出火、失火、引火、放火

「地震、雷、火事、親父」。それがこの世の四大恐怖と理解できるのは何歳くらいまでなんだろう。そんな心配を無視して話を続けると、このことわざ、または慣用句は、怖いものベスト4の列挙でもあり、怖さの順番でもあるそうな。
「親父」がランクインしているのは、かつての家父長制度から来ているという説の他に、古い言葉で台風を意味する「大山嵐(おおやまじ)」がなまったという説もあるとか。ふむ、地震、雷、火事となれば、台風を入れたほうが文字通り自然な感じになりますね。いやいや、天災だけでなく人災も恐ろしいぞという教訓であれば、それはそれで大いに納得できます。
さておき、上記の四大恐怖の中で僕がいちばん怖いのは火事です。なぜなら、地震や落雷の自然災害でも起きるけれど、火事は人が起こす可能性がもっとも高い災難だから。だからとにかく気をつけろと、子供の頃から母親に言われ続けてきました。おそらく母親がもっとも恐れたのは、自分の家が火元になることだったのでしょう。不可抗力であれ不始末であれ、火を出せば周囲に多大な迷惑がかかる。それだけは何としても避けなければならないと。
そういう頭があるので、自宅の注意は高レベルを保つよう努めつつも、火事は他所からもらう危険性が拭えません。そこで僕は、万が一のときに備えて、自宅から持ち出す必要不可欠品のリストを策定してあります。まずは財布。通帳や印鑑は、クレジットカードさえあれば何とかなりそうなので削除。さらにPC。これさえあれば仕事は継続できる。加えてクルマの鍵。
そして2本のアコースティックギター。「そんなの置いてけ!」と怒鳴られそうだけど、いろんなものを失う中で、大事なギターがあれば後々も生きていく勇気が湧くと思うんです。それらを何としても抱えて部屋を飛び出し、クルマで退避。これが僕のプラン……。
どうなんだろうなあ。玄関から火に迫られたら、飛び降りるには高すぎるベランダに向かう他になく、どんな計画も水泡に帰すかもしれない。いろいろ考えると、ますます火事の恐怖が募る。僕の四大恐怖は、出火、失火、引火、放火。どれとも縁のない人生でありたいです。

ここのところの日の入りは、午後4時半くらい。

不易流行

これも直近の時事なので取り扱い注意ですが、年末恒例の流行語大賞が発表されるたび、よく知らない言葉が選ばれるもんだなあと奇妙な気持ちになります。流行に疎いせいか? それは否めません。ただ、流行語大賞に選ばれる言葉は、注目された事象ないしは話題の見出しのような印象を受けるので、そのトピック自体を知っていれば特に問題はないと、そういう割り切りができます。「ふてほど」も知りませんでした。由来となったテレビドラマは見ていたけれど、あれは「不適切」が肝なのに短縮したら元も子もないだろうに、とか、まぁそんな感じで大賞の重みが薄まる感を覚えます。
そこはかとなく伝統的な賞を否定するような文脈となっておりますが、いろいろ考えさせてくれる点で感謝していることは、文章全体の中盤でお断りしておきます。そして何よりこの賞ないしはムーブメントで重要なのは、使えない言葉を教わることです。
流行の対義語は、およそ衰退。事象も話題も、注目の度合いが大きいほど忘れられる速度が高まるので、そこで用いられた見出しは、「そんなこともあったねぇ」と皆が懐かしがるまで封印を余儀なくされがちです。要するに、なかなか使えない言葉になる。実際のところ文章を書く際は、まず流行語を使いません。無理している気配を悟られると痛々しいので。
では、流行は一切無視していいのか。そういうものでありませんよと諭したのが、松尾芭蕉先生。『奥の細道』で有名な俳人は、不変の真理を意味する不易と、変化による進展をもたらす流行のいずれも知ることの大事さを、長い旅の途中で体得したそうな。その「不易流行」と呼ばれた理念で創作された俳句が、300年以上を経ても尊ばれている。天才的な言葉の使い手として、改めて敬意を表せねばなりませんね。
そんなこんなで語彙に神経質な書き手としては、「ふてほど」より「不易流行」を大事にしたいわけです。とは言え、どこかにその言葉を挟んでも、現代の流通枠から外れているのは明白なので、「何それ?」と嫌われかねません。賞に関係なく、使えない言葉って案外多くて困ります。

そろそろ見納め。

どんな場所であれ余所者が訪ねるなら

観光被害、または観光公害。あるいはオーバーツーリズム問題。呼称はどうあれ、たとえば10月に行った京都や、先月訪れた白馬でも、観光客の増加に伴う地元住民への芳しくない影響があると聞かされました。日本人はおしなべて「おもてなし」の心があるので、遠くから来てくれた人を無下にできない。何よりも経済効果は無視できない。それでも路線バスに乗れないとか、晩飯を食べる場所が奪われるのはしんどいと、皆さん小声気味でこぼしていらっしゃるわけです。
そんな中、こんな記事を見かけました。「深刻な観光被害に悩む、オーストラリアの世界遺産『ウルル』」
「ウルルン滞在記?」と返されるたび少々がっかりしますが、ウルルはオーストラリア大陸のほぼ中央に位置する、高さ335メートルで周囲9.4キロの巨大な一枚岩です。かつては、ここを「発見」したオーストラリア人の探検家の名前にちなんで、エアーズ・ロックと呼ばれていました。
そういう経緯を知らなかった小学6年生の僕は、図書室にあった写真集の中で、夕日を浴びてオレンジ色に輝くその姿を「発見」したのです。授業時間丸々、なぜかその1枚の写真の前から動けなかった。そんな奇妙な思い出を起点にして、20年ほど前に取材の名目で現地を訪れることができました。
先住民にとって極めて重要な聖地であること。ゆえに、以前は許されていた登頂が禁じられていること。そのすべてを尊重するのは当然。僕はとにかく、先住民の伝統的な名称に改められたウルルをこの目で見たかっただけだから。
ところが、件の記事を読んで驚きました。罰則規定を設けたウルル登頂の禁止が決まったのが2019年10月。いやいや、その10年前でもガイドからNGを聞かされていたのに、そんなことになっていたのかと。
記事によれば、観光客によるゴミ被害が絶えなかったそうです。僕もまた、たった一度だけ岩肌にそっと触れた観光経験者に過ぎないのだけど、それを知って怒りがこみ上げてきました。けれどよく考えてみれば、僕だって現代のツーリズムに乗っかっただけ。先住民の人々にすれば、先祖の魂が宿る聖地に踏み入れた不届き者かもしれません。
だからこそ、という部分の解決法はわからないのだけど、どんな場所であれ余所者が訪ねるなら相応の振舞いがあるだろうと、観光地ではない場所に住む身として、そんなことを考えました。

2週間前の白馬山麓。間違って咲いちゃった桜が切なかった。

『いよいよの日』

今日は『鉄の記念日』。旧暦の安政四年十二月一日、南部藩士の大島高任が日本で初めて高炉製鉄に成功したのが由来。南部藩は現在の岩手県盛岡市あたりを拠点にしていたらしく、おそらくは日本製鉄で有名な同県の釜石市につながる縁があるんじゃないでしょうか。
それから、『カイロの日』。かつて「日本使いすてカイロ同業会」という団体が存在し、カイロの需要が高くなる12月の最初の日を記念日にしたそうな。1991年の話です。その手のカイロ、たまに使うと便利さを実感します。
2003年の今日から地上デジタルテレビの放送が始まったことにちなんだのが、『デジタル放送の日』。そう言えば、地デジ対応テレビの買い替えを迫られました。
よくわからないのは『映画の日』。由来は、1896年11月25日に神戸の神港倶楽部で日本初の一般映画公開が行われたから。であれば記念日は当日の日付でもいいのに、なぜかもっとも近い切りのいい日が選ばれたんだとか。言い出したのは誰なんだろう。
その他にも、厚生労働省が自殺予防に向けて2001年に制定した『いのちの日』や、出荷解禁日に合わせた『下仁田ネギの日』。グローバルに目を向けると、WHOが1988年に定めた『世界エイズデー』も12月1日となっております。
そんなわけで切りのいい日なので、本日はいろんな記念日となっております。個人的には、『いよいよの日』ですね。なんのかんの今年も11カ月を無事に過ごしてきながら、12月が始まるとなると、「これでよかったのか?」「やり残しはないのか?」と妙に慌てたりします。そして例年のごとく、最後の月は大事に過ごそうと思ったりする。この期に及んで、今月だけはと意気込んでもなあと鼻白むのも、毎年のことだけど。
それでも、まぁ、いよいよです。そこここで「よいお年を」なんて挨拶が交わされ始めそうですが、どちら様も健やかに12月をお過ごしください。僕も粛々と今月に向き合います。

いよいよ、賑やかな装飾を受け入れられる時期になりました。

今日はスーツ

スーツが大嫌いでした。
ここで言うスーツとは、ジャケットとパンツが同じ生地で、ジャケットにはテーラードと呼ばれる襟があり、パンツにセンタークリースというプレスラインが入っている、要するにビジネス界隈のユニフォーム的な服を指します。
社会人になった最初の職場では、スーツ着用が義務付けられていました。当時はそれが大人になる印でもあったから、さして疑問を持たずに受け入れることができました。しかし、いろいろあって入った会社の仕事にどうしても馴染めず、毎日スーツを着て通うのが苦痛になっていくのです。
そしてまた別の会社に就職し、そこでもやがて職種的にスーツ着用が求められたのだけど、これまたいろいろあってしんどくなった。本末転倒やお門違いな了解済み。でも、あれこれ悩む日々の灰色の気分を象徴するのがスーツになってしまいました。型にはめられるような苦しさが耐え難かったのでしょう。それさえ脱ぎ捨てれば、オレには別の可能性があるとさえ念じるようになった……。
今から思えば、不遜も甚だしいですよね。まだ何者でもない若造なら、ひとまず型を覚えるべき。でなければ、型破りの意味を知ることもないから。いやまあ、それなりにじたばたしたおかげでドレスコード不要の仕事に就けたので、灰色の日々にも相応の価値はあったと思いますけれど。
無知だったのです。一定のルールに則ったスーツで場に向かうのは、対面する相手に誠意を示すためであること。そしてまた歴史的にも、対等な立場で話す民主的な方策として、特にビジネスシーンで全世界的にスーツの着用が普及したこと。それらの事実は、スーツから離れて久しくなった頃に知りました。二十歳前後で納得していたら、どうだったかな。
今日はスーツを着ます。友人の結婚式に参加するため、ちょうど2年前に仕立てた黒いやつ。今回も友人の披露宴。あえてダブルにしたのは、型で敬意を示す様式を知った大人の、然るべき振舞いと考えたから。何と言うか、そこまでの覚悟を決めないと、遠ざけ続けたスーツに嫌われるんじゃないかと思って。着こなせる自信はありませんが、気を入れて出かけます。

つくったのは2年前だけれど、サイズ的には着られる、はず。

ギフトたる防災

『防災ギフト』と記された封筒が届いたのは、たぶん10月だったと思います。黄色をまとっていたので、注意喚起の意図は理解できました。しかし、それに続く『ギフト』の意味がすぐにはわからなかった。
「在宅避難の推進に向け、各家庭の震災時の備えを支援するとともに、区民のみなさまの防災意識のさらなる向上を図る」のがこの仕組の目的で、区の全世帯に配布されるそうな。その上で「在宅避難(お家生活)の準備」のため、各世帯に配布するポイントと、用意された防災関連用品の交換をぜひ! ということらしい。なるほど、有難い気遣いなんだな。
自然の猛威が人も場所も時も選ばず襲ってくる事実は、今のこの国に生きる人々はよく知っています。だからもろもろ備えておかなければならない。極めて物騒な表現ながら、それぞれが生き延びるために。
にもかかわらず僕の防災意識は、いまだに対岸の火事的。あるいはキリギリス的なまま。必要性は十分に承知しているのに、まともな準備を始めない。まったくもって、よろしくありません。何も持たず路頭で迷ったとき、自分の備えを分けてでも助けてくれようとする誰かに迷惑がかかるのは間違いないし。
これは言い訳ですが、どこで被災するかわからないという経験値が、自宅での準備を怠る理由になっているところがあります。2004年10月23日の新潟県中越地震は、同じ新潟の越後湯沢で。2011年3月11日の東日本大震災は埼玉県の所沢で体験しました。いずれも僕の住まいから遠く離れていたので、もしや当分は自宅に戻れないかもと思ったのです。
「だから、いつどこで被災するかわからないなら、次は自宅かもしれないじゃん!」
そんなお告げこそがギフトですね。そうして関連用品のカタログを確認し始めたところで、申込期限延長のお知らせが。それもまた体たらくの僕に差し伸べられた気遣いかもしれません。
それにしても防災準備初心者は、カタログから何を選べばいいのかわからず、途方に暮れかかっております。

イラストを楽しめるうちに選ばなくちゃ。でも、何が必要なのか見極められない……。

葬式無用 戒名不要

1985年11月28日は、「葬式無用 戒名不用」と手書きで綴った遺書を残した、白洲次郎さんの命日です。伝えられる限り、最期まで潔くカッコいい人でした。
まず、経歴が華々しい。わずか17歳でケンブリッジ大学に留学。それから9年の英国滞在中、彼の国の貴族文化に触れたそうな。中でも戦前のブガッティやベントレーでヨーロッパを旅して回った逸話は、クルマ好きにはお伽噺に聞こえます。
帰国後は実業家となり、いくつかの会社の取締役を歴任。商談で度々海外に飛ぶ最中、当時は駐イギリス特命全権大使、戦後に首相となる吉田茂と親交を持つようになりました。
第二次大戦が始まると、現在の東京都町田市にあった古民家を購入し、表舞台から姿を消すように農家生活を始めます。白洲さん的に言えば、英国貴族に倣ったカントリーライフの実践だったらしい。
この人が歴史の真ん中に浮上するのは、日本がGHQの支配下に置かれた終戦直後。外務大臣だった吉田茂が、側近として白洲さんを招聘。堪能な英語と、海外経験の豊富さに相まった肝の座り方を発揮して、厄介を極めたGHQとの交渉サポートを請け負います。この頃の白洲さんの信念は「戦争には負けたが、奴隷になったわけではない」だったとか。
政治関連の最大のトピックは、1951年9月のサンフランシスコ講和会議でしょう。日本の主権回復を議会で演説するのは、首相になった吉田茂。その演説原稿が英語だったことに白洲さんは激怒。「戦勝国の代表と同等の立場なのに、相手国の言葉で語るバカがどこにいるか!」と怒鳴り、演説15分前までに全文を日本語に書き直させました。痛快だな。
それから数年は外務省顧問を務めるも、政治における自分の役割は終わったと見極め、政界を引退。経済復興に尽力し、東北電力の会長を皮切りに、再びいくつかの会社の役員や顧問を歴任。晩年は軽井沢に通い、ゴルフやドライブに興じました。
そんな白洲さんを僕が知ったのは、今から25年くらい前。編集長を務めていた『LAND ROVER MAGAZIN』というランドローバーの専門誌で、ランドローバー輸入第1号車を探す企画を実行していたときです。調査と取材をお願いしたフリーライターによると、東北電力時代ないしは電源開発のためダム建設を指示していた頃の白洲さんが英国から輸入し、自らハンドルを握っていたという事実にたどり着きました。
そこで、1998年の第10号で巻頭大特集。驚くほどラッキーだったのは、白洲さんの生涯を記した私家版の『風の男』を、新潮社が単行本として発行するタイミングだったこと。それを聞きつけて新潮社を訪ねたら、白洲家から預かった写真を自由に使っていいという許可をもらえました。なので表紙からフル活用。おそらく、二度とできない贅沢でした。
そんなわけで久しぶりに白洲次郎特集号を読み返してみたのだけど、記事もデザインもいいんですね。それを自慢したいのではなく、僕らが手本にすべきカッコいい大人がいたことを知ってもらえたらと、そんな思いで白洲さんに触れました。いやまったく、「葬式無用 戒名不用」と書き殴ってこの世を去りたいなあ。アンタが書いても重みがないと呆れられるだろうけど。

秩父宮妃殿下を横に乗せてハンドルを握るのが白洲次郎さん。1954年に撮られた写真を表紙に使わせてもらった今号の特集は、改めて読み返しても自慢の出来です。

 

「いかに死ぬか」

時事の類なので、少し時間を置いてから触れてみることにしました。
一昨日の月曜日、嘱託殺人などの罪に問われた被告医師の第二審判決が出たそうです。裁判所は懲役18年の一審判決を支持。弁護側の控訴も棄却。おそらくこれからも、被告の無罪主張は覆らないと思われます。
2019年11月30日の事件でした。正確な日付は覚えていなかったけれど、この件の第一報を耳にしたとき、深く静かな衝撃を受けたのです。生きる希望を失うほどの難病を患った人が、その絶望から逃れる唯一の方法として、医師に自死を委ねた。これが、僕が最初に知った事件の概要でした。
およそ健康を維持できている僕らが人生について考えるのは、おおむね「いかに生きるか」だと思うんですね。しかし年齢を重ね、たとえば親が逝った歳や、あるいは平均寿命までの距離が近づいてくると、人生の後半には「いかに死ぬか」という、極めて重大な命題のようなものが待ち構えていることを知らされます。
僕の意識がそこに向かうようになったのは、母親の存在でした。事件が起きた時点ですでに完全な高齢者でしたから、そのタイミングでも命題のようなものは頭にちらついていて、母親のこれからにどう寄り添えばいいかを考える時間が増えていました。
だからこそ、件の患者と医師の関係性に心が奪われたのです。大事な人の最期を見届けるのは、家族ではなく医師なのかもしれないショックを新たにしたから。これは、病院で息を引き取った父親の最期に、僕ら家族が誰も立ち会えなかった経験が影響しているのでしょう。
ところが、時間の経過とともに事件の詳細が明らかになっていくと、ある意味では好意的に受け止めてしまった僕の想像を超えた、少なくとも報道の限りでは残念な事実がいくつも浮かび上がってきました。
改めてこの事件に触れて、いろいろな思いが頭を駆け巡っています。その中でひとつ気づいたことがありました。僕は母親を通じて「いかに死ぬか」を知らされたと言いながら、実際は母親を「いかに死なせるか」を考えていた。しかしそれは、命に対してあまりに不遜で傲慢なのではないかと……。
え~と、極めて重大な命題のようなものですから、やはり簡単に答えが出るような話ではありませんね。今日のところは、とっ散らかったまま放り出す勝手をお許しください。

隈 研吾建築コレクション@白馬村。

いくつになっても

「いくつになっても」という言葉で検索してみると、まったく同じ名前の歌が2曲ほど紹介されます。それから著書が2冊。『いくつになっても、「ずっとやりたかったこと」をやりなさい。』と、『いくつになっても恥をかける人になる』。こちらも初見ですが、タイトルだけで今の僕の実感を代弁してくれたようで、うれしくなりました。いつかチャンスがあれば読みたいと思います。
さておき「いくつになっても」で僕が実感しているのは、野球に関して。折に触れ毎週のように野球を楽しんでいる件をお伝えしておりますが、この夏あたりから、ようやくまともな球を投げられるようになりました。
野球に疎い方でも、キャッチボールと聞けば、およそ二人一組で球を投げ合う行為であることはご存じだと思います。父と息子が絆を深める、古典的なコミュニケーション術という理解もあるでしょう。
その、野球の大基本のキャッチボールがヘタクソだった。投げ方の基礎を学んでいない以上に、ミスを繰り返した体験が心に巣食い、人と向き合ったときに恐怖心が先に立つようになったみたいなのです。
「それはスランプか、イップスだね」
現在の優しいチームメイトたちは、そんな言葉をかけてくれました。けれどそれらは、一定以上の技術が身に着いた人が原因不明で陥る不振。僕のヘタクソは、高校卒業と同時に野球部出身の同級生と組んだチームに始まり、それ以降も一切の改善が見られなかった筋金入りなのです。
それを承知していながら数年前に飲み屋仲間と野球を始めても、やっぱりまともに球を投げられなかった。年長者なんで、みな気を遣ったんでしょうね。僕のヘタクソには触れないでいてくれた。そんな空気を察したなら、その先の道は二つ。もう無理と身を引くか。何としても投げて年若の気遣いを解消するか。
そんなこんなで諦めが悪い僕は、独学の末に理想に近づくことができました。数年もかかったのは、やはりヘタクソの芯が図太いのと、残念ながら年齢面の支障があると思います。
それでもとにかく、ようやくそこそこ投げられるようになったのがうれしい。それを確認できて、「いくつになっても」はあるぞと実感した次第です。もうひとつ確かなのは、上達を目指した時点で「いくつ」を気にかけなかったこと。どんなものにも果てがあるにせよ、自分で限界は決めないほうがいいんでしょうね。まるで応援歌の美辞麗句のようですが。
しかし、そういう諦めの悪さって、チームメイトにしたらタチが悪いってことになるのかな。だとしたら、ごめん。そこも何も言わずに付き合ってください。

引き続き白馬ストック。1週間経っているから、赤と白のバランスは変わっているんだろうな。

有難迷惑な振り返り

あなたの元にもYouTubeからこんなメールが届くのでしょうか。『お待たせしました! 2024年のMusicのハイライトをお届けします』。こういうの、1年の振り返りを煽られるようで、なかなかに有難迷惑なんだよな。
とか言いつつ、ついうっかり開けてしまうわけです。音楽の合計再生時間は963分。単位を直すと、16時間3分。SNS全盛時代の平均値よりは少ない気がするけれど、どうなんですかね。
次いで知らされたのが、『2024年に一番よく聴いた曲は…』。表示された上位3曲のうち、第1位は別クリックで判明するという、ついうっかり頭の中でドラムロールを鳴らしてしまうご丁寧な仕組でした。
これ、発表します(って、ノリノリじゃん)。2024年、我が再生数ナンバーワンソングは、1979年に久保田早紀さんが発表した『異邦人』。ずいぶん古い曲ですが、「へぇ」ってなりました。この歌、今年の1月に仲間内で開いた音楽祭で披露したのです。開催1カ月前の12月、当時小学6年生だった女の子が急遽参加してくれることになり、たぶんお母さんの勧めもあって彼女が選んでくれた歌でした。
こいつはいい! って小躍りしました。12歳の女の子がステージに立つのは、全体の構成に花を添えるぞと。それがあまりに華々しい発見だったため、僕は自分の技量の乏しさを忘れてしまいました。世代的に今でも口ずさめる大ヒット曲ながら、実際にギターでそれっぽい伴奏をするのがしこたま難しかったんです。それで何度もYouTubeに合わせて練習した結果が、今年一番聞いた曲になったみたい。
自分でも予期しなかった事実を突きつけられると、僕はたいがい、芋づる式に恥ずかしい記憶を思い出してしまうのです。繰り返し動画を見て弾きまくったのに、本番ではあそこやここで間違ったとか、そういう嫌なシーンばかりがよみがえる……。
だから迷惑なんです、昔の話は。懐かしさにうっとりすることなんて、ほとんどありません。もちろん、過去の情けない出来事を反復しないための反省は必要だけど、思い出しくもない場面を思い出したときの、取り返しのつかなさに身をよじるもどかしさは、現時点で無駄かつ不要なんじゃないかと。なんて考えだから、同じ失敗を繰り返すのだろうけど。
そんなこんなで今年も1カ月余り。振り返りの扇動に耐えながら、できれば新しい出来事にうつつを抜かしたいと願っております。

この手の装飾も年末感を扇動する主犯格。後ろのオジサンもそうおののいているはず。