AIと戦おうなんて

この話題に触れる機会が増える予感が高まっているのがAI関連。最近は特に、音声チャットの応答時間がどんどん短くなっているらしい。アメリカのOpenAIが先頃発表した生成AIモデルの『GPT-4o』は、その応答時間が平均0.3秒。人間とのやり取りに近づいたそうな。そのメリットを紹介する一例として、目の不自由な人をサポートするデモンストレーション映像を見ました。
うろ覚えではありますが、確かカメラが街中の様子を常時監視していて、たとえば右から接近する物体を人がたずねれば、即座に答えてくれる。これはとてもいいなあと思いました。
その一方、AIによって僕の生活が脅かされる可能性はますます膨らんでいるみたいです。
AIとやらの登場で個人的に期待したのは、映像や音声のデータから文字データに変換する作業です。僕は取材中、基本的に録音はせずメモを取るので、およそデータ変換作業は不要。ただし専門的な講演会の内容を記事にする依頼では、後に公開される映像から文字を起こすケースが多いんですね。
その文字起こし作業が実に面倒臭い。なので、すぐ手に入るアプリやソフトを使ってみるのだけど、いまだ正確性に乏しい。けれどその煩わしさは、早晩AIが解決してくれるはず。ならば僕は楽になるのか?
いや、そうではない未来が待っているに違いない。インタビュアの機転が不要な講演会等を記事にする仕事は、応答性と正確性が高くなっていくAIによって、誰でもできるようになるでしょう。講話のどの部分を抽出するかが書き手のセンスではあるのですが、それさえも全文の文字データ化が速まれば、「上手いところ摘まんで、この人はこんな感じの口調で」とAIに頼めば、僕への依頼はなくなります。外注費削減にもなるし。
となれば僕は、AIではなく僕に頼む理由を極めていかなければなりません。「自分にしかできない」などと驕った気持ちは持たずにきたけれど、今後はそこら辺をアピールしていく努力が必要になるのだろうか。AIと戦おうなんて、それだけで驕っていると思われるかな。
いやでも、今からどんな準備をしたらいいか、実はよくわかっていないのがもっとも怖いとところなんですよね。『AIに負けない文章術』なんて本が出たら、手に取っちゃう気がする。

まだ変形途中の昆虫型ロボットみたい。少なくともオートバイの顔じゃない。

 

 

指が覚えている

たとえば映画やテレビドラマなど娯楽要素を含んだフィクションでは、記憶喪失を便利に使うところがありますよね。およそ主要な登場人物が、事故の衝撃や強烈な精神的ストレスによって、自分はもちろん特別な他者まで忘れてしまうというような。
物語としては大きな展開をつくれる要素だろうけど、実際に記憶をなくしてしまうのは、とんでもなく怖いと思うんです。よく耳にすることですが、自立した個を成り立たせているのは過去の記憶に他ならないから。
とにかく自分の名前すらわからなくなったら、僕は果てしないパニックに陥るだろうし、たとえフィクションであれ、そこから物語の中に戻れる気がしない……。え~と、記憶喪失について深入りするつもりはありません。
あんなに必死で覚えたのに、なんで忘れてるんだ? という場面に出くわすと、それはそれでパニックを起こします。元より記憶力が乏しい性質なので、日常的なたいがいは仕方ないと諦められますが、かつてさんざん練習したはずのギターのフレーズやコード進行が出てこないと、そのために費やした時間すら奪われたみたいで、本当に悲しくなるのです。
正しくギターを学び、僕の100倍以上もギターに触れ続けた人なら、ネックのフィンガーボードと呼ばれる細長い板の上の音をすべて知っている。しかし素人は、コードという型しか理解していないので、その出だしのコードが出てこないと、何も始められなくなる。
そのまま放っておけなくなったら、古い楽譜を引っ張り出すのがいい。それでコードの型を再確認すると、これが不思議なくらい、全部のコードと流れがよみがえります。他人事みたいに感心するんですよね、指が覚えているんだなあと。だからきっと、相応に体に叩き込んだものは、案外なかなか抜け落ちないのかもしれません。
ここで前段の話題に戻ります。記憶喪失を扱った架空の物語は、当事者が記憶を取り戻すのが常です。そうでなければ盛り上がりに欠ける。でも、そうなるのが目に見えてしまうと、僕は盛り上がれなくなる。あるいは、指が覚えている実体験の感動を越えることはないだろうと。
そんなわけで記憶喪失物は不得意分野です。「ひねくれ者はこれを見ろ!」という作品があったら、ぜひ紹介してください。

そしてまた地面を掘り返す。無駄の繰り返しではないんだろうな。

柑橘

ミカン科ミカン亜科のカンキツ属、キンカン属、カラタチ属に類する植物の総称が柑橘類。なるほど。ゆえに柑橘系と呼ぶのは正しくないらしい。
以上の属で食用は、カンキツとキンカン。僕が好きなのは、ミカン類やオレンジ類などが含まれるカンキツ属ということになるわけだ。
柑橘という語感もいいんですよね。甘さを期待しているのに「か」行の破裂音や促音系の「つ」が混じっていて、キュッとした酸っぱさを予感させる。そこに「類」を加えると語尾が優しくなって、音からして心惹かれるのです。
画数の多さは、よく効く薬のイメージも感じませんか? 実際に柑橘類には、風邪の予防や美肌を保つとされるビタミンCやカロテン、クエン酸が多く含まれているそうな。だからミカンの旬の冬に食べるんだね。
なぜ柑橘という漢字を当てたのか。木に甘いの「柑」は、日本原産の温州みかんに使われてきた漢字です。蜜柑って、いかにも甘そうですよね。一方の「橘」は、「きつ」の他に「たちばな」の読みがあります。この「たちばな/タチバナ」も日本固有の柑橘類。種が多くて酸っぱいので食用には向かないみたいだけど、そのキリッとした酸味に昔の人は、魔除けや邪気払いの効能を感じ取ったらしい。京都御所では橘と桜を植えるのがしきたりだったり、江戸時代の大名は家紋に選んだりもしました。
それから、500円玉硬貨の裏側にも橘の枝があしらわれています。知ってた? 人にたずねておいてナニですが、僕は知りませんでした。
冬が終わっても食べていたいほどの柑橘類好き。なのでちょっと調べてみたら、なかなかおもしろい知識を得られました。しかし当然のことながら、いくら検索しても僕が柑橘類を好む理由は教えてくれませんでした。
何でだろ? ビタミンうんぬんより、食事の最後にいただくとさっぱりするからかな。橙色というかオレンジ色も好きなんですよね。味と色のどちらを先に好きになったのかもわかりません。でも、とにかく不可欠な食べ物。現在のストックは、アメリカ産のネーブルオレンジです。

この植物、メリアンサス・マヨールって名前? 立ち居振る舞いからして奇妙ね。

庵野さんへ

本日5月22日は、庵野秀明さんの誕生日だそうです。1960年生まれなので、僕より二つ上の満64歳。映画監督に留まらない活躍をされているのは知っていますが、生い立ちや経歴にはあまり詳しくありません。ただ、アニメや特撮から受けた影響をもとに育んだと思われる独自の視点は、同世代だけに理解できるし、共感も覚えます。だからなのか、庵野作品は自然と気になってしまうのです。
もっとも有名なのは、『エヴァンゲリオン』でしょう。僕はそれ、再放送からチェックしたテレビシリーズに始まり、旧劇/新劇と呼ばれる映画まですべて観ています。最初のテレビ放送は1995年なんですってね。その後にテレビ版の続編となる長編映画をつくり、物語を再構築して新たなエンディングを迎えた『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開が2021年ですから、『エヴァ』だけでも実に26年もかけた大仕事だったわけです。
僕は熱狂的なファンとは言えないけれど、相応に付き合ってきて『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見終えたときは、安堵の気持ちが込み上げてきました。これだけの大作を長い時間かけて終演に導くために、庵野さんを始めとするつくり手たちは相当に心身を消耗したはず。だから、よくぞ最後まで生きていてくれたと思いました。
総監督・脚本等を務めた2016年の『シン・ゴジラ』。企画・脚本の2022年の『シン・ウルトラマン』。再び監督・脚本の2023年の『シン・仮面ライダー』。それらも全部好き。特にウルトラマンや仮面ライダーは、少年時代にともに生きた実感があるので、庵野さんが『シン』としていかに解釈に作品に仕上げるかは、抗いようのない興味そのものでした。
誘蛾灯なんだと思います、庵野作品は。身を潜めておくべき夜であっても、そこに光が灯れば反射的に羽ばたいてしまい、光の渦に囚われてしまう。そうなってしまう理由のひとつは、同時代を生きていることです。つまり僕の存命中に、最新作に触れられるという奇跡。そんな大袈裟な思いを衒いもせず口にできる映画監督や小説家や音楽家は数えるほどしかいないけれど、確実に存在してくれていることには感謝の念が堪えません。
そんなわけで庵野さん、勝手におめでとうを言わせていただきます。小さな声で伝えますが、心から新作を待っています。

目出度くなくても赤飯希望。もち米が好きなんだな。

ダルビッシュ投手のカッコいいところ

時事ですけれど、ジャーリーガーのダルビッシュ有投手が現地時間19日の試合で日米通算200勝を達成。試合後のインタビューが秀逸でした。
「NHKさんがこの生中継、大谷君のやつをやめてまでやってくれているので、何とか決めたい気持ちがあった」
そうなんです。NHKのBSは、大谷翔平選手が所属するロサンゼルス・ドジャーズのゲームを中心に放送するんですね。しかしその日は、ダルビッシュ投手が偉業を達成する可能性がある試合を選びました。しかも出場予定だった前日のゲームが雨で中止になり、翌日にスライド登板となっても、ダルビッシュ投手への注目は外さなかった。
それを本人も知っていたのでしょう。だからNHKのインタビュアに向かって礼を口にした。なおかつ、わりと真顔で小さな皮肉も滲ませられるのが彼の素敵なところです。
「チームメイトは自分の200勝を知らないと思うが、何よりチームが勝てたのがよかった」
これもそうなのでしょう。彼の勝利数の内訳は、日本のプロ野球で93。アメリカのメジャーリーグで107。だからアメリカ人にすれば、メジャーでの戦績以外は興味がなく、日米通算を騒ぎ立てるのは日本のメディアだけなんだろうと思います。
ただ、少なくとも彼に続こうとする日本の選手たちにとって、ダルビッシュ有はまたひと際大きく輝く存在になったんじゃないでしょうか。
野球好きの語り草になっている昨年のWBC。メジャーリーガーでは真っ先に日本代表に合流し、彼が若手を引っ張った件はあらゆる場所で伝えられました。そのときのダルビッシュ投手は、有能な指導者というより、何でも相談に乗る兄貴的立場を通したようです。
彼も今年37歳なので、自分が知り得ることは何でも教えたい気持ちがあると思うんですね。この前お話を聞いた55歳の業界ベテランも、そろそろ自分の経験を若い世代に伝える仕事をしたくなったと言いました。僕が感銘を受けたのは、継承作業を仕事で果たそうとする姿勢です。口でとやかく言うだけでは、つい最近書いた老害になっちゃうんですよね。
現役であれば、直接的なアドバイスよりも結果のほうが若者に響く。それを体現し続けているのがダルビッシュ投手のカッコいいところ。それがよくわかったので、ここのところの年齢/世代ボヤキモードから、そろそろ抜け出せるはずです。

更地になってしばらく放置されていた工事現場に新たな動き。

できるまでやる

自主的隔離で2回。仕事と重なったのが1回。都合3連続で参加を見送った野球の練習に行ってきました。コロナに感染したことは漏れ伝わっていたようなので、正直なところ、ちょっと怖かったんですね。距離を置かれるんじゃないかと思って。偏見を持っちゃいけないのが社会通念であっても、やっぱり嫌だろうと心配になるわけです。これは感染した側ならではの、ある意味で僕にとっても新鮮な感覚でした。
しかし、練習参加率ほぼ100パーセントの僕が3週3回も休み、十分な療養期間を確保したことを理解してくれたので、みんないつも通りでした。ありがたいことです。もちろん、新型コロナウィルスの脅威が低くなったことも関係していると思います。「健康そうなトナオでも罹るんだ」という事実が、チームメイトにとっても有益な情報になるといいのだけど。かと言って、僕がそうでしたが、注意のしようがないというのもウィズ・コロナのリアルな現状ではあるけれど。
さておき久しぶりの野球は、「こんなにしんどかったっけ?」でした。週1程度のペースであれ、連続を途絶えさせてからの復活だからでしょう。息切れするのが速いような気がして、何度も「病み上がりはキツいなあ」とかこぼしてみたりして。でも、その前だって練習では密かにゼイゼイしていたわけで、実際の体力的にはこんなものかもしれないんですよね。
Facebookあたりでは時々、体調不良の話題を伝えてくれる人がいます。何となく思わしくなくて病院に行ったのを機会に、飲酒や食事に気を遣うようになったというような記事。そういう事態に歳を重ねてから直面すると、あれもこれもダメかなあと、あきらめるべき事柄を探し始めることになります。運動方面もその範疇に入ってくるのでしょう。そうして少しずつ体を動かすことから遠ざかり、やがてフェードアウトするように引退する……。
何にせよ潮時があるのだろうけど、ゼイゼイしつつもまだ野球は続けたいと思いながら、ボールを追いかけていました。時に「何歳までやる気なの?」とたずねられるけれど、性懲りもなく、改めてリミットを決めないで臨む意思を固めた次第です。できるまでやるのがベストかなあと。

南青山あたりにこんな広大なスペースがあったとは。

 

常に誰かに試される

心掛けと言えば大袈裟だけど、むしろ日々の小さな面倒をないがしろにしないため、「常に誰かに試されている」という暗示を自分にかけたりします。現実的には、誰もそこまで僕のことを気にかけちゃいないはず。しかし、目の前の面倒をすぐに解決しないとやがて必ず大きな面倒となって返ってくるに違いない。だから見えない相手を勝手に想像して、このテストに落ちたら次はないと我が身をけしかけるのです。でないと、たやすくどこまでも怠惰の海に漂ってしまう性格だから。
他方、実際に他者から試されるケースもあります。この前近所の飲み屋でとなりになった青年は現在、新たに借りる部屋の審査を待っていると話してくれました。彼女と猫と同居するのに最適な物件らしい。それだけにどうしても借りたいのだけど、これまでの部屋より家賃が高く、特に年収面で不安があるので、審査の行方が気になって仕方ないそうです。
いわば社会というものに試される心持ちなのでしょう。そういう試練を乗り越えないと大人になれないと思う彼の心情は、僕にもよくわかります。人生で初めて賃貸物件を申し込んだときに落とされた口ですから。ああいう審査って、通らなかった理由を教えてくれないんですよね。
それから、今はオンボロになったクルマを新車で買おうとしたときも、某有名組合の自動車ローン融資みたいのに通りませんでした。当時勤めていた制作会社が、帝国データバンクに載っていなかったからだそうです。社会の信用って、僕個人には向けられない非情さを思い知った件になりました。にもかかわらず、しばらくしたらまた同組合の融資お知らせがポストに投函されていたんですよね。今度はこっちから一生信用しないと決めました。
そんな自分のエピソードを、審査不安に陥っている彼にするのはさすがに気が引けます。彼の脇に座っていた同居予定の彼女が「大丈夫」と励ましたので、心の中で「同意」を叫びました。社会という実態がよくわからない相手が何を試そうとするのか、僕にしてもいまだに不明だけど、今度彼らに会えたとき引っ越しの準備が始まっていることを祈るばかりです。

先日の試乗車は、仏像っぽい半眼の、なかなかかわいい顔つきでした。

 

 

老害の老老

何かにつけ「今の若い者は!」とボヤく。
提案に対して、ひとまず否定する。
立場が弱い者に強い物言いをする。
「それは知らなかった」と言えなくなる。
「知らないので教えて」とも言えなくなる。
礼を口にできなくなる。
さっきネットで『老害のサイン』を検索したら、こんなのが出てきました。おっかないですね。各項目を目にしながら、自分はどうなんだろうと気になってしまうのは、存在自体が老害になる年齢に達した不安があるからでしょう。
裏を返して、僕が老害の可能性を帯びる年齢になって思うのは、若い頃にはなかった怖さを覚えるということです。もっとも大きいのは、自分が不要になるんじゃないかという恐怖でしょう。だから体力では敵わなくても、経験で培った精神力を発揮して、自分の居場所を頑なに守ろうとする。
わからなくないなあと思ってしまうのは、やはり年齢なんだろうなあ。
こんな話になったのは、これまたさっき電話で持ち上がった件が、まさしく老害っぽい人物による被害相談だったからです。で、問題を起こしているそいつに『老害のサイン』を当てはめてみたら、これがことごとく赤信号だった。なので、僕は相談してきた相手に断言したんです。社員でもないそんなヤツ、あなたの権限で解雇すればいいと。
「いやいや、ここまでそれとなくやってきたし、何より同い年だし、そういう人もいるんだなあと思うわけですよ。切るのはいつでもできるし」
老害の可能性を帯びた世代が老害をかばうみたいで、ちょっと泣けました。いろんなところに老老はあるみたい。
ひとまず、知らないことをむしろ武器にする図々しさを保ちつつ、教えてもらったら元気よく「ありがとう」と言える大人でいられるよう努めます。

メイフラワーというだけあって、軒先のバラが「私を見て!」と歌いかけてくる。

嫌いとか苦手とか

嫌いと苦手について考えています。この二つは、似て非なるものなのか。それとも、似てさえいないものなのか。その区別がポイントになるのかもしれません。
食べ物を例にしてみます。僕は好き嫌いが少ないほうだけど、苦手で真っ先に思い浮かぶのがホヤです。まず、食べ馴染みがない。宮城あたりの人によれば、ごく普通に食卓に上がるらしいのですが、関東の家庭に育った僕にはまるで縁がなかった。
そんなこんなで、だいぶ大人になるまで目にすることすらありませんでした。何かの折に、やはり東北出身者に勧められて食べてみたんですね。見た目の臓物感がしんどいと、それとなく遠慮したのだけど「切っちゃえば大丈夫」と返され、恐る恐る口にしたら、僕には生臭さが強かった。なので、これは無理な食材と決めつけようとしたら、またあるとき、極めて新鮮なホヤを食べる機会が巡ってきたのです。これは生臭くなく、意外にイケるんだと感じました。
だからと言ってホヤ好きになれたわけではありません。結局は、克服する理由が見つからないので今でも苦手なまま。ただ、誰かの好物にケチをつけるつもりはないし、ホヤに恨みを覚えることもないんです。その感覚に鑑みると、自分は食べないという条件を設定できれば、存在自体を許容できるのが苦手と論じていいのかもしれません。
では、嫌いとは? 再びホヤを例に出すと、仮に何かの縁でとても美味しいと感じて、人に好物を聞かれたら「ホヤ!」と答えるまでになったとします。ところが、何かの手違いでホヤのせいで食あたりを起こした場合、僕は心から嘆くと思うんです。こんなに好きになったオレを裏切るのかと。こうなると、二度と交わろうとは思わなくなる。遠くから「ホヤが旬です」という声が聞こえても。
つまるところ嫌いとは、一度は好きになった経験があるからこそ生じる感情なのかもしれません。なおかつ、時間を費やした先で白が黒に反転するほどの衝撃を伴うから、記憶の定着力が強い。ゆえに心の中から消し切れない可能性が高くなるのでしょう。
え~と、男女間の話ではありません。かつて仕事をした仲間にそういう人物がいて、最近になり様々な噂が耳に入るようになったので、こんなことを考えてしまいました。正直なところ、うっとうしいです。嫌いとか苦手とかに惑わされる自分の狭小な思考が。

5階の窓へようこそ。

 

自分とは無縁と言えばそれまで

かつて5月16日は、高額納税者を公表する日でした。税務当局が定めた高額納税者公示制度によるもので、これを受けて情報番組あたりがネタにしたのが長者番付でした。今は見ませんね。2005年いっぱいで制度が廃止されたからです。
始まりは1947年。高額所得者の所得金額を公示することで、第三者の確認による脱税牽制効果を狙うのが目的だったそうです。この目的を果たすため、第三者たる情報提供者には、脱税発見額に応じて報償金を支払う第三者通報制度も導入されていたとか。あまりに危なかったしい制度なので、1954年にはなくなりました。加えて、1983年度からは所得金額ではなく納税額に改められています。まぁ、多少は間接的になったというか。
ある文献には、この制度によって世間に名を知られた人は、多くの税金を納めることで多大な社会貢献を果たす人物として崇められる効果もあると記されていました。そんなお金持ちのおかげで島に橋が架かったなんて話があるのかもしれませんが、たいがいは感謝より妬みを抱くのが人間ってものではないでしょうか。
対して高額納税者にすれば、正しく税金を納めたのに妬まれるのもたまったもんじゃないはず。しかもこの公示は、氏名や住所を記載した名簿をつくるのが慣例でした。氏名はカタカナ表記という、これまたお茶を濁したっぽい間接的な措置が取られていたものの、バレないはずがない。驚くべきは、この名簿が市販されていたこと。だからマスコミは勝手に長者番付をつくれた。
そうしてより広く世間に高額納税者である事実が伝わったせいで、強盗に狙わる事件も起きました。それを恐れた高額納税者は、相応の費用や手間をかけて公示逃れの策に出ます。するとマスコミがあれやこれや指摘し、噂を聞きつけた税務当局は脱税扱いにしてしまった。なかなかの横暴ですね。
そんなこんなで、最終的には無茶がたたって、2005年いっぱいで高額納税者公示制度は反故に。よかった、のかな。実のところ、そこがよくわかりません。所得税額1000万円超が高額納税者らしいので、自分とは無縁と言えばそれまでです。
ただし、税金についてはちゃんと知りたいと思います。特に消費税の在り様は、税務当局を含め公の場で行われる、まっとうな議論を聞いてみたいものです。

僕がスケートボードを初めて見たのは18歳くらい。オリンピック競技になるなんてねぇ。