ネタがすっ飛ぶような試合または気づき

時事中の時事なので、サッカーワールドカップの話題は避けようと思ったのだけど、日本の初戦を観たら、本日分に用意していたネタがすべて吹っ飛んでしまいました。何でこうなったかというと、日本人の特性を改めて思い知らされたように感じたからです。
午前5時開始の試合中継は録画にしました。でも、やっぱりよくなかった。何気なく触れたスマホが結末を伝えてしまい、決定された結果を追う形で観る羽目に。それでも、とてつもなくおもしろい内容だったのは皆さんご承知の通りです。
サッカーについて詳しいわけじゃありません。けれどあの初戦では、日本代表チームの戦略や戦術が如実に表れたように見えました。感嘆のため息が何度も漏れるほど感心したのは、まずは高度な戦略や戦術を実現できる選手たちのスキルの高さです。
理想の絵を描くだけなら、これまでもできたはず。けれど選手のレベルが理想に追いつかなければ、理想自体のレベルを下げざるを得ない。となれば、もはやそれは理想の絵ではないですよね。なのに今回は、というのがサッカー素人の僕でも感じ取れたのがうれしかった。
もうひとつは、戦略や戦術を徹底的に貫く選手たちの自立性と協調性の高さ。
実を言えば、根っからの日本人のくせに、そういう日本人らしさがあまり好きじゃないのです。美しめに語られがちな団結力みたいなのは、ともすれば島国根性や村意識に端を発する同調圧力となり、個を殺しかねない。しかし彼らは気づかせてくれたのです。日本人ならではの特性の良い点を純粋に抽出し行動に移せば、他の国にない強みにすることができると。
前に書いたかもかしれませんが、知り合いのフィジカルトレーナーからこんな話を聞きました。いわゆるハーフのアスリートが増えた日本は、これからどんどん強くなっていくと。理由は、日本人にはない強靭な肉体に、日本人の愚直な精神が宿るからだそうです。
この件、誤解しないでいただきたいのは、ハーフを増やせばいいという話ではないこと。血筋の問題ではない事実も、今の日本代表チームは証明してくれました。日本人の精神性を持って海外経験を積めば、平均身長で敵わない相手でも互角に戦える術を見せてくれましたから。
なんか興奮気味に書いていますが、こういう感情が勇気をもらうってことなのかと思ったんですね。何はともあれ、ネタがすっ飛ぶような試合が続くのを祈っております。

遠くの雲に反射するほど強い光源って何だろうと思ったこと、ありませんか?

今年でデビュー50周年を迎えるというシンガーソングライターのライブを観ました。何組かの若手も出演するイベントで、そのベテランはトリを飾るスペシャルゲスト。例によってお仕事関連で、僕の目的は別のところにあったのだけど、50年前の鮮烈なデビューを知っている方なので、自然と興味が沸くわけです。今はどうしているんだろうと。
その結果は、ある意味で予想通りでした。まずは体型。だいぶふくよかになっておられた。その点に関して言及するつもりはありません。ただ、僕が記憶しているお姿とは違っただけの話なので。
現在の体型を目の当たりにした直後に気になったのは、声でした。歌い手であれば、見た目よりそっちのほうが重要かもしれません。しかし、かつて艶のあったハスキーボイスから艶が落ち、なおかつ音域も狭くなり、高音がほぼ失われていました。
長く歌っているシンガーにとって、音域と声質の変化は避けて通れないそうです。それゆえ、古い歌を歌う場合はキーを下げるのが一般的らしい。単純に言えば楽曲内のもっとも高い音を出すため、出だしから音を下げるアレンジに変えるわけです。カラオケならそれで多くの人が気持ちよく歌えますが、キーが変わるというのは、本質的には楽曲が有するオリジナリティを歪めるので、自らつくった楽曲を歌う人にすれば大問題だろうと思うのです。
それでもプロは、下げたキーなりの表現を模索して披露します。だから長く応援するファンは、それがありのままと納得して聞くことができるのでしょう。50周年のベテランもそうでした。ギター1本の演奏スタイルは経験で培った迫力があったし、出なくなった高音も出ているかのように歌っていました。決して誤魔化しではなく、それはスキルと呼ぶべきものです。
ただしファンではない僕は、本当に失礼ながらルックスと相まって、とても切なくなってしまいました。
歳を重ねるたび、様々な域が狭くなっていくのは仕方ないことですね。関節の可動域とか、歩ける地域とか。役職的には上位になるほど責任の領域が広くなりますが、それも定年が来ればリセットされ、その後には肉体の狭域が切実になってきます。
であれば、昔できたことへの未練を断ち切り、現時点の域をフル活用して新しいことに挑んだほうがいいのかなと、そんなことを考えた次第です。3時間立ちっぱなしのライブで少し腰が痛くなったのも、こんな話をした理由の一つですけれど。

ずいぶん遠いところから来てくれたのね。

愚痴のいいところ

言っても仕方のないことをくどくどと嘆くこと。これが愚痴の意味。ゆえに、脳がアルコールに冒される酒の席では、決して口にしないよう心掛けています。
「酒を飲むときは未来の話をしよう」
これは、あるドラマで、柴田恭兵さん演じる上官が部下との飲み会で放ったセリフです。実は、胸の内に大事な人を失くした大きな悲しみを抱えていて、それが何かのきっかけで溢れないよう、必死で日々を過ごしているという人物的背景が控えているんですね。だからこそ酒席では、変えられない過去の話を繰り返さない。とても素敵なメッセージと思った次第です。
けれど肝心なのは、普段から愚痴をこぼさないことなんですよね。くどくど嘆くのを習慣にしなければ、アルコールが全身を巡ろうと、そんなことにはなりません。
とは言え、愚痴の一つもこぼさないんじゃ人間味に欠けます。じゃ、いつこぼすか? やっぱり仕事関連かな。本質から逸れる理不尽な機会が繰り返されると、どうしてそうなるんだろうと、この前も話した腹を割って話せる仲間に問うたりするわけです。
残念なのは、正しく言えば仕方のないことにならないと感じられる余地がありそうなケースです。でも、正しく言うべき立場の人が僕らと同じ地平にはいない。それもまた愚痴につながっていきます。
しかし、愚痴にもいいところがあるんじゃないかと気づきました。誰もがほぼ等しい違和感や嘆きを覚えている場合に限り、全員が一度吐き出すことで問題点の核を共有できること。共有が解決の糸口にならなくても、愚痴りたいのが自分だけじゃないと知るのは少なからず救われるから。でも、すぐに事態が好転しないならボヤくのは一度だけ。ついこの間の愚痴の吐露は、そんな結果に至りました。
そんなふうにして、それぞれの地平にいる人たちが不平不満を飲み込みながら、レベルを上げようと努めているのが現実です。だとしても、純粋な向上心でレベルアップを果たすのが筋ですよね。本日本当の愚痴は、「愚痴など言わなくて済む判断だけくれ!」でした。

高戸橋当たりの神田川は、わりと清流。

何のかんのAIも道具?

得体が知れないものには勝手に恐怖を感じ、不安が増せば一方的に敵対心を持つ。え~と、AIに関する話です。自分の職域を犯す脅威なので、そんなもの使えるかと徹底抗戦を続けているわけですが、ここにきて少しずつ敵の本質というか、本当の敵は誰なのかがわかってきた、ような気がしています。キーワードは、道具です。
腹を割って話せる仕事仲間にたずねたんですね。彼の上層から下りてくる依頼内容や質問案が、最近はどうも通り一辺倒。なんでそうなのと言ったら、彼は溜息混じりでこう答えました。
「みんな、AIに書かせているんですよ」
ほおほお、そうなのか。こんなに短い文面なのに自分で書かないなんて、むしろ面倒じゃないかと思ってしまうのは、たぶん旧世代で、書くことに慣れている職業柄のせいでしょう。
彼の言ったAIとは、使い手のリクエストに応じて最適な答えを披露する対話型人工知能のChatGPT。回答の速さや選択肢の多さや、僕がいまだに犯す誤字や計算ミスもないのは知っています。
そんなおっかないほど優れたChatGPTを利用しているのに、なにゆえ通り一辺倒な文面ばかりになるのだろう。
推測するに、使い手のリクエストがそもそも通り一辺倒で、提示された回答の判断も「AIが言うんだから」と甘くなっているからではないか。そこから導き出した僕なりの見解は、何のかんのAIも道具でしかないということ。道具であれば使いよう。そして少なくとも現時点では、上手に使いこなせていない人が多いのかもしれない。というのは相当に楽観的な見方ですが、皆さんはどう思います?
さらに自分を勇気づけるために付け加えると、たとえば自社アピールを目的にした記事がAI利用で通り一辺倒になっていけば没個性化が進み、その反動で再びユニークかつ独創的な表現が求められるようになるはず。
僕にとっての問題は、それすらAIが察知して最適解を提示しやしないか。はたまた使い手が道具の使い方と回答のジャッジに長けてきやしないか。どうなんでしょうね。ただ、対話型AIを使いこなす上で重要なのは、国語力だと思うんです。語彙の豊かさと適切な言葉選びをしない限り、AIも育たないだろうから。
あ、これは黙っておいたほうがよかったかも。世間の国語力が向上したら、それはそれで僕の脅威になるし。何にせよ、進化や成長は機械だけの話じゃないってことだろうと。
さておき、そんな通り一辺倒の資料をくれたところに、これから出かけます。僕が果たせる領域をしっかりこなすために。って、勇ましいじゃないか。

梅雨時に晴れ間がのぞくと、洗濯しなきゃと慌てます。生活感あるなあ。

『アンネの日記」とアンネの意欲

今日は『日記の日』です。『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクが、1942年6月12日に迎えた13歳の誕生日から、件の日記を書き始めたことにちなんでいるそうな。
実のところ、『アンネの日記』を読み込んだ記憶がありません。しかし第二次大戦中、ユダヤ系ドイツ人の彼女の一家がナチスドイツの迫害から逃れるため潜伏していた間、アンネが日々の思いをしたためたことだけは知っています。
後に有名になるアンネの日記は、収容所移送を任務としていたナチス親衛隊に見つかるまでの隠れ家に残っていたらしいんですね。それを同居していた人物が発見し、生き残ったアンネの父に託し、娘が過ごした日々を世に知ってもらうため出版する決意をしたそうです。
ここで一旦『アンネの日記』から離れ、日記だけにフォーカスします。アンネ本人は、読まれちゃってよかったのかなと。そもそも日記は、他人に読まれないことが前提の個人的な文章を記すものですよね。実際のところ、思春期の少女らしい性的な疑問や願望みたいな記述もあったそうです。
いやもちろん、ごく普通の少女が厳しい時代を生きた証を後世に伝えようとした父の気持ちは立派だし、2500万部のベストセラーになった事実からも、世界中の人がアンネに思いを寄せたのは明らかです。だから、出版自体を否定する気はこれっぽっちもありません。なのだけど、やっぱり日記なんだよなあと思ったりするわけです。
僕は日記を書きません。このTONAO TIMESは、個人的な視点で毎日何かを書く点では日記に似ていますが、誰かに読んでもらうことが大前提なので、自分では日記の感覚がないのです。
それでも日記的に毎日書くのは、書くのが好きという他にないんですよね。アイデンティティの確立とか、そんな大げさな話ではなく、趣味に近いというか。
おそらくアンネも、何かを書くことが大好きな少女だったのでしょう。彼女がどうだったかはわかりませんが、自分の内側にあるつかみどころのない感情を、一通り整理して外に出す作業は、それが字であれ音であれ絵であれ、楽しいものです。苦痛が伴ったりするので、必ずしも楽ではないけれど、ハマっていく感じは味わえるかもしれません。
『アンネの日記』に関しては、アンネが文章を書く意欲に触れてみたい興味があります。でも、日記なんですよね。そこにあるのは10代前半の女の子の感情だから、何かドキドキしちゃいそうです。

自社が贈った花の前で興奮する男。友人です。

災いばかりを数えた夜の……

ベランダほぼ真下の交差点は、救急車がサイレンを鳴らして横切るケースを除き、そう言えば事故が起きた記憶がない平穏な場所なのです。けれど先日……。
午前10時頃、急ブレーキでタイヤがきしむ「キッ」の直後、「ギャン」と「ゴボ」を混ぜた大きな音が窓の向こうから響いてきました。だろうなと思ってベランダがある東側の窓を開けたら、やっぱり交通事故。奇妙な場所で小型車が止まっていました。
西側から交差点に進入したらしいそのクルマは、南に向かう道の内側の角に立つ、歩行者を守る金属製の極太U字パイプに衝突。前方不注意で前にいたクルマを急激に避けたのか、意図的に追い越そうとして間違ったのか、いずれにせよ交差点内ではあり得ない角度で停止していました。
そしてまた、高所から事故直後の現場を見てわかったのは、右フロントタイヤの異常。車体の角度と反対側の内側に切れ込んでいたので、サスペンションの破損は必至。なおかつ前輪駆動車ゆえ、タイヤを駆動させるドライブ系も逝っちまったんじゃないかと。
ドライバーはすぐに再始動を試みましたが、案の定その場で立ち往生。クルマから降りてきた中年女性にケガはなかったようだけど、ついさっきまで動いていたクルマが一瞬にして交差点を塞ぐ障害物になった姿を目の当たりにして、遠目からでも呆然となっているのがわかりました。
その後1時間くらいで2名の警察官が来て交通整理。洗濯物をコインランドリーの乾燥機から取り込んできた3時間後の午後1時頃にレッカー車が到着。その45分後に僕が出かけたときは、すべてが片付いていました。
事故を起こしたドライバーがどこのどなたかは存じ上げません。けれどその日の夜には、単独事故で自分の体が無事だった幸いの他に数えるものが災いしかなかった事態を、大いに悔やんだことと思います。
事故ってそんなもんです。いいことなんて、ほとんどない。正確な原因は不明ながら、ドライバーの操作ミス以外になさそうだから、自ら招いた災いばかりを数えた夜の省み方だけが、今後のいいことにつながるのではないか。そんなふうに思います。
精神を削る人間同士の事故も至るところで起きるけれど、いいことなんてないもんな。防ぎようがあっただろうかと考える夜は、朝は死んだと思うくらい長いんですよね。気をつけなくちゃ。

今日はガクのほう。って、アジサイばかりですね。好きなんで、すみません。

「第3講堂に集まってください」

近所に住む小学3年生の女の子が学校生活について話してくれました。やっぱりというのもナニだけど、言い回しがウザい先生がいるらしいんですね。国語担当と聞いて、昔も今も変わらないんだと妙に感心しました。
「好きな子と、そうでもない子の対応も違うんですよ」
そういう態度、はっきりわかるほどなの?
「わかります。言葉遣いが違うから」
そのあたりは主観的ゆえ、たやすく先生を責めることはできないだろうし、なおかつ僕自身は好き嫌いが表に出るので、何十人もの児童や生徒を受け持つ教師にはなれないという個人的な感覚に立ち戻ります。とは言え、子供に態度の違いを見抜かれるのはいかがなものかと。
「それから、気分で態度が変わる副担任もウザいんです」
不満を語ってくれと頼んだわけではありません。でも、先生に向けた指摘をおもしろがって喋ったのは、たぶん僕の好みを察知したからでしょう。確かに、先生の悪口は楽しいよね。
「日によって挨拶のトーンが違うと、どう合わせればいいのかわからないんですよね」
なるほど。いずれにしても態度に安定感がないなら、プロフェッショナルとしては問題あり。その点について、僕が小学校に赴いて説教しなくちゃとつぶやいたら、彼女がこう言いました。
「そんなことしたら、校内放送で流れちゃいますよ。児童は第3講堂に集まってくださいって」
何それ?
「不審者が校内に入ってきたときにそう言うんです。第3講堂なんて本当はないのに」
いわゆる隠語や符丁の類なのか。今時の学校はそこまで準備しているんだな。僕が小学生のときには、そんなものありませんでした。いいか悪いかは時代の問題ですね。
時代と言えば、彼女は僕と話しながらタブレットを操作していました。それ自体は気にならなかったけれど、タブレットを自在に操る姿はまさしく今時なんでしょうね。変な対抗心が芽生えて、学校で1日使ったらバッテリーが持たないだろうから、充電はどうしているのかたずねたら、「私は持つ」と答えた傍らで、そばにいたお父さんが「パパが毎日ちゃんと充電しているからだよ」とツッコみました。聞かなかった振りするのも可愛らしかった。
小3って、9歳ですよね。丁寧語を忘れず理路整然と話す様子には賢さが滲み出ていて、同い年だった頃の自分が恥ずかしくなった、というのが全体的な感想です。でも、知らないことばかりで楽しかったな。

たわわに実るビワ琵琶びわ。

楽器について本日お伝えしたいこと

前にも触れた気がして、一度は見送った6月6日の『楽器の日』 「芸事の稽古は6歳の6月6日から始めるのがよい」とされる古い風習からこの日付になったそうですが、楽器について書きたくなったので、ズレまくったまま記します。
音楽方面の習い事をしたことがない僕にとって、人生初の思い出深い楽器との出会いは、小学4年生のときのサックスでした。4年生になると花形の吹奏楽部に入れる小学校だったので、一も二もなく入部。最初の面談で楽器選びが行われました。何となくカッコよさそうというだけでトランペットを希望したら、先生に歯並びがよくないと言われ、サックスを勧められました。今から思えば、10歳足らずの子供の肉体的欠陥を正面から指摘するなんて、なかなかのものですよね。
トランペットがダメでサックスになった件は、その日のうちに父親に伝えました。するとにわかに表情を曇らせて、こう云ったのです。「サックス、高いんだよな」
結局のところ、その小学校は4年生の1学期で転校となり、吹奏楽も早々に断念。これまた今から思えば、サックスを吹かせたくなかった父親の作戦だったかもしれません。初サックスで音が出たのは僕だけだったのに。
次の思い出は、小学6年生のときの合奏。そこで僕は、大きくて目立つという理由だけで触ったこともないマリンバを選びました。あれってピアノの鍵盤と同じ配列なので、ピアノ未経験者には困難極まりない楽器なんです。当然のことながらろくに叩けず、見栄は恥につながることだけ覚える結果に至りました。
中学生からのギターは、しつこいほどに今も続いています。弾けるとモテるかもという期待で始める話はよく聞きますが、僕はそうではなく、好きなミュージシャンみたいになりたい憧れだけで手に取りました。
そうしてつかず離れず弾いてきて、40歳で分不相応な高級ギターを購入し、そこでようやく楽器の本質みたいなものに気づきました。音楽の森に深く分け入ることができるというか、より単純に言えば、楽器演奏によって曲の理解度が高まる事実を悟ったのです。
そんなものは、元より音楽素養が乏しい人間にとって特に意味を成しません。ただの自己満足。なのだけど、ギターが身近にあることで、おそらくはギターがなかった人生より豊かな時間が多いに違いないと思えます。本日お伝えしたいのは、ただそれだけ。返す返すも『楽器の日』に書けって話ですが。

関東地方も梅雨入りしたんですね。羽を休める鳥に関係なく。

ノンアルの扉

縁遠かったものが実は興味深かったりすると、食わず嫌いはよくないと小さく反省したりします。本日の場合は飲まず嫌いですが。
3人の飲み仲間とノンアル飲料試飲会を開催。発端は、仲間の一人の女性が酒を飲めない体になったから。
お察しの通り、おめでたです。慣用句として広く使われる言葉だけど、改めて口にしてみると日本語らしい温かみを感じます。懐妊や妊娠は、何かちょっとドキッとしませんか?
さておき彼女は飲食店の経営者でもあるので、飲酒習慣は職業柄でもあるのだけど、やっぱりお酒が好きなんですね。しかし、おめでたとなれば控えねばならない。ただし、つわりがないので飲みたい気持ちは完全に収まらない。そんな話を聞くと、女性の苦労を感じずにはいられません。やがて父になる夫は、少なくとも肉体的な変化はないわけだし。何よりつわりを漢字で書くと、悪阻というしんどそうな字感になるし。
それもさておき、ゆえに彼女はストレスを溜めないためにもノンアルを活用しようと考えました。おめでた以前からノンアルのビールやチューハイなどを試してきて、シュワシュワ炭酸系ならそれっぽい気分を味わえることを知っていたと言います。けれど本当に飲みたいのは赤ワイン。1日の終わりに身も心も和ませてくれるのは他にないらしい。
ならばと奮起して、割り勘で1000円台、3000円台、5000円台の3本のノンアル赤ワインをネット注文。僕が普段買うアルコール入りワインより高いものがあるなんて知りませんでした。でもって一気に飲み比べてもよかったのだけど、あえてやめたのは、やがて母になる彼女を含み、誰もの期待値が低めだったからです。
それなら最初から試さなければよかったかもしれません。けれど、つい最近の仕事で耳にした飲料メーカーのノンアル担当者の言葉が心に響いたのです。
「ノンアル飲料は、アルコール0パーセント台のお酒」
清涼飲料とはまったく別の思いを込めてつくっているそうです。そんな造り手の気概を知れば、もはや「ノンアル?」などと拒めなくなるでしょ。
そんなこんなで、すでに1000円台の試飲が終了。「よく頑張っているけれど、ぶどうジュースね」が全員一致の感想。今週は3000円台へ。これがレベルアップしていれば、5000円台が楽しみになります。しかし彼女が高額系を気に入ったら酒代が増すだろうな。いや、ノンアルだから酒代とは言わないのか? 未知の世界の扉は少しずつ開いていくようです。

前にお伝えしたソメイヨシノの実。鳥にも突かれないまま黒ずんじゃった。

忘れたくないものは

前提条件または基礎的仕組として、脳は忘れるようにできているそうな。なぜなら、一定の容量に新しい情報を入れるには、不要な記憶の整理と消去が欠かせないから。不必要を判断しているのは、大脳の内側に存在する海馬という器官。判断基準は、生存に不可欠か否かと、日常生活に必要か否か……。
なるほど、合理的なんですね。頭の良さは、記憶の確かさや量の多さと同義にとらえがちだけど、脳が積極的に忘れようとするなら、それこそ頭の良さの前提条件を改めたほうがいいかもしれませんね。それなら僕は、だいぶ救われます。
そんなわけで「忘れる」や「忘却」をキーワードに検索すると、脳の仕組をもとに「だから心配しないでくださいね」といった優しげな記述や、忘れたくない記憶の保存法などを丁寧に示してくれます。
忘れないための努力として重要なのは、想起の反復。入れただけの情報はやがて消去されるので、何度も思い出し、「これは日常生活を無事に生きる上で捨ててはならない記憶なのか」と海馬に言い聞かせなければならないそうな。
さらに海馬は、感情が伴った情報を重要と判断する特性があるらしい。ゆえに忘れたくない事柄を記憶するなら、そのたび喜怒哀楽を爆発させればいいのかもしれません。とは言え喜楽ならまだしも、怒哀が具わった記憶は思い出したくないな。
海馬に記憶の不必要を委ねたくないならメモを取る。これは記憶の外化と言って、その最たる手段がPCやスマホの活用です。電子機器の記憶容量は膨大だし、操作しない限り消されもしない。その便利さは決して手放せないものになりました。
なのに、不安になるのです。記憶の外化に頼り切っていると、本当は空で言えるべき記憶まで忘れてしまうんじゃないかと。たとえば、実は生きていく上で大事な電話番号とか誕生日とか。
そんな疑問が頭を過ると、「生存および日常生活に必要か否か」という、海馬による不要記憶の判断基準がよみがえります。
であれば忘れたくない記憶を失ってしまうのは、自分の体の一部が現在の生活に不要と判断したから。なおかつ記憶が曖昧になるのは、繰り返し思い出す機会を逸するようになったから、ということになるのでしょうか。
脳の合理的な働きには敵わないかもしれないけれど、忘れたくないものは脳と別の場所にいるはずの自分で決めたいと、そんなことを考えた次第です。

白いアジサイは花に色素がないので、土壌のpHに関係なく純白に咲くそうな。だから花言葉が「一途な愛情」なのかな。