運の強弱

こんな話を聞きました。飛行機の操縦技能を習得するための学校では、学歴などが同程度なら運の強い人間が選ばれるんだそうです。かなり曖昧っぽい基準だけれど、僕はふむふむと頷いてしまいました。そりゃやっぱり、ついてない人の操縦は遠慮したいですもんね。
となれば、少なくともその学校を卒業した人たちは、強運ぞろいということになります。実に頼もしい限り。今日も安心して空の旅ができる!
とまぁ、ここで話が終わってもいいのだけど、僕にはひとつだけ気掛かりが残りました。その学校の試験担当官は、運の強弱が判定できるのか? あるいは、客観的に判別できる特別な手段があるのか?
以上はすべて未確認。そのあたりは卒業生と、できれば担当官に会って直にたずねてみたいです。
でも、何かしら運を測る術が用意されているじゃないかと思います。仮に「強そう」「弱そう」といった、直感的かつ主観的なジャッジであっても、わかる人にはわかるものがあるだろうと。そして僕は、経験豊富な担当官がそれを持ち得ているなら、むしろ同意に1票を投じようかと。
どうかなあ。入学できなかった人に不合格の理由を問われて、「運が弱そうだったから」とは言えないだろうし。ふむ。
目に見えるものがすべてはないと誰かに諭さるとき、僕であればそれに運を重ねます。見えないけれどあると信じられる、もっとも日常的で身近な作用だから。という話の流れになると、自分はどうなんだというオチに導かれます。僕はかなり強いほう。だって何しろ、文章を書くことだけで今日まで生きてこられたなんて、ただの幸運としか説明できません。
などと謙虚に襟を正すようなことを言い出したのは、ここに来て急に締め切りが重なり始めたからです。先週までは余裕があったのに、などとは口にしません。運の千本ノックを受けてこそ、さらに強くなれることを知っているので。

日差しの質が変わったと思う今日この頃。

 

ポンコツランナーの喘ぎ藻掻き

ウチの野球チームに、とんでもなく速いマラソンランナーがいることは前に話しました。この時期は日本各地の大会に出ているらしい彼が久しぶりに顔を見せたので、次はどこで走るのか聞いたら、3月2日の東京マラソンだとか。しかも、2時間32分00秒以内の記録を有する準エリート枠。才能はもちろん、日々の鍛錬なくして2時間半は切れませんからね。すごいとしか言いようがないな。
そんな文字通りのエリートランナーを枕にするなんて滅相もない話ですが、最近の僕のランニングはやれやれです。最大の悩みは、最低目標ペースを切り難くなっていること。あまり教えたくないけれど、僕のそれは1キロ当たり6分。レベルが低すぎて恥ずかしい!
くらべなくていいんですが、件の彼は42.195キロを1キロ3分台で走ります。要するに僕の倍の速さ。こっちが10キロ走る間に、エリートは20キロ先に到達するわけです。僕がいかに遅いか、彼らがどれほど速いかがわかるでしょ。
さておき年が明けてからは、滅多に越えなかった最低目標を切れなくなりました。思い当たる理由のひとつは、昨秋から年末までのランニング不足。やはり走る回数が減れば、記録の低下と直結します。なおかつ、再び走り出すときがきつくなる。そして案の定……。
サボる口実になっちゃうんですよね。こんなんじゃ辞めたほうがいいだろうと。そんな弱っちい思考が膨らむと、考え得るもうひとつの記録低下理由が頭をもたげてくるのです。
体力ないしは走力の限界。仮に同年代より体が動いても、実年齢なりに痛んでいるのは否めません。だから、些細なことで心も折れやすくなる。けれど、歳で諦めるのも嫌というか、怖い。
もはやマラソン大会に出るつもりのない僕が走るのは、生涯現役でいるための体力を維持するため。そのレベルは致し方なく年々下がっていくから、最低目標の見直しも必要。でも、可能な限り辞める日を先延ばしにしたい。
面倒臭いですね。生涯がいつまでなのか不明なのも厄介なポイントです。しかし、走ればそれなりに好転することが多く、ここに来てようやく目標ペースを切れるようになってきました。傍からはポンコツに見えても、喘ぎ藻掻いているほうが生きてる感じがするから、このジタバタは繰り返されていくと思います。どうでもいい自己満足を満たしながら。

気晴らしにランニングコースを変えたら、濛々たる白梅と遭遇。

 

昔も今も立ち食いそば屋

「見かけたら入らずにいられないから、ちょっと待っててくれる?」
そう呼びかけつつ、照れ臭そうな表情を浮かべた姿を思い出しました。こちらが待つかどうか確かめる前に扉を開けていたお茶目さも含めて。
数年に渡り旅の企画でお世話になった仮称Sさんが、見かけたら入らずにいられなかったのは立ち食いそば屋。少しだけ周辺情報を加えておくと、ビジネスで大成功した、いわば富裕層。けれど、僕が知るお金持ちの中でもっとも気さくな、金満感を微塵も漂わせなかった人でした。
あの企画はクルマ移動が主体だったのだけど、そのときだけは電車を利用したのかな。いずれにせよホームの中にあった立ち食いそば屋を発見したSさんの行動は、脊髄反射そのままの有無を言わせぬ速度を伴っていたのです。
「子供の頃、親に禁止されてたんだよ」
これはSさんが教えてくれた、立ち食いそば屋に入らざるを得なくなった理由。この証言にはいくつかの興味深いポイントが潜んでいます。一つ目は、Sさんが親の言いつけを守る子供だったこと。それが生来の素直さに由来するのか、厳格な躾による服従だったのか?
二つ目は、おそらくSさんは、知人友人が立ち食いそば屋に気兼ねなく立ち寄る習慣に、強く惹かれながら育ったと想像ができること。
そして3つ目。これが最大の関心事ですが、Sさんの親はなぜ立ち食いそば屋を禁止したのか。慌ただしく暮らすチープな庶民の拠り所だから? となればSさんが育ったのは、そば屋であっても高級店のみに通う品の高い家庭だったのかもしれない。
それらいくつかの疑問点は、質す機会を得られないままとなりました。というのは、立ち食いそば屋から出てきたSさんが、満足を絵に描いたような顔をしていたから。あるいはそれ以上に、オレはよかったという安堵に包まれたからかもしれません。高級店は禁止以前に入れずとも、小銭で小腹を満たせる場所を暗に奨励した家に生まれたのは、そんなに悪いことではなかった、というような……。
蕎麦が好きな僕は、昔も今も立ち食いそば屋が好きです。でも、かつてほど安くはないんですよね。そこはSさんにとって、特に問題ではないだろうけれど。

今日の話、神谷町の交差点で思い出しました。

都市伝説に詳しい美容師が現れるなんて

どこかで特別なお祝いが開かれるのか知りませんが、2005年の2月15日は、カリフォルニアでYouTubeが設立された日だそうです。
それまでなかった、動画が共有できるサービスをつくり上げたのは3人の若者。同年4月、創設者の一人を動物園で撮った動画を初投稿。その年の12月15日に正式運用が開始されると、瞬く間に利用者が増え、設立1年余りでGoogleの買収相手になるほど成長したそうな。
そんなYouTubeの華々しいスタートはさておき、今から20年前の僕は一体何をしていたんだろうと考えてみたのです。YouTubeなるものについては何も知らなかった。調べてみたら、日本語版のホームページ開設が2007年6月らしいので、試しに視聴してみたのは、おそらくそれ以降だったのでしょう。
さらに記憶が怪しいのは、僕のスマートフォン導入時期。2000年の00年代には使っていなかったような。だから今でもYouTubeをスマホで見ないのかもしれない。というより、見られないんですよね。小さな画面で動画を眺めるのがしんどいままだから。
そんなこんなで、今日の僕の生活には動画配信サービスが浸透しきっています。先日、3か月ぶりに髪を切りに行ったら、いつもの店長がふいにたずねてきました。
「トナオさんでもYouTubeを見ますよね?」
「でも」というワードセンスをあえて問い質さないまま、もちろんと返すと、当然のことながら「何を?」となります。一番多いのは音楽関連と言ったら、「げっ」という表情を浮かべました。それこそ20年来の関係でも、同じプログラムに興味をもつわけじゃないのよ。
彼女が好きなのは、都市伝説の検証関連。それを見ていればバス通勤も苦じゃないそうな。あるいは、接客時のネタを収集する職業的努力を果たしているのかもしれない。そんなふうに都市伝説に詳しい美容師が現れるなんて、YouTubeの創業者たちは想像できたのかな。
いずれにせよ、あって当然と思わせるまでに20年。長いのか短いのか断定できないけれど、100年後から俯瞰したら、僕らはとんでもない変革の時代を生きているのは確実なんでしょうね。
ちなみに最近は、テレビ内臓のアプリを起動させ、大きい画面でYouTubeを見ています。これがギターのお稽古に便利。なのだけど、そんなものがない中でギターを弾き始めた頃の自分に、時々申し訳なくなったりもします。

恙なくスマホで動画を見ている人もたくさんいるはずの、新橋駅にて。

夢のゴミ箱

寝ている間に見る夢の話を最後にしたのはいつだったか? いずれにしても、目覚めても覚えている習慣というか癖は、相変わらず続いています。先日はこんな感じでした。
常に映像は突然始まります。そこは下り坂。僕はバスの運転中。よく見かける路線バスでした。とは言え現の僕はバス利用の頻度が極めて低いし、そもそも路線バスを運転した経験もない。けれど何であれ、僕は下り坂でバスのハンドルを握っているのです。
そしてどうやら、坂の途中にあるバスターミナルに右折で進入するミッションを課されているらしい。そこで、確か制帽も被っていない僕は、まずは大きな車体をしっかり減速させ、ゆっくりハンドルを切らなければと身構えました。夢の中とは言え、自分の対応力に感心します。
ところがブレーキが甘い! バスの制動力ってこんなものなのかと驚きながら、とりあえずハンドルを右に切ってみたんですね。しかしターミナルの入り口から逸れる予感がしたので、すぐにハンドルを左に切り、車体の揺り戻しを感じながら、再び坂道を下る行動に移りました。ちなみに乗客はゼロ。誰か乗っていたら大パニックだったでしょう。そうならなかったのは、僕にバス内でのパニック経験がないため、夢であっても描くことが不可能だったからだと思います。
さておき、ピンチは続きます。下り坂のどん突きは大きな道路。今度は左折で進入しなければならないのに、依然ブレーキは甘く、ペダルを踏みこんでも止まる気配がない。となれば目前に迫る道路に、クルマが来ないタイミングで滑り込むしかない。運が悪ければ大事故。今思えば、あの一か八かのシーンに、ミッションインポッシブルのテーマを流せばよかった。
結果的に、何とか大きな道路に合流できました。それもきっと、現実の僕に暴走バスを運転した経験がないからでしょう。いずれにせよ同い年のトム・クルーズのように危機を回避したところで、またしても強引な状況設定が告げられます。
そこは靖国通り。間もなく神保町の交差点。だから何なんだと取りとめがなくなるのも夢の定石。その後はバスを漫然と走らせるシーンが続いて、やがて映像はフェードアウト……。
よく覚えているだけの、ろくでもない夢ですね。こんなものを見せられた深層心理的な意味合いなど知りたくないので、ここを夢のゴミ箱とするかのように書き捨ててしまいました。少しだけ頭が軽くなった気がします。

わかり難いかもしれませんが、別の軒先には、中身だけ上手に食べられた実がありました。

今日的ミーティングの作法を知らずに

都心のオフィスビルで行われたミーティングは、近代的な造りに準ずるかのような、極めて淡々と進行するものでした。それぞれの発言にも無駄な熱が帯びていないのは、都会的と言っていいのかもしれません。けれど僕は、その空気に馴染めなかったのです。それはおそらく、一介のライターとなり、仕事の打ち合わせが極めてシンプルになって以降、複数の立場や事情を考慮した話し合いに不馴れになった末路なのでしょう。
例によって昔話ですが、編集者時代の僕が頻繁に参加したミーティングは、およそその場ですべてを吐き出すのがルールでした。それは同時に、無言を通したらあらゆる決定に同意したと見なされるわけです。だから異論や反論、あるいは自分のやりたい企画があれば、とにかくミーティングで発表しなければならなかった。
そんなある種の戦場みたいな場から、名案が生まれる場合もあれば、くだらない珍案や愚案に笑い転げた挙句、ろくな成果が出せずに終わったケースも多々ありました。けれどせっかく時間を割いて顔を合わせたなら、とにかく皆で意見を交わし合う。それを楽しむのが、僕の知っているミーティングなのです。
いやいや、わかっています。誰よりも優れたアイデアを持ちながら、そういう場所で話すことが苦手だった人もいたに違いありません。それに今は、メールなどで詳細をやり取りする方法があるから、会議室で口角泡を飛ばすような討論をしなくていいのかもしれない。
なんてことを自分に説き伏せながらミーティングに参加したわけですが、何かこう、疼くんですよね。小さく頷くことですべてに同意でいいのか? それがここまで足を運んだ意味なのか?
結局、あくまで問われた上で、現時点で自分が確かめておきたい事柄のほとんどを聞き出してしまいました。今日はそこまで踏み込まなくていいかもと思いながら、疼きを押し殺せないままに。
今日的ミーティングの作法を知らずに清潔なオフィスビルに紛れ込んだ、珍奇な異物に思われたかもしれません。それでも、個人で得た収穫に満足できた時点で、僕はすっかりフリーランサーなんだなあと思いました。ひとまず、このあとも嫌われないといいけれど。

どちらの色が先に咲くのか知らないけれど、近所の軒先は紅白ともに見頃です。

 

菜の花忌の心持ち

大事な日付に触れると、毎年同じようなことを書くことになりますが、ご容赦ください。
今日は、1996年に亡くなった司馬遼太郎さんの命日。野に咲く黄色い花がお好きだったことや、ご自身が著した作品の題名にちなんで、「菜の花忌」と呼ばれています。
気付けば29年前。当時の僕は33歳の若造で、司馬さんがこの世を去った72歳を遠く感じていたけれど、今となればわずか10年後。それを考えると、やはり早逝という他にありません。
突然の訃報に触れたとき、ひとりの読者として二つの衝撃を受けました。一つは、司馬さんの中に蓄えられた膨大な知識が彼の岸に渡ってしまうこと。勿体ないと言えば傲慢が過ぎますが、人の死とはそういうことなんだと諭された、それは我が人生でほぼ最初の痛恨経験になりました。
司馬さんが何か新しい小説を書く気配は、古書店街の主人たちが最初につかんだというエピソードがあります。ある特定の時代の資料がごっそり買われることで、「これはもしや?」と噂になったそうな。
そうして収集した資料の中から派生的に発見したと思しき、歴史的には名もなき人物に光を当てた作品もたくさんあります。そんな独自の手法で発掘された物語によって、僕らは心躍る読書体験を楽しませてもらえたわけです。
一方、史実をもとに小説を編む司馬さんのスタイル、いわば司馬史観は、今も批判に晒されているらしいんですね。正しく歴史を分析する専門家にすれば、司馬さんが描き上げた人物の言動に対して「そんなことはあり得ない」といった指摘をせずにいられないのでしょう。
それを否定する気はありません。時代が進むにつれ新しい文献などが見つかれば、より正確な史実がわかるだろうし、その反動で司馬史観の幻想性が如実になっていくかもしれない。
けれど、そんなことはどうでもいいくらい、司馬さんの小説はおもしろい。それが僕にはもっとも尊い。そしてまた、一度は信じた人物像にフィクションが加えられていた事実を知っても、その誤差を起点に歴史を見直そうとする興味が湧くのも大事なのです。
僕が最初に激しく感化されたのは、ご多分に漏れず『竜馬がゆく』でした。その読破をきっかけに、実在の坂本龍馬と彼が生きた時代を調べたおかげで、この国の現代の在り様を自分なりに理解することができました。その感謝は言葉に表せません。
書き忘れている、訃報で受けたもう一つの衝撃を記します。
もう二度と司馬さんの新作を読めなくなること。もっとたくさん教わりたかった。ただ、僕が目にした著作はほんの一部に過ぎないので、これを機にこつこつ読み直していこうと、そういう心持ちにしてくれるのが、毎年この日です。

改めて読むべき著作は、自宅の書棚にもたくさんあるんですよね。

考えないって素晴らしい

たとえば自転車。あれって、たいがいは子供の頃に自然と乗れていましたよね。その最初に自力で漕ぎ出せた瞬間を記憶していますか。僕はまったく思い出せません。かろうじて覚えているのは、左右に備わる補助輪の片側を上げて、バランスが取れる様子を身につけろという父親のアドバイスです。ただ、そう言ったはずの本人による直接指導を受けた記憶もないんですよね。放っておいてもそのうち乗れるようになると高をくくったんじゃないでしょうか。ヘルメットやプロテクターの用意がない時代なのに。
それでも僕は、あるいは多くの人は、自然と乗れていました。それはおそらく、どうしても乗りたいという一途な思いを素直に抱けたから。その思いに全力で応えたのは、子供時代特有のコツをつかみ取る感覚じゃないでしょうか。
極端に言えば、何も考えないことの賜物だと思うのです。自転車の構造に伴った人間の重心の取り方とか、ペダルを漕ぐことで発生するジャイロ効果なんて理論なんて、実は気づいたら乗れるようになっていた感覚には勝てないんですよね。
対して大人になると、身体に関わることは頭の理解が必要になってしまいます。それで僕がつまずいたのがスケート。29歳のとき、勢いでアイスホッケーを始めてみたものの、ある程度滑れるまでに長い時間を要してしまいました。
どうエッジを使えば効率的に滑れるか? そんな理屈に頼りながら足を動かす時点で身体の反応が遅くなるわけです。コロナ禍まで30年近くプレイしながら、ついにスケートが上達した自覚を持てませんでした。一重に幼少期の氷上経験の乏しさが理由です。運動神経の鈍さも否めないけれど。
感覚ありきの自転車とスケートは子供のうちに。でなければ諦めるしかない。けれど最近は、野球も同じと悟りました。またまたバッティングセンターの話ですが、先日は幼い兄弟がバットをぶんぶん振り回していたんですね。速い球にも果敢に挑戦して、上手く当たらずともめちゃくちゃ楽しそうで。その無邪気さが上達の支えになるんだなあと感心したのです。そばにいたお父さんに向かって、「両替するから千円札もう1枚ちょうだい」とせがむ姿も含めて。
異議ありでしょうが、考えないって素晴らしいです。特にバッティングに混迷中の僕にすれば。

本日のオンボロ。

40代では気づけないほど

30代以上になってから10代の自分の写真を見ると、気恥ずかしいほどの若さを感じるんじゃないでしょうか。そんなふうに10年単位で振り返っていくと、40代から見た30代にも、または50代からの40代にも、実は10代の自分に感じたような若さを発見できます。
とは言え、30歳になれば「もう」と思ったり、40歳なら「ついに」と覚悟したり、50歳ともなれば「いよいよ」と溜息をついたりします。それは、その時点を生きる他にない人間の当然の感覚です。なのですが、ついこの間こんなことがありました。
いつも颯爽と年長者をいじり倒す40代の飲み仲間が、まるで暴露するように50代の自分の写真を突き出しました。それを居合わせた連中が眺めて、「若いね」と言ったんですね。確かに、そこに写る僕は今より顔つきが柔らかいような気がしました。しかし自分の50代と60代前半の見た目なんて客観的に判断できません。ただ、他者の視点がそうとらえるなら、もしや70代の自分から62歳の今の自分を眺めたときにも、相応の若さを発見できるかもしれないと思ったのです。
「ずっと独立を考えてきたけれど、40代は予想より遅かった」
これは、僕の新たな居場所をつくってくれた、昨日のオーナーシェフの言葉です。果たして40代は遅いのだろうか。飲食店の創業にふさわしい年齢はよく知らないけれど、同じ個人事業主として、何であれ独立を決意したこと自体に敬意を払わずにいられません。ましてや初期投資と月々の経費がかさむ職種ならなおさら。
そういう地平に踏み込んだのが40代であれば、そのタイミングに行き着く物語を歩んできたに違いない。それに、10年後ないしは20年後の自分が現在の君を見たら、「まだ全然若いよ」と呆れるようにつぶやくかもしれない。40代では気づけないほど人生は長くて懐が深いものであることを、将来の自分は知っているら。
そんな体験談を、できるだけ偉ぶらないように伝えました。要は、必要以上に今を怖がらなくていいと言いたかったんですね。真意が届いたかどうかは不明ながら、お客さんがいなくなったカウンターで酌み交わした食後酒がすこぶる美味しかったのは、その日の確実な記憶になりました。

かなり強引ながら、これも冬だけの夜桜景観なのだろうと。

新たな居場所

昨日からの続きですが、新たな居場所になりそうな店ができました。40代になりたてのオーナーシェフは、以前に勤めていた飲食店時代からの知り合いです。
昨年の8月、ついに独立するという連絡をもらいました。年末までにはオープンできると記してあったけれど、年が明けても音沙汰がなかったので、もしやと不安になってメッセージを入れてみたら、「開店の11月末から1月までドタバタしていました」だって。そりゃ慌てるくらいの勢いでスタートしなきゃね。
いずれにせよ不安が解消された翌日、彼の店に行ってみました。最寄りの駅から徒歩15分の、繁華街から遠い住宅街の中。そのロケーションだけでも勇気を感じました。
居抜きという彼の店は、こじんまりとしていながら、僕にとって好条件のカウンターとオープンキッチンの設え。平日の晩だったので、カウンター席に2名と、テーブル席に家族連れと思しき1組のみ。そんな空いた日も、居場所の始まりとしては最適です。
「知っている人がいてくれるだけで、心強いです」
そうなんだろうね。初めての場所で知らないお客さんたちとつながっていくのは、なかなか気持ちが休まらないのかもしれない。それでも久しぶりに会った彼は、たった一人の厨房で生き生きとしていました。
「雇われていたときは食材コストなどうるさく言われたけれど、今は仕入れから全部自分で決められるので、儲けどうこうより自由がうれしいです」
などと不器用な笑顔で話す彼の料理は、故郷産を始め厳選された食材を生かした、以前と変わらぬ彼らしいものでした。確かに、僕でも儲けどうこうじゃないのがわかる内容だったな。
カウンター席の女性の一人は、昨日の初来店から二晩連続。近くでスイーツの店を経営しているそうな。テーブル席の家族もまた歩いて数十秒のところにお住まいらしく、居抜かれる前の店には来たことがないという話が漏れ伝わってきました。
「空き店舗になったのは知っていたんですが、僕ならここで店を開く勇気は持てない」
僕と同じ感想を口にしたのは、会計の際に新オーナーシェフと言葉を交わした、テーブル席に座っていたご主人。実は、有名なイタリアンのオーナーシェフらしい。図らずも同業者の検分を受けたような彼は、後に「先に教えてくれればよかったのに」とボヤいていました。まぁ、先に知ったところでとは思ったけれど。
僕らだけになってから話したことは、明日のネタにします。そんなことよりも、ご近所さんが美味しく食べられる居場所になりそうな気配が感じ取れて、何だか心が温まりました。

高級な食後酒も頂いたりして、新たな居場所では美味しい思いもさせてもらっちゃった。