川敷。以前と変わっていないように見えたけれど、実際に足を踏み入れたら前言撤回です。あちこちデコボコしていた内野が全面的に平らになり、深く掘れていたマウンドもキレイな山を描いていました。ここまで整える苦労を想像したら、早期の復旧を判断された方々や、工事に携わった人々にハグしたくなりました。
そうしてしみじみ思うわけです。僕のささやかな楽しみは、多くの人によって支えられているのだと。方々の被災地の復旧が遅れているというニュースを耳にすれば、野球グラウンドの再開をよろこぶ気持ちに影も差します。それはそれとして、感謝の念をもって今後も存分に使わせていただくことで、僕は僕を楽しませてくれる人たちに応えていきたいです。

伝わり切らないだろうけど、見違えるほどナイスなコンディションになったんです。

「テナント募集」の不穏

勝手に見守ってきたベランダ眼下の工事は、2023年9月のガソリンスタンド解体に始まり、更地からの新築建設へと移行し、外から見る限りでは昨年末に完成へと漕ぎつけたようです。建ち上がったのは、地上3階のビル。それがどんな施設になるかは、長く続いたガソリンスタンドが閉店を告げたときからの興味でした。
前に、新築ビルの対面で営業しているコンビニのご主人の推測をお伝えしました。「病院じゃないかねぇ」というのは、それも僕がここに住んでから改築されたビルに数多く入った、薬局や内科などの医療関連との連携を見込んだものです。
これはなかなか説得力がありました。その元ガソリンスタンドは、繁華街と呼んでいい駅前から徒歩数分ながら、賑やかな街区からは外れ、一般の店舗を展開するには難しそうに思えたからです。それゆえ既存の施設と連携する予定があるからこそ、ここに病院を興すのだろうと。
ところが、出来上がったビルは各階で個別に仕切られ、どう見ても1棟丸ごと病院になる気配がありません。どうやら、コンビニのご主人や、その推測に乗った僕がもっともないと予想した、複数のテナントが入るビルになるようです。
「うんうん、誘われたよ。でも、賃料が話にならないほど高かった」
これも、コンビニのご主人がどなたかと立ち話にしているときに聞いたセリフです。完成間近でも入居を誘うんですね。満杯にする予定もなくそこそこ大きな器をつくるなんて、そんな賭け事みたいなことができるのが信じ難かったなあ。そんなものなんですかね。
先月あたりから、入居希望者らしい人たちの内見を目撃するようになりました。そうしていくつかの部屋は内装工事が始まったものの、ビルの入り口にはまだ「テナント募集」の張り紙。このビルの先にも、いくつか空きテナントがあるんですよね。最初はなかった「飲食可」の情報が追加されていたり。
どうなっていくのでしょう。店や施設が町をつくっていくのだとしたら、空きが多いと不穏を感じざるを得ません。個人的に、ここはそんなに栄えてほしくないけれど、人気がないというのもねぇ。どう埋まるか確定するまで、いささか落ち着かない気分です。

手つかずの部屋もあるみたい。

往年のテレビ好きを救う措置

朝ドラの話をした一昨日に思いついたテレビの話題を。しかし、これはテレビの話じゃないかもしれないな。
何かと世間の流れに乗れない性質ゆえ、Netflixに加入したのは昨年の秋。きっかけは、「まだ『地面師たち』観てないの?」という飲み仲間たちの呆れでした。遅れを取り戻そうと鑑賞した感想を正直に言えば、回を追うごとに僕にはフィットしなくなっていった。もはや地上波では放送できない描写が配信サブスク系の特徴だと聞いていたけれど、最終的に『地面師たち』は残虐性だけが印象に残りました。あくまで個人の見解です。
さておき年末には、U-NEXTも試してしまいました。長年のファンである音楽家のライブが晦日に限定配信されたからです。わりとためらったNetflix加入によって、気持ちのタガが外れたのでしょう。
そんなわけで本日現在は、以前からのAmazon Prime Videoを含み、計3種の動画配信サービスを利用している状況になります。実感しているのは、「そんなに見られないなあ」ですね。サービスごとの特性は理解できるものの、重複している番組も多々あるので、早期の集約を検討中です。
もうひとつ感じたのは、膨大なプログラム数に目移りするあまり、1作品をじっくり鑑賞できなくなる恐れです。これがダメならあれもあるってのは、豊かなようでいて、実りなき浮気を繰り返すような気がするんですね。
それに、頑張って作品をつくり上げた人たちを考えると、申し訳ない思いが生じるのです。前段で多少つまずきがあっても、今後の展開に希望を感じ取れれば、何とか最終話まで見届けたくなりませんか? その逆パターンが『地面師たち』でしたが、肌感にそぐわなくなっても最終話までコンプリートしたのは、物語に触れた義理があったからです。自分でも面倒臭い時代遅れの感覚だと思いますが。
それでも動画配信サービスに感心しているのは、1話に1時間を要する連続ドラマをつくるところです。できれば浮気せずじっくり見てくださいってボリュームですからね。その流れで言えば、Netflixの『阿修羅のごとく』はよかった。45年くらい前にNHKが放送したドラマと同じ脚本なのに、その再ドラマ化が配信サービスで実現するというのも、やはり時代なのでしょう。あるいは時代に即した作品づくりが、往年のテレビ好きを救う措置になっているのかもしれませんね。今の僕のテレビ好きは、テレビに映ればOKに変化しているみたいだし。

ここに来て街角工事による、ちょくちょく渋滞が増えている気がする。

噂と尾ひれ

注意力が極めて散漫な人が運転するクルマと同じくらい乗りたくないのが、噂話。あれって、わずかな降雪で雪だるまづくりを試みるみたいに、転がすほどに泥が混ざっていくでしょう。いわゆる尾ひれがついて、どんどん醜悪になっていく。それがわかっていながら、あえて汚い雪だるまを嘲笑おうとする興味の持ち様は、その出発時点で潰しておきたいと思うのです。
何なんだろう。外される梯子の大きさ、ないしは信用との落差に比例して、「そう言えば」とか、「聞いたところによると」という尾ひれが増えていくのかな。中には、その場にいなかったのにさも当事者みたいな顔で「実は」と打ち明けるような人も出てくる。僕はそれも、泥混じりの雪だるまみたいに見えます。
とは言うものの、およそ誰かを貶める噂話を完全に遮断できるほど、我が精神は強くないし、清くもない。目や耳にすれば、やっぱり意識が向いてしまいます。なおかつ、そんなことがあり得そうだと思ってしまう情報であればなおさら、なんですよね。まぁ、あり得そうな事柄こそがまさしく尾ひれの正体なのだけど。
しかし、尾ひれは言い得て妙ですね。増えるほどに推進力も高まるなら、そりゃ噂話はどんどん世間を突き泳いでいけるわけだから。
結論として、噂話は迷惑なんです。一度でも頭の中に取り込まれてしまえば、自分の中にあるかもしれない「そう言えば」や「聞いたところによると」を照らし合わそうとするから。そうして個人の推測をカードゲームみたいに切り合うのが噂話のおもしろがり方なのでしょう。けれど、真実にたどり着けないなら時間がもったいない、というのが僕の見解です。
いろいろ言ってますけれど、煙が立ち上っても曖昧な火事場泥棒的な情報には乗らないよう気をつけたいです。乗ってしまえば、いつか乗せなきゃいけなくなるかもしれないし。何であれ、尾ひれの種類で人間性が透けてくるなんて事態を引き起こさないことですね。僕が火元になったら、どんな尾ひれがつくんだろう。想像したくもないな。

絵ネタに困ったら無口な働き者にフォーカス。しかし都心はクレーンだらけだな。

 

今日を迎えるために今回の朝ドラを見続けてきた

すでに記事が公開されているので堂々と触れますが、現在放映中の朝ドラ『おむすび』が始まって3週目に入った頃、同番組の制作責任者に話を聞く機会がありました。そのタイミングは、ご覧になっている方、または興味がある方ならご存じの通り、「朝ドラにギャル?」などという逆風が吹き出していた頃でもあります。ここ数年は朝ドラを見続けている僕にしても、今回はなかなか難しいかもなあと思っていました。
しかし、世の中何が起きるかわからない。取材に当たり、ちゃんと見ておいてよかったなと胸を撫で下ろしたのは言うまでもありませんでした。
さておき今作は、食を通じて未来を考える栄養士が主人公です。彼女がその道を選んだのは、幼少期に起きた阪神・淡路大震災での避難体験でした。この災害の記憶は、物語の根底に横たわっています。
それから、記事では主題と外れたのであまり書けなかったけれど、制作責任者の方は、平成という時代を描きたいという思いがあったそうなんですね。
平成を評する場合によく使われる「失われた30年」。主に経済の低迷期を指す言葉ですが、他方では平成七年に件の阪神・淡路大震災があり、平成二十三年には東日本大震災が発生しています。となれば平成は、本当に何かを失い続けた時代なのだろうか? そんな疑問、あるいは憤りを制作責任者が感じたのは、彼自身が青春の頃や社会に出て働いた時期に平成を駆け抜けたからだと話してくれました。
「若い自分が懸命に過ごした時代が喪失だらけかと言えば、そんなはずはない。仮に“失われた”とされても、それでも懸命に生きた人々はたくさんいる」
そうした切実な事実を、ドラマに登場する市井の人々によって表現したかったのも、『おむすび』の狙い、または願いなのだそうです。
本日1月17日は、阪神・淡路大震災から30年後の当日。このタイミングに番組の放送があるので、僕は「何が描かれるのかを見守りたい」と書き残しました。期待に添うトピックは出てこないかもしれません、いずれにせよ僕は、今日を迎えるために今回の朝ドラを見続けてきたのです。

月光は難しくても、日の出直前の輝きなら何とか撮れる。目の玉が縮むほど寒いけれど。

 

値上げ

愚痴めいた結末を迎えそうな予感のまま書きます。
最近になり、やっぱりおかしいかも? と気付いたことがありました。スーパーマーケットで日々の買い物をしていると、自分の予想額を超えるようになったんですね。もともとがどんぶり勘定なので、しばらくの間は「まぁそういう日もあるよな」くらいの感覚でいたのです。
しかし、以前よりは値札に意識を向けながらも、なかなか予想額を下回らない。もとより高価なものを選んではいないし、さして余計なものには手を出していないはずなのに。
なぜ? と首を傾げながら会計後に袋詰めをしていたある日、というのはこの年末あたりですが、ようやく悟ったのです。これが値上げの影響なのかと。
少しでも安くてよい品を求める方々が聞いたら、暮らしを何と心得ると叱られるほど、生活者としては最低レベルの無頓着ぶりですね。そうして誰かに謝りたい気分になった途端、値上げを嘆く人々の気持ちが真に迫ってきました。
コロナ禍以降で説明機会が増えた原材料の高騰。そして円安。輸入品を扱う懇意の楽器店は、そのせいで度重なるギターの価格“上昇”改定に迫られているそうです。担当者がこぼすんですね。若者にも手が届くよう企画された低価格ラインが、いつの間にかレギュラーラインに匹敵する値段となってしまい、初心者を遠ざけてしまうのが心苦しいと。
そんな思いを耳にする一方で、ネット関連では楽器店の値上げを揶揄するような声も上がるわけです。「これが高級ブランドのやり口」みたいな言い回しで。胸が苦しくなりますね。値上げって、売る側にしても心痛を伴う判断みたいだから。
今日からガソリン価格が上がるそうな。これまた原材料の高騰と円安が大元の理由ながら、政府による補助金の段階的縮小の煽りを受ける形らしい。それなら自家用車に乗らければいいという局所的な話でもないんですよね。ご存じの通り、燃料費の増加はほぼ全国民の生活に何らかのダメージを与えていくから。
値上げに関して思うのは、自然災害みたいに仕方ないものとして受領しなければならいのか、ということです。しかし、これまたご存じかも知れませんが、ガソリンにかけられる複数の税金が占める割合は、小売価格の4割に達しているんですよね。その税制が見直されず、雨が降ったら各自雨具を用意せよ的な値上げが続くのは、もはや天災ではないと思うのですが、どうでしょう。
そんな忸怩たる思いのぶつけ先がわからないので、結局は愚痴になってしまうのでしょう。ひとまず今日の僕にできるのは、自分の財布は自分で守ることくらいかもしれません。

感じのいい月が上がっても、感じよく撮れないのが常。

この町のこの場所で

成人の日の月曜、飲み仲間かつ野球のチームメイトが開いた服屋に行ってきました。年末のプレオープンはタイミングが合わなかったので、グランドオープン3日目ながら、この連休中にどうしても顔を出したかったのです。誠に勝手ながら、心ばかりの祝意を示したかったから。
彼の前職は、外から見る限り安定した仕事でした。けれど他人には想像もつかない決意のもと、ひとりで店を出す覚悟を決めたわけです。もう、それだけで大尊敬。僕も個人事業主ですが、何と言っても自宅で原稿書きができる職種とは天と地ほどに規模が異なります。
まず店を構えなければならない。手持ちの建物がなければ、相応の手段を講じて借りなければならない。聞いたところによると、一般住居の賃貸より信用に関する条件が厳しいらしいんですね。彼の場合は事業計画書を作成し、オーナーにプレゼンを行った末に契約を勝ち取ったそうです。ここまでの段取りですでに、僕の限界値を完全に超えております。
そこから内外装の設えや、商品の仕入れや展示や、在庫の管理や宣伝や、それ以外は僕に見当もつかないたくさんの仕事をこなして、ようやくオープンに漕ぎつけるのでしょう。いやもう本当に、様々な投資がほぼ不要の職種でよかったと思います。
さらに店舗運営で恐ろしさを感じるのは、一度構えたら動けないこと。たとえは悪いけれど、店は巣を張ったクモのように、同じ場所で客を待ち構えるわけですよね。それは相当に胆を据えないとやっていけないはず。
ただ、その町の同じ場所に居続けることには希望もあるみたいです。僕が彼の店にいたとき、買い物帰りと思しきおばさま二人連れがドアを開けて入ってきました。
「ここって、前は美容室だったんじゃない?」
「そうそう、40年以上やっていたのよね?」
そんなご近所情報を彼にひとしきり確認して、ろくに服も見ずに出ていきました。「また来るわね」と言い残して。
前の店主がこの町のこの場所で残した何かが、今度の店主にどんな影響をもたらすかはわかりません。けれど40年以上も経営が成り立った運や縁が引き継がれることを心の底から願います。いつもそこにあるって、おそらく町の人々にとっても尊いことだから。職種は違えど同じ独立を果たした者として、可能な限り応援したいです。言いそびれましたが、開店おめでとう。

「トナオさんには」と勧められた、袈裟懸けジッパー付きのモヘモヘセータ―。

「○活」

今さら毎日何かしらの記念日があることに驚くまでもないのだけど、今日は「婚活作戦会議の日」なんだそうですよ。2月14日がバレンタインデーで、3月14日がホワイトデーなので、ならば1月14日をもろもろの準備開始に充てようという狙いらしい。定めたのは結婚相談を生業とする会社なので、商魂などと言ったら失礼ですが、どちら様も頑張っておられるようですね。
最近の結婚状況でよく耳にするのは、マッチングアプリの活用です。飲み屋あたりで新顔のカップルに話しかけてみると、それで出会ったという人がけっこういるんですよね。けれど自分で聞いておきながらアプリと答えられて内心戸惑うのは、完全なジェネレーションギャップという他にありません。「そうなんだ」と平静を装った表情を浮かべるわけですが、「そうなの?」と疑念めいた本心を悟られないか焦ったりもする。だから飲みの場であれ、軽々しく馴れ初めなどたずねないほうがいいというのは、ひとつの結論です。
さておき、婚活アプリも一時期ほどの勢いがなくなったという記事を目にしました。正確な個人情報の提供が足かせになっているそうな。結局のところ、ルックスや収入などのフィジカルな条件で相手の満足を得られるのは、アプリがどうであれ、いつの時代も恋愛強者だけなんだとか。
他方、記事では出会いの方法において、お見合いと職場の減少も著しいと書いてありました。前者は僕でも古いと思います。けれど後者も減っているんですね。プライベートに関する事柄はセクハラに値するのでしょう。ゆえに当人だけでなく、同僚や後輩や上司もこの件に迂闊に触れられないのかな。何だか、いろいろ窮屈ね。
結婚ないしは出会いに関して、僕からの見解は控えておきます。ただ、方々で定着した「〇活」という言葉があまり好きでないことだけお伝えしておきます。一定のタイミングを知るきっかけになるかもしれないけれど、人を追い込む呪文みたいな気がするから。僕の世代なら「終活」を問われるかもしれないけれど、それも大きなお世話なんですよね。結婚も、いつどこで誰としたって、あるいはしなくたっていい。呪縛なき場所にこそ自由は宿るだろうから。

この時期でも幹線道路沿いの植え込みがピカピカ。日差しのせいかな。