物書きだのライターだのと偉そうに名乗り続けておりますが、「これは自分には書けない」と溜息をつくような文章に出会うことがあります。断っておきますが、これは優れた小説家に向けた感慨ではありません。文筆家の作品に受けるのは、書物として世に出るためのルールやマナーをよくよく了解したプロの領域における感銘です。
本業の作品は、わかりやすく言えばちゃんと試合になっているのです。サッカーでたとえると、プロは技術レベルが高い上に然るべきポジションの取り方を熟知しているから、まず見ていて安心するし、展開を楽しませてくれる余裕を与えてくれます。対して幼い子供たちのサッカーは、おおむねボールが転がった先に全員で群れていく。逆サイドのスペースはがら空きなのにと思っても、そっちに目をやる気配はまるでなし。気づけばゴールを守るはずのキーパーまで群れに突進していったり。
ここまで話せば気づいていただけると思いますが、僕が「自分には書けない」とのけぞるのは、いわば子供のサッカー的文章です。決して上手とは言えず、毎回同じテイストで表現できる安定感もなさそうだし、読点の打ちどころも滅茶苦茶で、場合によっては句点すらないまま最後まで突っ走る。
それでも読めてしまうのは、あるいは心を揺さぶられるのは、何かを伝えたい思いが筆を持つ腕を、いやキーに触れる指を突き動かすからだと思うのです。そういう文章は、SNSの長めのメッセージで時折見かけます。読者が特定されるケースが多いので、まるで目の前のボールしか目に入らないように、伝えたい気持ちが集約しやすいのかもしれません。
もちろんプロの自覚と責任を持っている僕にしても、伝えるべき事柄を正しく記す文章を書くよう努めています。だた、内容は違えど書く作業を続けていると、飽きることはなくても過去の繰り返しを避けようとして技巧に走りがちになる。それがね、適当にまとまっているけれどおもしろいのかというと、どうなのかなって。
そこが誰でも書けてしまう文章の奇妙さ。プロでやっていくのは難しい。だから楽しいという帰結の縁を、きっと今後もうろうろするのでしょう。素人さんの突拍子のなさ、きっともう僕の抽斗にはないんだと思います。
ガソリンスタンドの解体作業。消防士が駆け付ける場面がありました。何だったのかな。