専務のお知らせ

先日、いわゆる二十年来の友人が勤める会社から、『役員変更のお知らせ』と題したPDFが送られてきました。この類、以前は郵送だったけれど、今はメールなんですね。
さておき、その『お知らせ』における最大のトピックは、僕の友人の名前が専務取締役という役職名の下に記されていたことです。こういう事実に触れると、あれこれ考えます。専務ってどんな立場だったっけ? といったところを起点に。
一般的には企業の方針や経営戦略の責任を負う、経営サイドの偉い人なんですね。『お知らせ』には株主総会での決定と書いてあったので、当人がなりたくてなったというより、これまでの業績に鑑みて選ばれたってことなのでしょう。それはやっぱり偉いことです。
この件、通知が来る少し前、いつも通りの仕事を終えた後の飲み会で、本人から直接聞きました。その会には、彼の部下というより僕も顔なじみの若手数名が参加したんですね。遠慮なく飲み食いしていた若手たちは、彼のことを部長と呼んでいました。別人に思えるくらい新鮮だったな。常に1対1で仕事をしている彼のことを、僕は名前で呼び続けてきたから。
となると、その若手たちは彼のことをすでに専務と呼び変えているのだろうか。互いの気持ちはどう変化するのだろうか。あるいは若手たちは、「自分もいつかは専務になりたい」と思うのだろうか。そんなことが気になったりします。
役職ってどうですか? 僕はよく、然るべき立場に就き、求め以上の結果を出している方々に話を聞きます。そんな彼らの言葉には、責任の重さに一人で耐えている気配が感じ取れるんですね。そのあたりを察するのがインタビューの醍醐味なのだけど、僕が思うに彼らは、然るべき立場に就いてこそ本来の力を発揮できるタイプなのでしょう。
見方を変えれば、組織が彼らを必要としている。その意味や価値を痛感しているからこそ、見栄や世間体に関係なく、重責をまっとうしようと努めている。それこそが、本来の役職ないしは階級の正しい在り様なのかもしれません。って、組織から離れて長い人間が言っても説得力や真実味は薄いだろうけれど。
いずれにしても、本人から聞いた段階では「へぇ」くらいにしか思わなかった『お知らせ』を正式書面で伝えられて、彼が選ばれたことを改めてうれしく思いました。今度会ったら専務って呼んでみようかな。

ブラシノキと同じ軒先から、今度はびわの実。なんと豊かなお庭でしょう。

6月を嫌ってはならない

10日も過ぎて今さらですが、6月のイメージについて考えてみます。イメージと言ってもとらえどころがありませんから、まずは月の名前を頼りにしましょうか。
6月の和名は水無月。音が優しくて素敵。ご存じの通り「みなづき」と読みますが、無理くり送り仮名を加えると「水が無い月」になります。なんで?
和名の月は、今の暦より1カ月ほど先の旧暦をもとにしているので、水無月は現在の7月に相当します。では、7月の状況とは何か? ここでよく取り上げる二十四節気がそうであるように、農業が生活の中心だった時代の暦は、季節の変化に即した農作業の段取りを示す形になっています。
そんなわけで7月の田んぼは水が引くので、水無月と呼ばれることになった、というのが最有力説。その他にも、重労働の田植え作業をやり終えた時期に当たることから、皆仕尽(みなしつき)が訛ったなんて説もあります。
ただし見落としてならないのは、古語における「な」は現代の「の」に相当する文法上のルール。「無」はあくまで当て字らしいので、水無月を現代語訳すると「水の月」になるわけです。だから雨が多い今の6月にも合うよねと、和やかに解釈してよさそうです。
英語の6月はJune。結婚や出産を司る、ローマ神話のJuno(ユノ)が語源。幸を招くとされるジューンブライドは、この月に結婚するとJunoのご加護が受けられるという伝承によるものらしい。また、ヨーロッパあたりの6月は気候が安定するらしく、結婚式を開くのに良い時期といった説もあるそうな。
しかし海外でも諸説あり。古い時代の欧州は、3月から5月まで一家総出で農作業に全集中する時期だったので結婚は禁止。その解禁を待った結婚式が6月に集中したことを表して、ジューンブライドと呼んだとか。もしかすると、6月に結婚してすぐに妊娠すれば、翌年の農作業が始まる3月までには出産を終えられる狙いもあったのかな。
そんなこんなで和洋問わずどの場所も、自然の巡りと暮らしのリズムが密接に関わっているわけです。であれば、雨が多くて湿度が高くて薄曇りの空が続くイメージの6月を嫌ってはならないと、梅雨入りの報にげんなりした自分に言い聞かせなければなりません。

毎年この時期になると欲しくなるのが乾燥機。業務用、いいよね。

 

ガウディ

長嶋茂雄さんの逝去もあり、「人はどう死ぬかより、いかに生きたか」みたいな難しいことを考えていたところで、今日がアントニ・ガウディの命日だと知りました。
ガウディと言えば、サグラダ・ファミリア。この教会の工事が始まったのは1882年3月。その翌年、当時はまだ無名に近かった31歳になるガウディが二代目主任建築士に就任。それから142年を経ても完成に至っていないことが、この建造物の魅力のひとつとして語られていますよね。
ガウディが亡くなったのは、約2週間後に満74歳の誕生日を迎えるはずだった1926年6月10日。ミサに向かう途中の段差につまづいて転倒したところにレールがあったようで、運悪く通過した路面電車に轢かれたそうです。しかも晩年はいで立ちがラフ過ぎたため浮浪者に間違われ、手当てが遅れたらしい。
そんな死の瞬間だけに絞れば、いくつもの残念が頭を過ることになります。しかし僕が説明するまでもなく、詳細な設計図はガウディの頭の中にしかないとされた壮大な教会の建築は、幾多の困難を乗り越えて現在も続いているわけです。その理由は、ガウディが思い描いたサグラダ・ファミリアを誰もが見てみたいからに他ならないでしょう。
それほどの歴史的アイデアを、次世代とともに達成させる遺産として残した。それがガウディの生きた証なんですよね。ある資料によると、彼は亡くなる直前、サグラダ・ファミリアの彫刻師にこんなことを言ったそうです。
「とてもいい話がある。明日話すね」
その話が何だったかは不明のまま。けれどサグラダ・ファミリアに埋葬されたガウディは、それを伝えるタイミングをずっとうかがっているのかもしれない。あるいは、工事に携わった人々もそれを聞きたくて現場に通い続けているのかもしれない。
どんなに時が過ぎても想像力を掻き立ててくれるのは、やはり人が生きている間の言動なんですよね。僕がガウディにも長嶋さんにもなれないのはわかりきった上で、さて何をすべきか。考えたところですぐに答えは出ません。何しろ極めて難しい問いなので。

また始まるらしい。今度は醜い眺めにならなきゃいいけれど。

 

時代の常識、あるいは気分

自分の無知を嘆くばかりですが、この国の徴兵制は、明治六年(1873年)に発布された徴兵令によって始まったそうです。閉鎖的だった武士の時代を終え、諸外国との積極的な交流(ないしは交戦)を行う近代国家をつくる上で軍事力は不可欠。ゆえに当時は臣民と呼ばれた国民は、日本帝国を守る兵力となるべし。そういう理由でした。
17歳から40歳までの男子国民全員を、国民軍名簿に登録。20歳になると徴兵検査を実施。合格者の中から抽籤(抽選)で3年間の兵役に服する者を選出。これが徴兵令の軸でした。
昭和2年(1927年)になると、徴兵令に代わって兵役法が施行されます。やがて日中戦争が起こり、それが太平洋戦争へと拡大するにつれ、兵役に就くべき条件が緩くなっていきました。それまで徴兵の対象外だった学生までも戦地に送り込むという、昭和18年(1943年)に始まった学徒出陣がその代表例です。
何を言いたいかというと、映画やドラマで見るこの国の徴兵は、第二次世界大戦の直前、またはその最中の“赤紙”によるものが大半と思っていたんですね。ところが、それ以前から成年男子は軍に入るという国の決まりがあり、国民全体に「命を賭してしてお国に奉仕せよ」という常識が根付いていたら、やっぱり誰も徴兵を断れなかったんだろうと、そんなことを思ったのです。いやまぁ、主人公の周囲が次々に出兵していく、ここのところの朝ドラの影響ですが。
時代の常識、あるいは気分というのは、如何ともし難いのでしょう。ミド昭和に生まれた僕ら世代の中高時代は、教師による体罰が存在していました。怪我を負わせるとなればさすがに行き過ぎであっても、受ける僕らも、そして親も、「多少ならかまいません、先生」的な感覚を持っていたんですよね。
しかし今となっては異常です。改められて当然だと、当時を生きた僕らも理解できる。いやもちろん、徴兵と体罰を並べていいものではないだろうけれど、それも止む無しが当たり前となってしまう時代があるというのは、何とも恐ろしいと思うわけです。
前にも書きましたが、そんなことがまた頭を巡るのかと想像すると、ここからしばらくの朝ドラがしんどいなあと、ただそれだけの話です。

ここは毎年、昨年と今年が混在する場所です。

それを良しとして

小さな飲み屋のカウンター。先日の晩は、「僕のこと覚えてます?」と朗らかな声とともに現れた男性がストゥールに腰掛けました。こういうときの店主はプロなので、「もちろんですよ」と明るく応じて、たぶん来店2回目の客をよろこばせます。
すでに2杯目に取り掛かっていた僕は、そんな方を黙って見ているのです。誰も信じないけれど元来が人見知りで、スイッチが入らない限り初対面の人に話しかけたりできないから。あと、底意地悪くも人の様子をそれとなく観察するのが好きなところもあります。
さておき、自分なりのペースを構築せんとばかりに、その男性はいろんな話題を繰り出しました。有名人の誰それと飲み友達であるとか、まぁそんな感じで。この類のトピックに関心が及ばない性質なので、僕は目の前の2杯目をゆっくり楽しみ続けています。
まだ喋るのかなあと思っていたら、今度はダイエットの体験談。1年半くらい前に意を決して断酒し、ジムなど通って体重を15キロくらい落したらしい。それを聞いて初めて彼のほうに視線を向けたら、今はその直後と思えない体型でした。
周囲の気配を察したのか、「でもね」とスマホを取り出して店主に見せたのは、割れていた当時の腹筋写真。そこでようやく、僕なりの関心が動き始めたのです。それは、良かったとするタイミングの写真を持ち歩いている人に対する興味。
あくまで好意的な疑問だけど、若かろうと痩せていようと、それを良しとして人に見せる判断基準とは何なのだろうか。まあね、「今は見る影もなく」といった小さな笑いを起こしたいサービス心だとは思いますが。
でも、僕にはできないな。エピソードだけなら、こんなことがあったと話せるかもしれない。けれど写真は、今も昔も人に見せて良しの自分が存在しない。それに、仮に自分の良かったときを披露して、相手を困らせたくないとも思います。要するにそれは、僕のトークで用意していない術なんでしょうね。
ちなみに、僕は彼の腹筋写真をのぞきませんでした。関心も義理もないとジャッジした自分の底意地の悪さに吹き出しそうになって、ごまかしついでに2杯目を空けた夜でした。

季節のお印。

「怒られますから」

いわゆる客商売には、客側に悟られてはならないルールや習慣があると思うのです。ただ、その中には改善してもいい非合理なものもあるんじゃないかと勘繰った話です。
そんなわけで、僕が住むマンションの大規模改修工事が始まって1カ月。建物の全周に渡って足場が組まれ、その外側には黒いメッシュの幕が張られたおかげで、鬱々する日々が続いております。足場を歩く人の姿が窓越しに見えるのも落ち着きません。
一方で、足場を歩く作業員の方々はどんな気分で働いておられるのでしょうか。おそらく慣れていらっしゃるので、もはや気分がざわつくことはないのだろうけど、できれば住人と目を合わせず作業ができたら気が楽なんでしょうね。
僕は自宅仕事が主なので、わりとよく作業員と遭遇します。その場合の彼らは、目線を部屋から完全に外しています。そしてこちらに気づいたら、すかさず小さめの声で挨拶を発する。その徹底ぶりは小気味いいほど。なので、工事は気乗りしないままだけど、作業員に罪はないよなと、そんな感想を抱くことになるのです。
他方、数日前にはこんなことがありました。買い物帰りの1階のエレベーターホール。先にいたのはおじいさんの作業員。到着したエレベーターを共に利用すると思ったら、僕だけ乗るよう仕草で示したのです。いっしょにと言うと、聞き取れるぎりぎりの小声で、「怒られますから」と返されました。
そういうものなのか。でも、ちょっと違うんじゃないか? 大きな道具を担いでいたならまだしも、一人の小柄な作業員となら問題なく乗れるし、何よりも、エレベーターは老人のためにあると言って間違いないじゃないですか。なぜか釈然としなくて、半ば強引におじいさんを先に乗せてしまいました。そのエレベーターホールのやり取りも、結果的に作業員の大事な時間を浪費したんじゃないかと思います。
今時はほんの些細なことでも摩擦が生じるから、サービスを提供する側は酷く慎重な態度に終始するのかもしれません。けれどそれも行き過ぎると、非合理が勝る。仮に僕が怒られても、おじいさんとのエレベーター同乗は断らないな。それで1日も早く足場と黒メッシュが撤去されるなら、これほど合理的な判断はないはずだし。

この高さの足場を歩くって、やっぱり危険なお仕事だよな。

習い事の日

この国の今日は、子供が習い事を始めるのに良い日だそうです。その起源は、室町時代に能の観世流を大成させた世阿弥。著書の『風姿花伝(ふうしかでん)』で、習い事を始めるには数えの7歳(満6歳)が最適とした記述が代々受け継がれ、江戸時代になると歌舞伎あたりで「六歳の六月六日」と語呂合わせを楽しむような言回しになり、広く知れ渡るようになったらしい。
習い事とは、学校外で身に着ける運動方面または文化的な技能ということでよろしいでしょうか。2022年のデータによると、小学生の72.5%が何らかの習い事に通っているとか。予想よりうんと多いと驚いたのは、僕が子育て関連にまるで疎いからでしょう。
これも無知ゆえの疑問ですが、「六歳の六月六日」はさておき、子供が習い事を始めるきかっけは、子供発信と親発進のどちらが多いのでしょうか。子供の年齢が低いほど親の誘導率が高くなるのかな。それで仮に子供が嫌がったとして、それでも何とか通わせて、後々感謝される確率はどれほどなんだろう。
嫌味な話をしたいわけじゃありません。僕も小学生のうちに、習字とソロバンに通わされたのだけれど、本当に面倒臭くてさぼりまくり、だからその後の人生に何も役立たず、親に無駄な出費をさせたことを大人になってから申し訳なく思いました。我が子の堪え性のなさをすっぱり諦められたのか、親から愚痴を言われたことはありませんでしたが。
けれど、習うって大事ですよね。これも大人になってから痛感した事実です。僕が自分発信で身に着けたいと思った運動方面や文化的技能は、すべて遠回りや横道がついて回る独学、というか我流。つまり優れた結果にたどり着くまで余計に時間がかかる道筋だったわけですが、それでも諦めなかったのは、理由もなく上達したい意欲が絶えなかったから。
すべての習い事がそうだったら、この国は運動や文化に長けた人だらけになるだろうな。いや、物事はそんなに単純じゃないか。きっと今だって、僕のように堪え性がなく、それよりもこっちが好きになってしまい、親に溜息をつかせる子が少なからずいるだろうし。

白も凛としていて、いいんですよね。

海外単独迷子/ローマ編

せっかくなので海外単独迷子の続きを話します。今日はローマ編。しかしロンドン編とくらべると、かなり間抜けで何の教訓もないんですよね。ま、いつもそうだからいいか。
初めて訪れたイタリアはオートバイの旅。この取材は、ランチアのワゴンと2台のオートバイで移動。先導するワゴンにオートバイがついていくフォーメーションが組まれていました。
イタリアに入って確か3日目。昼間のうちにローマの宿に入り、周囲を散策した後の取材の帰りでそれが起きたのです。川沿いを走る道の夕景に油断したのがすべての始まりでした。
ふと先導車に目をやったら、そこにいたのはランチアではなくベンツのワゴン。どこで仲間とはぐれたのか一切不明。今思えば、いったん止まって携帯電話で連絡し合えばよかったはず。けれどそうしなかったのは、頭の中でインディ・ジョーンズのテーマ曲が流れてしまったから。
二輪好きなら共感してもらえると思うけれど、オートバイの身軽さは解放感を招き、なおかつ冒険心をあおるんですね。だから必ず宿に戻れる根拠のない自信が湧き上がってきたのです。何しろインディ・ジョーンズがヘビロテで鳴り響いていたし。
標識などを頼りに、とにかくローマの中心部へ。とは言え初めての土地なので、闇雲に走っても仕方ない。そこで、まずは地図を手に入れようと。こういうときはアドレナリンが知能レベルを上げてくれます。歴史的な街なので、遺跡の近くをかすめれば土産物屋があるはず。予想は的中。午後7時過ぎ、荘厳っぽい建造物の傍らに移動式と思しきスーベニアショップを発見! そこのおじさんを捕まえてまくしたてました。
「地図ある? 『ローマの休日』で有名なトレビィの泉のそばに行きたいんだけど、ここはどこ?」とか、ほぼ日本語で。おじさんも面食らったでしょうね。すみませんでした。でもほら、映画のインディも逃走中は自分勝手だし。
さておき、確実な情報たる地図を読み込んで再び発進。それから1時間くらいかな。不安よりも夜のローマを一人で疾走する爽快さが勝りながら、見覚えのある景色がいきなり目に飛び込んできたところで迷子終了。
意外に呆気なかったです。だから、その10年前のロンドン単独迷子と同様に、自分の方向感覚と帰巣本能の高さを誇ることになってしまいました。でも、そんなものは確かめようがないし、二度の経験もたまたま無事だっただけかもしれません。
そんなこんなで何の教訓もありませんが、旅の記憶は予定外のピンチこそ濃くなるのは間違いないでしょう。けれどもし三度目の単独迷子があれば、いよいよ正直が晒されるんだろうな。

本日の天気を知った午後5時半。

予定を変更します。自由に何かを書くとして、長嶋茂雄さんの訃報を聞いた後では、他の何も頭に浮かびません。
とは言え、僕の個人的な思い出をもとに弔辞めいたことを記したところで、これと言った価値が生ずるとも思えないんですね。何より僕はその他大勢に属するただの一ファンに過ぎないから。それでも、心の奥がじりじりとうごめいて、何かせずにはいられない気持ちが抑えられなくなる。こういう衝動は、あるいは僕より若い世代も、いつか経験する日が来るかもしれません。
89歳で亡くなる3カ月前まで公式の場に姿を見せていたので、世代によって印象が異なると思います。今となっては晩年に当たる、2004年3月の脳梗塞発症以降の長嶋さんしか知らない人にすれば、自分が生まれる前に名を残した教科書の中の偉人に触れるような感覚だったのではないでしょうか。
もう少し世代をさかのぼると、2期に渡り15年間務めたジャイアンツの監督としての長嶋さんの記憶が濃いはずです。
僕はと言えば、その前を知っている最後の世代になるかもしれません。プロ野球選手として活躍したのは17年。現役引退は38歳だったので、長嶋さんの人生でプレイヤーだった時間は、そうではない時間より短いわけです。
けれど僕は、そうではない時間を生きた長嶋さんを見るときも、どうしようもなく心を動かされた現役時代の姿が重なっていました。その如何ともし難い思いの象徴が、背番号の3。ゆえに今もってどんな場所でもこの数字を目にすると、機械的に頭に浮かぶのは長嶋茂雄という名前なのです。ご本人は記憶に残る選手でありたいとおっしゃっていたようですが、少なくとも僕ら世代にとって3に意味を持たせた点で、決して忘れられない人になりました。
こういう話、世代を超えて語り継げればいいと思います。今後の命日に行われるプロ野球の試合では、全選手が背番号3をつけて出場するとか、なぜそうするのか毎年知る機会を得られるとか。そのくらいして当然だと古い世代が声を挙げるくらい、極めて特別な日本人でした。心からご冥福をお祈りします。

こんなレコードを今も持っているくらい憧れた、という話です。

海外単独迷子/ロンドン編

昨日はイタリアの共和国記念日に付き、自分の初イタリア取材旅行に触れました。そこで「ローマでの単独迷子」というワードを出したら、あれこれ記憶が蘇ってきたので、今日はその件を書きます。
まず初めに、オレは方向感覚に優れているという自信は、国内に留めておくべきという、おこがましく言えば注意喚起をお伝えしておきます。
海外初の単独迷子は、イタリアより約10年前のイギリスで経験しました。これも取材。初日の仕事が終わった後、ロンドン郊外に住む通訳さんを自宅まで送っていくことに。僕らの宿からクルマで20分くらいとおっしゃるので、それなら楽勝ですよと僕が引き受けた。
安請け合いのつもりはありませんでした。日本と同じ左側通行で右ハンドル車とは言え、文化が異なる初見の国なので、往路では特に車窓の風景をしっかり覚えておこうと、相応に神経を張り巡らして臨んだのは言うまでもありません。
「それではまた明日」と通訳さんを送り届けたのは、確かに宿から約20分後。この程度なら確実に戻れると余裕をかました僕の行く手を阻んだのは、ラウンドアバウトでした。これは欧州で一般的な、信号がない環状交差点。速度を緩めながら時計回りで流れる円形の道路に進入し、直進および右左折を行う仕組みです。
左折は、来た道から円を4分の1周。直進なら2分の1周。右折だと4分の3周。来た道を戻るなら丸1周することで各々希望の方向へ。ややこしいそうだけど、たぶん慣れの問題。また、各方向が見渡せる小さなサイズなら、さして悩まないと思います。
僕を大いに惑わせたのは、一目で行きたい方向が判明しないほどの、なおかつ円を巡っているうちに方向感覚が狂ってしまうほど大型のラウンドアバウト。往路で通過したのだからクリアできるはず。なのに4~5回トライしても、まったく同じ間違った道に出てしまう……。
すでに夜で、小雨も降ってきて、なかなか焦りました。ただ、僕を落ち着かせたのは、どこであれクルマに乗っているという安心感と、過信も度を超すと機械のような正確なエラーを繰り返すという気づき。最後の段になり、ここで曲がると思うポイントをずらして無事に無間地獄から脱出できました。この件を、戻りが遅い僕を気にかけている仲間に話そうと思ったのだけど、宿に着いたら誰も心配してなくて拍子抜けしたんだっけ。
あ、イタリア編が書けなかった! 続きはまた明日。

遠慮がない命令形の「れ」だから従えるんだろうな。