陰気ようやく重りて

久しぶりに二十四節気の話を。今日9月7日は白露の始まり。「それって何?」については、江戸時代の常陸国宍戸藩5代藩主であられまする松平頼救(まつだいらよりすけ)殿が著した『暦便覧』で、次のように説明されています。
「陰気やうやく重りて、露にごりて白色となれば也」
陰気とは、「あいつ、いつも暗い顔をしてるな」というような重苦しい雰囲気を指す言葉でもありますが、大元をたどると、互いが影響し合うことでこの世の万物を形成する陰と陽を二気とした、中国の古代思想にたどりつくそうです。難解ね。
さておき宍戸藩のお殿様が示した「ようやく重くなった陰気」は、ごく単純に秋の深まりを表していると考えていいでしょう。そして秋の進み具合は、朝晩の気温が下がることで発生する朝露によって確認できることを、「露にごりて白色となれば也」で語っているわけです。なるほど。
二十四節気を持ち出すときは、最近の著しい天候変化に向けた嘆きが常にあります。しかし今年に関しては、8月の終わりくらいから急に気温が下がり、秋の長雨を呼ぶ秋雨前線が頑張ったりで、例年になく古に倣った季節の移り変わりを感じています。
いや、暴力性は相変わらずか。台風は次々に発生しているし、活発な秋雨前線と連動してあちこちで線状降水帯を生み出す準備をしているみたいだし。そんな激しい気候で秋を感じるのが現代だとしたら、何かやっぱり残念な気もします。
いずれにしても、なかなかやみそうにない大雨には注意が必要ですが、僕がもっとも迷惑しているのは洗濯です。洗濯機は回せてもベランダで干せないってのが、ねぇ。天気予報や雨雲レーダーを頼りに雨の間隙を突こうとするのだけど、今日もダメかとなると洗濯物が溜まるばかり。それも嫌なので、ひとまず洗濯機を回した後はコインランドリーの乾燥機の利用を検討しますが、いつ行くかとか、いくらかかるんだっけとか、それはそれで悩ましいんですよね。
あと、近所でもっとも安いコインランドリーのおじさん店員はいつも愛想がよろしくない。脱水直後の洗濯物を完全に乾かす時間設定をたずねても、おおむねぶっきらぼうな応対。ああいう人を陰気と言うのだと思います。
何にせよ、今は1日も早い秋晴れを望むばかり。ちなみに次の節気は23日の秋分です。

雨天中止を室内練習でカバー。熱心な野球好きは少なくないみたい。

僕らの居場所

ここではよく枕詞みたいに「飲み屋」を持ち出しますが、僕がこの言葉を実態や実感を伴って使えるようになったのは50歳以降です。いわば遅咲き。歳を経てから知った快楽には狂ったようにハマりがちらしいですが、毎夜飲み歩くほどではないにせよ、いくつかの店では常連の列に混ぜてもらえるくらいには通い続けています。
人生というのは何が起こるかわからず、起きた事象に対応していく他にないので、50歳を過ぎてから飲み屋通いを始めたことも、僕にとっては自然の成り行きでした。ただ、もっと前から酒文化のようなものに触れていたら、たとえば自分が書く文章も違っていたんじゃないかと。そう思わせるのはいつも若い人たちです。
ついこの間カウンターで居合わせたのは若い女性。僕と店主の会話に興味を持ったのか、ふと話しかけてきて、それが彼女の流儀なのか、簡単な自己紹介をしてくれました。来春に卒業を控えた女子大生なんだそうです。思わず「学生で飲み屋っていいんだっけ?」と聞いてしまいました。「20歳は過ぎているので」って苦笑返しされましたけれど。
実家暮らしに多少の申し訳なさと息苦しさを感じていること。何をしたいのか決められていないので、この時期でも就職先を絞り切れていないこと等々。彼女がぽつりぽつり話す現状に対して適切なアドバイスなどできないので、場合によっては孫くらいの彼女の言葉をふんふん頷きながら聞いていました。その中で、差し出がましくも自分の経験をもとにした考えを伝えると、今度は彼女がふんふん。
しばらくすると、後からやってきた顔見知りらしい常連のもとへ。あくまで勝手な推測ですが、家族ではない大人たちとの会話が、おそらく賢い彼女の飲み屋での楽しみなのかもしれません。
別日に店主から聞いたところでは、その子は当初お母さんと来店していたのに、数回後にはお母さんの同伴を拒んだそうな。ここは私の場所だからと。馴染みになった店を自分だけの居場所にしたいんでしょうね。そんな気持ちを20歳そこそこの子が抱くのが、僕には大きな発見でした。何しろこちらは遅咲きなので。
やがて卒業し、何かしらの職に就いて別の町で独り暮らしを始めたら、なかなか会えなくなるはず。けれどきっと彼女は、他の場所でも自分の居場所を見つけられるに違いない。
そんなことを考えながら、と言うより、そんな書きたくなるようなネタをいただきながら飲む酒は格別です。僕にとってはそれが、飲み屋通いの楽しさなんだろうな。

ここのところの天候は、例年になく季節の移り変わりを謙虚に伝えているような気がする。

「馳走になった」

NHKばかり観てんなあと揶揄されそうですが、前回放送の大河ドラマ『豊臣兄弟!』にこんなシーンがありました。
秀吉軍に敗れた柴田勝家が北庄城へ逃げ込み、もはや籠城もここまでという段になったとき、信長の妹で勝家に嫁いだ市が、言わば最後の晩餐を用意します。それを平らげた勝家が口にしたセリフが「馳走になった」
意味はわかります。現代風に直せば「ご馳走様」ですから。けれど「馳走ってそもそも何だ?」と気になってしまい、勝家と市がいよいよ追い詰められる様子を眺めながら、ひとまずスマホで検索してみたという、いつも通りのどうでもいい話です。
【馳】の音読みは【ち】 訓読みは【は・せる】 意味は、遠さや広さ。『思いを馳せる』や『名を馳せる』を例にするとイメージしやすくなりますね。なおかつ馬偏なので、【馳】の一字で『馬を走らせるほど遠く広く』を示します。そこに【走】を足すと、【馳】だけでも労力の度合いがわかるのに、より遠く広く、しかも早く駆け巡った様子が加味されるわけです。
さて、かつて大切な客人をもてなすとき、主人が自ら馬に乗り、方々から最良の食材や器をかき集める準備をしたそうな。その行為が馳走。それがいつしか振舞われた料理や気遣いに向けた感謝の言葉へと転じていったようです。
いずれにせよ、古くから存在する日本語の慣用句。それが意味をほぼ変えずに現在も使われていることが、なぜかうれしかったんですね。もし現代人タイムスリッパーになって戦国時代に飛んでしまったとき、誰かに食事を与えてもらっても今と同じようにご挨拶できそうだし。
さらに興味深いのは、感謝を伝えるなら「ありがとう」でもいいのに、食事関連専用に「ごちそうさま」という言葉があること。食べられる幸運がベースにあるのかな。その上で丁寧な「馳走」を受けるのは、最上の幸福とされたのかもしれません。
短く簡潔なのも便利です。しかも「ごちそうまさ」と言うだけで、料理の良し悪しをすっ飛ばして振舞いへの気持ちだけを伝えられるから。そのあたりには、日本人の本音と建て前文化が潜んでいるかもしれません。
かつて母親がそうしていたように、大人になった僕も飲食店を出るときは、可能な限り「ごちそうさま」と発するようにしています。なので立ち食い蕎麦屋で一度くらいは、食事代を机に置きながら「馳走になった」と言ってみたいです。
いや、できないか。今は先に食券を買わなくちゃいけないし。そういう仕組は間違って現代に飛んできてしまった侍タイムスリッパーが、もっとも困惑するところじゃないでしょうか。

何度も撮らされるのは、今もこうしてぶわっと咲く姿を見せられるから。百日紅、最高!

蛍光灯とLED

10年以上は使っていたデスクライトを買い替えることにしました。発端は蛍光灯の寿命。本体に支障はないので、蛍光灯だけ交換すればまだ使えそうだったんです。けれど来年には蛍光灯の製造が禁止され、やがて市場から姿を消すと聞いていたので、ここらでLEDなんだろうなあと思ったわけです。
というような文脈だと、「またコイツは古いものに肩入れして文句を言う気だな?」と煙たがられるかもしれません。そんなことはないんですよ。LEDに関しては、蛍光灯より長寿命というメリットのもと、何年も前から自宅の天井の照明器具に取り入れていたので、今回の買い替えにも特に異存はありませんでした。
そうして家電屋さんに足を運んで、未練ではないけれど、まずは蛍光灯のコーナーに向かってみたのです。僕が使ってきたデスクライトに合う交換用があるやもしれないと。あれば今回は蛍光灯だけ新品にしてもと思って。しかし、ウチのそれのちょっと長めのサイズは、そのささやかな場所から姿を消していました。
そういうもんだよなと思いながら、デスクライトのコーナーを探して店内を1周。なのに発見できず。膨大な種類の家電製品が展示される場所で、デスクライトに割くスペースが広いはずはないにしても、これだけ歩き回っても見つからないなら、デスクライトは家電じゃないのかとがっかりしかけたほどでした。
本当にぐるぐるうずうず歩き回って、スタート地点の蛍光灯コーナーに戻ったら、蛍光灯の真後ろにいくつものLEDデスクライトが……。ちょっと振り返れば無駄足を踏まなくてよかったんです。あるいは店には、照明関連はひとまとめにする親切心があったのかもしれません。
僕がそれに気づけなかったのは、蛍光灯とLEDはまったく別物。ゆえにコーナーも異なって当然。それ以上に、消えゆく老兵に未来ある若者の眩しい姿を眺め続けさせるなんて、あってはならない仕打ちと思い込んだからです。
というような文脈なら、「LEDなんて別に」と言いながらも、古いものに囚われがちな感覚が朗々とバレますね。どうしたものだろうと思いますが、今は長年僕の机仕事を支えてくれたデスクライトに、お務めご苦労様という感謝の念が湧き続けています。

秋の例大祭が近づき、近所にかかり始めた提灯。まさかこれもLED?

今はまだニラ

何かと気になるのは言葉だけではありません。食べ物もそう。ここのところ注目しているのはニラです。
自宅で自分用の飯をつくったりするのですが、最近になるまでニラを買いませんでした。ニラの使い方がわからなかったんですね。それは、ニラで思う浮かぶ家庭料理と言えば餃子くらいの、ニラ料理無知が原因です。
いや、レバー類の炒め物やキムチチゲとともにニラを食べたことはあります。それから、近所で時々テイクアウトするスンドゥブでニラをトッピングする知恵もいつしか身につけました。それらはとても美味しい。しかし自分でつくるかというと、そこまでの気概は湧かないのです。餃子も同様。自分のためだけに餡を仕込む覚悟なんて持てるはずがなかった。
そういう流れに従っていたので、ニラを買うことはなかった。ではなぜ急にニラに注目したのか?
ニラ料理専門店に連れていかれて脳天を突かれるようなニラの美味しさを知ったとか、疲労困憊で倒れ込んだ畑に植わっていたニラをくわえて復活した夢を見たとか、劇的なきっかけがあればいいですよね。実際は、一切の理由が不明なまま、いつかどこかで口にしたニラの独特な香りが懐かしくなっただけでした。そういうこと、ありませんか?
そこで初めてニラの束をスーパーマーケットで買ったのです。もやしと豚小間と合わせて炒め物にしてみようと。そんな簡単な料理なのに、期待したニラの香りが感じられない失敗をします。
原因は、火の入れすぎ。あの独特な香りのもとになっているアリシンという成分は熱に弱いそうな。だから「ひとまず何でもしっかり火を入れときゃ腹を壊さないだろ」という僕の素人考えでは、ニラの特徴を生かせるわけがなかった。
それから、これも後に調べて知った事実ですが、アリシンは切り刻んだりすりおろすことで生成されるので、ニラの束をそのまま調理しても香りが立ちにくいんですって。これは、何度目かの挑戦で試みたニラ&挽肉パスタをつくる際、細かく切り刻んで置いていたニラが「すんげぇ匂う」と気づけた体験で実感しました。
そんなふうにして僕の料理は、食材を少しずつ理解していくのが楽しいみたいです。自分のためなら時間も味も口臭も気にしなくていいし。その一方で心配なのは、一気にハマると途端に冷める飽き性振りです。しかもニラは保存が利かないらしいので、1回の料理で一袋まるっと使い切る大量摂取振りも、飽きに拍車をかけてしまいます。今はまだニラに飽きたくないと思ってはいるのだけど。

寝方を間違って覚醒した午前5時。最近曇りがちなのは、季節の変わり目のお印なのかな。

つもり

本日の気になる言葉は、日常会話で頻繁に使われる【つもり】 漢字を当てるなら【積もり】 【心算】も【つもり】と読むそうな。って、無理でしょ。
【つもり】の大枠の意味は、すでに持っている考えや意図。または、それを元にした行動予定。次の例文を使って考えてみましょう。「現地までは電車ではなくクルマで向かうつもり」
この場合、待ち合わせ時間に遅れないのを第一義にするなら、各々が意図する交通手段を使っても問題はありません。それに【つもり】なので、何かの事情でクルマをやめる可能性も織り込まれていて、まぁどっちでもいいわけですよね。
ただし、落ち合った後で向かうのが飲み屋と知っているはずだったり、あるいはそれが仕事で、電車よりクルマのほうが何かと経費が高かったりすると、こんな言葉が口を突いて出ます。「あの人、どういうつもりなんだろう?」
思うに【つもり】は、各個人の経験や技量が積もり積もって形成された考えや意図だとしたら、すべての人間は【つもり】の塊なのではないかと。いわば、ほぼ個性。それが問題視されるのは、自分の【つもり】が他人の【つもり】にそぐわないときです。
いや、わかっています。誰もが口にする【つもり】には曖昧さが含まれていて、本格的な責任追及の手前で考えや意図を確認するために使う言葉であることは。しかし、曖昧ゆえ放置した結果、【つもり】の齟齬で疑念ないしは衝突の火種が生じるなら、最初から【つもり】の擦り合わせをしておくべきではないでしょうか。
僕が嫌なのは、時に自分の【つもり】が相手とずれたとき、具体的な相違点を伝えてもらえないでいると、「何が悪かったんだろう。そんなつもりじゃなかったのに」と言い訳めいた考えを練り続けてしまうことです。おそらく【つもり】には、好き嫌いや相性といった、それこそ曖昧な成分がわりと多めに含有されているのでしょう。だからきっと互いの【つもり】がぴったり重なるのは奇跡に近いんだろうと、そう自分に言い聞かせる他にないのかもしれませんね。
いやもう本当に、嫌われるつもりじゃなかったのにって嘆くと、かなり切なくなりませんか?

この交差点は本当にしょっちゅう工事しているな。高所作業は尊敬しますけれど。

直美の涙

久しぶりにテレビの話です。現在放送中の朝ドラ『風、薫る』 今さらですが、血縁関係のないダブルヒロイン仕立ては、連続テレビ小説で初の試みなんだそうですね。
そんなわけで主人公は、異なる生い立ちを持ちながら明治期の看護婦になっていく二人の女性。物語の背景には、女性の社会進出や立場向上、子育てしながらの働き方など、現代にも通じる課題が控えています。いや、いまだに通じていいのかが問題ですが、時折依頼される女性の働き方取材で現状を知ると、完全解決の難しさを痛感したりします。なので男性としては、女性主人公が多い朝ドラに触れるとき、いくらか後ろめたい気持ちにならざるを得ません。それでも観ますけれど。
(ここからはネタバレになります。ご注意ください)
さておき今作で心が動かされたのは、ダブルヒロインのうち、生まれて間もなく捨てられた過去を持つ直美の涙です。彼女は、この世に愛情なんてものなどないと思って生きてきたので、当事の女性の幸福なゴールとされた“良い結婚”を果たすため、平気で経歴や身分の詐称ができる人でした。そしてまた看護婦を目指したのも、誰にも頼らず生きていくためでした。
捨て鉢というかヤケというか、直美は世間に対して冷めきったところがあるので、滅多に泣かなかった。あるいは孤独に苛まれた幼い内に、一生分の涙を流し切ったのかもしれません。
今週に入ってからはまだチェックしていませんが、直近で直美が泣いたのは、軍人の夫の訃報を聞かされた先週の放送回。それはもちろん悲しい出来事だけど、何と言うかドラマ上では想定内なので涙腺が刺激されるまでには至りませんでした。
うわっとなったのは、たぶん8月中旬ごろの回。ともにプロの看護婦となったもう一人のヒロインでシングルマザーのりんと暮らすことになり、疑似的であれ生まれて初めて家族のようなものを体感したときでした。そこで直美は、なぜ自分が泣くのかわからない驚きを隠せないまま涙をこぼします。これがたまらなかった。深夜の録画再生でぐわんぐわん心が揺さぶられてしまい、清々しいまでの号泣となったのです。
その直美の気持ちは、僕にもよくわかりませんでした。けれど彼女と同様に、心が予期せぬ動きを起こすと、人は泣く以外に感情の発露を見出せなくなるのかもしれません。
というような体験をさせてもらっただけでも、今作は素晴らしいと感じています。気づけば放送はあと4週。観る側の予想を超えた美しい涙のエンディングも、今日から始まる9月に期待することのひとつです。

夕方から開いて翌朝に閉じるオシロイバナらしい。夜に咲く姿にドキッとしたので撮りました。

8月31日という日付に触れると

驚いたことに29日(土)の晩は妙に肌寒くて、近所で晩飯を食べに出るとき短パンをためらったほどでした。とは言え、不意を突かれるような気温低下をもとに秋の気配を語る人がいるかというと、そうではないんですよね。「まぁ、たまたま」とか、「小雨交じりだしね」とつぶやくか、あるいは気にも留めないかのどちらか。たぶん皆、最近の嫌気を通り越して耐えるしかない暑さがそう簡単に撤退しないと思っているからでしょう。
ここからは、もはや御伽噺に近い昔話です。かつて8月31日という日付に触れると、8月の終わり以上に夏の最後の日という感慨を抱いたものです。それは、長い夏休みをもらえる学生時代が過ぎ去った後でも同じでした。
あれは何だったんでしょうね。通り一辺倒な暑さがついに終わる期待をカレンダーに求めたからでしょうか。いや、気候が人間の暦を気遣うはずなどないのは昔も今も同じ。だけど(ずいぶん)以前は、お盆を過ぎれば時折涼しい風が吹き始め、それに乗ってどこからともなくトンボの群れが現れるというような、残暑と呼ぶにふさわしい現象がそこここで見られたものでした。
要するに、季節の変化が緩やかでした。それゆえ、カレンダーで季節の区切りをつける余裕が僕らに与えられていたのかもしれません。けれど最近の気候は、暑いか寒いか。その極端さで僕らが失ったのは風情を感じる心ではないかと思います。そうして僕らもまた、極端な結果だけを求める日々を生きるようになったのではないか……。
またなんかややこしいことを言っていますね。今日の話、またまた会った近所の姉妹との会話から来ています。「もうすぐ終わっちゃうの?」と今さら叫ぶ妹ともども、彼女たちは午後11時くらいまで起きている宵っ張りの夏休みを過ごしたそうです。だから心配になりました。学校が始まる9月から早起きできるのかなと。
「わかんない」と言ったのは中学生の長女。でもたぶん、まだ若い彼女たちは極端な変化についていけるんでしょうね。堕落を知り愚痴が先走るようになった今の僕なら、再起できる自信はありません。夏の最後の日をきっかけに改心できたらいいのだけど。

番号だけ伝えられた地下通路からの出口。どの辺に出るかわからないままでした。

恋愛相談

ある仕事で丸1日をともにした30台半ばの甲は、休憩時間に「トナオさんと出会ってもうすぐ10年ですよ!」と驚いたふうの発言をしたときから、僕に恋愛方面の話を聞いてほしかったらしいのです。
長く付き合った相手から一方的な別れを告げたられたことは、出会ってもうすぐ10年なので知っていました。というより、何かの折に一方的に聞かされました。今回はその続き。
独りになってからは辛い日々が続いたけれど、昨年末あたりに一念発起。マッチングアプリの力を借りて、ひたすら出会いの機会を得たそうな。
「相手には決して多くを求めません。でも、自己申告による情報を見て自分と気が合いそうだと思ったに、実際に会ったときの、特に会話の中身がまるで違うことばかりなんです」
気が合いそう、ねぇ。そんなの、自分を過小評価して伝えないツール始まりでわかるはずがないだろう、というのが僕の見解です。
マッチングアプリどうこうはさておき、人の特徴や、あるいは自分との相性といった生身の情報は、一元的というか平面的なデータの奥から努力して引き出すものだと思うのですがいかがでしょう。そのためには然るべき時間が必要なのに、それ自体をコスパ軸でとらえるのが今の風潮だとしたら、それは勿体ない気がします。言うまでもなく、自分がいわゆる適齢期だった時代には、アプリどころかスマホもなかった世代の考え方ですが。
「自分でもそう思い始めて、最近はアプリをやめました。そうしたら、気になる人が現れたんです。ふとした縁で仕事をお願いするようになったこの人と会ったときに居合わせた人なんですけれどね」
その、ふとした縁で仕事をするようになったこの人=乙は、甲と丸1日仕事をした日に、同じくともに働きました。甲が気になる人は乙の友人で、甲は乙に気になる相手と話せる機会づくりを依頼している件は、作業終了後の食事の席で聞きました。またしても一方的に。でも、甲がうれしそうに話していたのがよかったです。ただし、どことなくガッついている気配が漂っていたのが心配で、気になっている感を抑え込む余裕がもてたらいいねと、ひとまず一般論を伝えておきました。
すると今度は、乙です。こっちにも気になる人がいて、近々違う現場で仕事をするらしいんですね。
「ランチどうですか? って誘ってみようと思うんですけれど、断られるのが怖くて」
それでも声をかけるのかたずねたら、そうしてみると言うんですね。であれば、思った通りにいかない前提で臨んで、もし断られたらこう返したらと進言してみました。「ではまた仕事をお願いします」
この場合、「またランチ」は禁句なので、可能な限りフラットな感じで再会の希望くらいは発しておくという方法です。これどう? と乙にたずねたら、口の中で「また仕事」を反芻していました。
そういうのを恋愛相談というのでしょうか。僕にされても光を射してあげることはできないけれど、あっちもこっちも切ないので、ついうっかり聞いてしまいますね。それでいいのかな。

大手町あたりで見た、美しいけれど使われ方がよくわからなかった建築物。

哀しい居抜き

近所の飲み屋では、周囲界隈の開店や閉店の話がよく出ます。特に店主は、同業だからか情報が早くて詳しいんですね。それを聞いていると、自分もこの町をよく知った気になれます。
そうした話の中によく出てくるのが居抜き。使われ方は「A店は近々閉まるけれど、B店が居抜きで入るらしい」といった具合です。それが不動産業と飲食業のどちらの専門用語かはわからないけれど、内装や設備などが残ったままで貸し出されるのを居抜きと呼ぶことくらいは僕でも知っています。
しかし、以前の状況がそのままなのに何を抜いたとするのか? 気になったので調べてみました。
例によって語源は様々。ひとつは、居=人として、建物内に人だけいなくなる、つまり人だけ抜けるという、ちょっとホラーな様子を指した説。もうひとつは、関西由来の「煮抜き」が転じた説。
関西では卵を茹でる際、固く仕上げることを煮抜くと言い、固ゆで卵を煮抜きと呼ぶそうな。その卵の殻の中で中身が固くなった状態が、内装や設備を残した家屋と似ており、それを関西圏以外の人が耳にしたときの聞き間違えが居抜きに転化したらしいんですね。どうなんだろう。
いずれにせよ語源は個人的な興味に過ぎないので、酒の席ではウザがられそうなので披露しません。それに、誰もが知りたいのは居抜きで始める店の情報だけだし。
先の「A店は近々閉まるけれど、B店が居抜きで入るらしい」は、実際に起きた話です。A店は、塩味が得意なわりと好きなラーメン屋さんでした。そしてB店は、イタリア風を打ち出すという、これもラーメン屋さん。定期的に通った店がなくなるのは残念。しかし同じ場所で別の店が始まるのも気になります。
そこで行ってみました。情報通り、店構えや扉の色、カウンターの造りや券売機の置き場まで以前とまったく同じ。こういうのを絵に描いたような居抜きと言うのでしょう。ただし、ラーメンはまったくの別物。そりゃそうですよね。居=人が変わっているのだから。
あくまで個人的な感想ながら、前の塩味が恋しくなりました。もちろん、それまでの店に来たことがなく、今度の店の気に入る方はいらっしゃるでしょう。けれど僕の場合、同じ服を着た別の人を好きになれるはずがなく、再び訪れることはないと思いました。何と言うか、居抜きの哀しい面を見たような気がしています。

白くても百日紅。何度も撮らされるほど、長く咲き続けていますね。