折に触れ熊本城

そんなわけで1泊2日の熊本ドサ回りでは、2日目の月曜日に時間をいただき、熊本城を歩いてきました。
大きな勘違いでしたが、前回訪れたのが2019年ではなく2018年だったということで、それから約6年も経てば、あちこちいろいろ変わるのは必然。何しろ天守閣は2021年3月に完全復旧を果たし、昨日は平日の午前中にもかかわらず多くの観光客が訪れていました。
熊本城復旧基本計画では最初に天守閣を直したそうですが、それはやはり正解でしたね。熊本城の、というより熊本市のシンボルが元の姿に戻るのは、被災の辛さを癒すのにとても大事だったのだと思います。

言わずと知れた天守閣。威風堂々です。

一方、天守閣以外の重要個所も復興工事が進んでいるようで、6年前には目の当たりにできた被災の様子が今はうかがえませんでした。たとえば小さな天守閣と呼ぶべき宇土櫓(うとやぐら)は全域に渡って足場が組まれ、内部を確認することはできません。また、見学通路自体が痛んだ場所を避けて設けられているようでもありました。工事優先ということなのでしょう。

観光客がいない裏手に回ると、まだまだ工事が必要なことがわかります。

こちらが宇土櫓。足場が外れるのはいつかしら。

改めて熊本城の歴史をさっくり振り返っておきます。豊臣秀吉の家臣だった戦国武将の加藤清正が、それまであった古い隈本城の再建に着手し、約8年かけて熊本城を新築したのが1607年(慶長十二年)。細川家が領主となった後も城は守られていきます。
存続の危機に直面したのは1873年(明治六年)。時の政府が出した廃城令によって、当時全国に340あった城のほとんどが解体・消失となる中、熊本城は陸軍預かりとなり市民に公開することで存続されました。
それから4年後に起きた西南戦争で西郷軍が攻め入るも、天守や本丸御殿などが焼け落ちただけで城の体裁は維持。西郷さんは「加藤清正公に負けた」とこぼしたそうな。
太平洋戦争時の空襲でも奇跡的に無事。しかし老朽化には逆らえず、1960年(昭和三十五年)に鉄骨・鉄筋コンクリート造りの天守閣がつくられました。

部分的には崩れたまま手つかずの場所もありました。

ゆえに復旧された天守閣は昭和の熊本城とも言えるのだけど、400年以上の歴史を踏まえると、やはり熊本城は特別な存在なんですよね。だから、天守閣以外の多くの建物を含む城全体の再建は、遺産を未来に伝える一大事業となるわけです。
先の熊本城復旧基本計画が定めた期間は35年。すべての終了は2052年度を目指しているそうです。オレ何歳? 90歳か。完成を見届けられなくても、折に触れ気にしていきたいと思います。再び大きな地震が起きないことを祈りつつ。

特にお城好きではないのだけど、やはり何というか、血が騒ぐ建造物ですよね。

 

旅の気分なんだろうと

日曜日からの一泊なので、あえてクルマではなく公共交通機関を選択。私鉄~JR~東京モノレールで羽田空港第2ターミナル。60何番ゲートから搭乗し、約2時間で熊本空港に到着。そこから運賃1000円のリムジンという名のバスで市内へ。

トータルで、玄関を出て5時間半。その間ひとりで遠くの町まで来るというのは、なかなかいいものです。目的があるから孤独ではなく、なおかつ誰かに合わせなくてもいい自由さもあって、こういうのが旅の気分なんだろうと、改めて実感しました。

実は2018年以来の熊本。雨だったけれど空気は温くて、懐かしさに心がゆるんでおります。

いわば九州のヘソなのね。

働く姿

ここのところ、近所でガスや水道の工事が続いています。連続はただの偶然か、もしくは年度末のせいかはさておき、ベランダあたりから眺めていると、やっぱり労働ってそうことだよなと感じ入るのです。疲労を伴う肉体の駆使によって代償を得る行為は、もっともシンプルかつ根源的な働く姿だろうと。それはとてもカッコいいと思うのだけど、どうですか?
高校の同級生の実家は煎餅屋でした。販売ではなく製造が主なので、彼のお父さんは1日中、白い生地を焼き続けていたのです。火に向かうので、夏は言うに及ばず、真冬でさえ大汗をかきながら。そんな、かつての下町でよく見られた家内制手工業の見本みたいな家に遊びに行くと、僕らもお父さんの仕事ぶりを飽きずに眺めていました。ウソです。ちょっとだけ見て、焼き立ての煎餅をもらって、すぐにもんじゃ屋に走ったんだ。
それに付き合っていたそこんちの同級生は、自分も職人になる誓いを立てました。煎餅屋を継がなかったのは、お父さんに職業の先行き不安を告げられたからだったか。いずれにせよ、与えられた仕事を黙々とこなし続ける父の姿に感化されたのは間違いなく、「俺も父ちゃんみたいになりたいんだ」と言ったときの、彼の真剣な表情は今も忘れられません。その姿もカッコいいなあと思ったんです。そうして彼は、鞄づくりの職人になりました。
そんなふうに家族が汗水垂らして働く姿を見られるのは、どちらかと言えば珍しいケースになるのでしょう。けれど授業参観があるように、労働参観の機会がもっと増えてもいいのではないでしょうか。もちろん肉体労働だけが仕事ではなく、頭脳や精神を駆使する仕事であっても、近しい人が日々いかに働いているかを知るのは、百の言葉より芯に響くと思うのだけど、どうだろう。
そう書いてみて、では自分の仕事は見るに堪えるかを考えてみると、何かパッとしないんですよね。原稿書きなんて机の前から動かないし、気持ちを安定させるため空調を整えるから汗もかかない。ならばと出来上がった原稿をその場で読ませるのも、ねぇ。この仕事の見栄えに意識を向けてみると、何かを伝えたい欲求は根源的なものであれ、働く姿がカッコいいとは言えません。やっているほうは好きだからいいんだけれど。

このフォーメーションは2時間足らずで終了。手慣れ具合もカッコよかった。

 

初動

いずれにせよ大谷翔平選手の結婚報告に関する展開は、極めて優れた初動対応のお手本だと思います。
野球と添い遂げるとさえ思われた彼がいきなり結婚を伝えたのは、それでなくても注目を集める新チームへの移籍を果たし、ユニフォームを着て活動を始めた直後。本戦が始まる前だったのは、「ここで発表するからシーズン中は邪魔しないで」という強力なメッセージが込められていたのは明らかでしょう。
すると周囲は、相手の特定に走ります。確定を叫んだ情報はすぐに出回りました。それをYouTubeで見た僕も下世話な一人です。そんな世間の反応を予測していたのか、今季開幕戦が行われる韓国へ飛び立つアメリカの空港で撮った妻との写真を公開。なおかつ韓国の空港では、待ち受ける大勢の報道陣やファンの前に妻と並んで登場。ってもう、無駄にざわつく世間を抑え込む先手の打ち方が鮮やかすぎました。こんな流れを見せられたら、これ以上詮索する気は起きなくなるでしょう。よく練り込んだシナリオがあったようにも思います。
そうしておめでたいことであれば、最善の初動を計画的に遂行しやすくなるかもしれません。しかし、決しておめでたくない不祥事や失敗の類に直面したときは、初動を間違ってしまうことが少なくないはずです。
特に、降って湧いたような突発的な事象においては、説明する側にしても事態の全容をつかむのに時間がかかります。けれど、それによって迷惑を被る側は、最適な初動を準備する余裕すら許さず、「それでもとにかく何か話せ」と迫るでしょう。その場で説明責任者が自分も被害者のように語ったりすれば、信頼回復に多くの時間を要する結果を招きかねません。
でも、何であれネガティブな状況に遭遇すれば、誰だって慌てますよね。そんなつもりがなくても、あまりの驚きで嘘をつぶやいてしまうことだってある。では、どうすれば慌てず焦らず最良の初動を行えるか? おそらく、ネガティブな事象や事態に慣れておくしかないのでしょう。
なんてことを考えたのは、僕自身が初動を間違えた件があったからです。こんなケースに慣れるなんてしんど過ぎるし、二度と失敗はしたくないけれど、あるかもしれない次に向けた経験として生かす他にないのだろうと、神妙に受け入れることにしました。

二階建てグリーン車に憧れて撮ったのか、その辺の記憶が曖昧@東京駅。

コップ理論

「スギにやられたかと思ったら今度はヒノキで、もう大変」なんだそうです。電話口の方はくぐもりながらもクシャクシャした鼻声だったので、何にお困りなのかすぐにわかりました。
日本人の3人に1人は発症しているらしい花粉症。幸いなことに僕は、いまだ3人に2人のほうに属しています。けれど、花粉症でよく聞くコップ理論――体内に蓄積される花粉の量が一定量を超えると発症する説明に沿えば、いかに僕の中のコップ容積が大きかろうと、これだけ生きていればそろそろあふれ出すかもしれません。
ただし、コップ理論は必ずしも正しくないらしいですね。他にシーソー理論があるようです。体内には細菌・ウイルス担当の免役とアレルギー担当の免疫がいて、普段は両者のバランスが保たれているそうな。その平衡状態に花粉が邪魔をすると、アレルギー担当の免役の負担が増し、くしゃみや咳や目のかゆみなどの症状を引き起こすという説明。
そういうウンチクは、深刻な花粉症に悩まされている人にとってどうでもいいことでしょう。「それより花粉を何とかしてほしい!」だろうし、「この辛さがわからんヤツは黙っておけ!」と怒りを買うかもしれない。皮膚方面のアレルギー関連ならそれなりに理解できるのだけど、それを持ち出してもどうになるものでもないですよね。
痛みや苦しみを共感するには、同じ痛みや苦しみを味わう以外にないのでしょうか。たぶん、ないんでしょうね。
話は転じますが、先週の始めくらいから腰が痛み始めました。生活に支障はないし、週末の野球もできたから大丈夫ですが、椅子の座り方に問題があるのかもしれません。そこにもコップ理論が存在していて、悪癖の積み重ねが今になって……。デスクワーク主体の身として腰痛持ちの未来を想像すると、もう大変です。

ローズマリー? 香草の?

EXPOの気分

1970年3月14日は大阪万博の開会式が行われた日。その時点で小学1年生だった僕は、たった7歳ながら時代の大きな転換みたいなものを感じて、かなり興奮したのでした。
当時の空気を知らない世代には、なんのこっちゃわからんと思います。僕にしたって正確につかめてはいなかったのだけど、もはや世の中がどんどんよくなっていく期待は、その辺を走り回っていた鼻水垂れの子供にも実感できたほどでした。とにかく地面からせり上がるような勢いがあった。その象徴が、70年代という新たな時代の始まりとともに開幕した万博だったのです。
僕はこの万博で、おそらくその後に人生に影響する様々な感性を得たと思っています。一つはデザインというもの。万博会場に展開した各国のパビリオンがどれもカッコよく見えて、少年誌に掲載された写真に首っ引きになりながら、必死で絵を描きました。仮設建築ではなかったけれど、岡本太郎さんによる太陽の塔などは、たぶん今でも空で描けるはずです。
日本初の万博はEXPO’70とも呼ばれて、その呼称をすっと記憶したのはもちろん、桜の花びらを想起させる5つの丸い円を用いたシンボルマークも何度も模写しました。物書きになってからは、耳触りがいいだけのカタカナ語を嫌うようになったけれど、7歳のガキはむしろ初耳の言葉に吸い込まれていたわけです。なんかもう、みんなキラキラ、シャラシャラしていたから。
それほど憧れた万博は、その年の9月13日まで183日間に渡って開催されました。けれど僕は、とうとう行けませんでした。最大の障害は距離。千葉に住んでいた僕に大阪は、あまりに遠かった。それゆえ距離に鑑みて、僕から親に「万博に連れていってくれ」とは言えなかったのです。子供ながら、朝から晩まで働き通しだった両親にそんな願いを口にすることはできませんでした。
デザインに興味を持った感性は、大人になってもほぼまっすぐに反映されました。対して距離の障害は、「だからこそ行けなかった場所に行く」という反作用で現れたと思います。取材好きなのはそれが証拠でしょう。
そのあたりを改めて考察してみると、7歳で世の中が変わる期待を感じたものの、少なくとも僕自身はその後も多くの我慢をしたことになるかもしれません。ただ、我慢に気づかないほど、70年代の始まりはあらゆるものを牽引する力に満ちていたように思います。その感じは、バブル期の浮かれ方とも、未来を意味していた21世紀最初の年とも違います。果たして再びEXPOの気分を味わえるかというと、いろいろ知ってしまった今となっては、正直なところ期待薄ではありますが。

ビルの隙間に置かれたこの類のオブジェ。目に留める人はどれほどいるんだろう。

季節の芯

外出するときは、天気予報の1日の気温推移をチェックして着るものを決めます。オシャレに気を遣うというよりは、外気に対する妥当な装備を選ぶ意味合で。それに関して、ここ2回連続で失敗しています。
前にも書いたけれど、今年の冬は記録的に暖かったくせに、今になって寒くするような呆れた仕事ぶりを見せていますよね。そんなこんなで3月になってからも、僕の町では10度に届かない予報が出る日がけっこうありました。それに合わせると、コートにマフラーは必要だろうと思って出かけるわけです。
確かに、外気に触れる場所では冬装備で正解だった。北風が強く吹いた日もあったし。ところが、地下鉄の駅から直通で行けるビルに入ると汗ばんでしまったのです。わりと一生懸命歩くせいかもしれませんが、僕は服を間違えて汗をかくのが大嫌いなんですね。まぁ、判断ミスした自分が悪いので誰も責められないけれど、とにかく室内外の温度差はどうしたもんかと。
2度目の失敗で気づきました。もはや冬の寒さに芯がないからだと。気温は低くても、地上の空気はもはや冬の状態を保てなくなった。つまりは季節の変わり目。ゆえに現在は、冬でも春でもない時期を迎えているのだと。などと書けば大層な発見をしたみたいですが、通勤通学で毎日のように外出されている方なら、もうとっくに気付いていることなんでしょうね。
季節の芯を語るのは肌感覚です。科学的に証明できないかもしれなし、何より個々で異なるから曖昧なものではあるけれど、僕は信じていいリアルな感覚だと思っています。そうして冬でも春でもない時期の3度目の外出は、薄手のコートにして正解でした。それでも出向いた先のオフィスビルでは少しだけ汗をかいたから、ビルの空調に肌感覚を察知する機能がないのかもしれない。わりと新しいのにね。

雨の中で満開を迎えてしまった子がいた。

不適切

不適切、という単語を時折耳にします。最近のテレビドラマでも使われていて、どうやら僕ら世代の受けがいいみたいですが、僕が直近で聞いたのは、若手議員らの懇親会に関するニュースでした。
「露出の多い衣装を着た女性ダンサーを複数招いた会」を開いたのが、政治家にあるまじき不適切な行いだったという件です(いけね、時事を拾ってしまった)。
いろいろ考えてみたのです。何かの会を企画したとき、いわゆる余興の一環として、露出の多い衣装で参加してくれるプロの女性ダンサーを招くのはそんなに悪いことなのでしょうか。それで彼女たちが収入を得られるなら、あるいは適切な依頼と言ってもよいのではないか。
さらに勝手な妄想をすれば、会の企画者の中に、生活に困窮している地元ダンサーの知人がいたとします。その人は、常日頃から彼女たちを救いたいと思っていた。そんなところに中央の議員も来る会が開かれと聞き、これは朗報とダンサーたちに張り切ってもらうよう頼んだという、隠れた美談があったとしたら?
まぁ、それでも違いますね。様々な問題と向き合う政治家の会として間違っていたのは明らかですから。余興が必要だったとしても、他の方法はいくらでもあっただろうし。
不適切とは、配慮が欠けている様子を指します。要するにダメなことなのですが、時や場所や空気感に合わない、または合わせられないから指摘されるわけです。たとえば、葬儀に白いネクタイで参列するのは不適切。でも、慣習を知らないのか、センスの問題かはさておき、白を黒に替えるだけで再び参列することは可能なはず。ゆえに不適切とは、撤回と改善によって許される程度のことではないでしょうか。
いやまぁ、こんな発言も不適切の対象になるでしょうね。
本日何が言いたいかというと、実はダメなことほど興味が沸くし、おもしろいということ。そしてまた、法に触れない程度の不適切なあれやこれは、誰にも見つからずこっそりやらなきゃダメってことです。
話は話題のドラマに逸れます。この番組タイトルの不適切を括弧で括り、『「不適切」にもほどがある』とすると、違った見え方になりませんか。僕の目には、行き過ぎた同調圧力による昨今の狭量さや息苦しさに対する皮肉が浮き彫りになるのだけど、どうでしょう。

日が伸びたことを実感した日曜日の午後5時10分前。

 

僕が見たところでどうなるものでもないけれど

今日の日付に当たると、他のことが考えられなくなります。
2011年の今頃は、各地を取材する映像の仕事をしていました。しかし東日本大震災が起きた直後からは、他の案件も含めてすべてが中断。映像方面が再開したのは4月末でした。その1回目で、これまで取材でお世話になった東北方面の方々を訪ねることにしたのです。
最初に向かったのは、福島県二本松市のエビスサーキット。クルマやオートバイのレースを行う、山の中腹に設けられた専用施設です。コース脇の斜面の至るところで起きた地滑りも、アスファルトの方々で見受けられた亀裂や波打ちも、3月11日のままでした。
「再建の目途は立たないね」とつぶやいたオーナーに教えてもらったのが、サーキットからかすかに見える原発の位置。ここには何度も来ているのに、それがある場所を確認したのは初めてでした。
大きな地震から1カ月半。やはり余所者は、深刻な被災を目の前にして妥当な言葉が見つけられません。しかし件のオーナーはこう言ってくれたのです。「物見遊山でもいいから、実情を見ていって」
その言葉に支えられるようにして、僕らは北にクルマを走らせました。向かったのは宮城県名取市。仙台空港のある街です。東北道を降りて仙台市内を通っている最中は、特にこれといった震災による変化は見られませんでした。ところが名取市に入り、仙台東部道路の下を抜けたあたりで景色は一変します。
何もありませんでした。正確に言えば、ちょっと高い鉄筋の建物や、そこにあるはずがない漁船や、かつて住宅街があったと思しき家々の土台だけは残っていました。あるいは、家族写真が納まっていそうなアルバムや、小学生の体操着など、かつてそこにあった生活の営みも地面に張り付くという異様な形で示されていた。けれど、何もかもごっそりなくなっていたという他にない、それは僕の人生で初めて体感した絶望の光景でした。
今思うのは、二本松市と名取市のその後です。あれからの13年間で一度も再訪を果たしていません。僕が行ったところでどうなるものではないけれど、こうして何かを書く仕事をしている以上、折に触れ伝える義務があると考えるなら、無関心でいてはいけないと。
近々、熊本に行きます。この街も、2016年4月14日から16日の間に発生した7回の震度6弱以上の地震で大きな被害を受けました。僕が前回訪れたのは2019年の夏。その際は再び物見遊山という言葉に支えながら、広い熊本城を1周してみたのです。ここもまた、震災から3年が経っても地震直後の状況が至るところに残っていました。今回も、できれば時間をかけて歩いてみるつもりです。僕が見たところでどうなるものでもないけれど。

指の先には夜しかなかったけれど、彼にしか見えないものがあるのかもしれない。

 

救いの詩人

3月10日は、1930年(昭和五年)に26歳で亡くなった金子みすゞさんの命日です。僕がこの童謡詩人を知ったのは、13年前の3.11から少し経ってテレビで繰り返し流れたCMでした。「こだまでしょうか、いいえ、誰でも」の一節は、覚えている方も多いと思います。
何だかとても染みたのです。当時の僕は震源地から遠く離れたところにいて、だから被災の具体的な深刻さなどわからなかったのに、たぶんそれなりに心が痛んでいたのかもしれません。普段はそこまでテレビCMに感化されることがないから。
そうして僕の町あたりでも日常が戻り始め、件のCMをあまり見かけなくなった頃、本屋で金子みすゞさんの作品集を買い込みました。童謡のための詩を書く作家なので、言葉に音が乗ることを想定していたにせよ、全体的に青みがかった霞のような物悲しさを覚えました。優しい言葉を選んでいるのに、常に冷静で客観的な視点が保たれているからか。または読み手の僕自身に、自然災害による心理的バイアスがかかっていたせいかもしれません。
それからまたしばらくして――おそらく6月だったと思いますが、再開した仕事の中で、みすゞさんの生まれ故郷に行く計画を立てました。作品に感じた青みがかった霞の意味と理由を知りたいという個人的な思惑を伏せて。
かつて捕鯨で栄えた、山口県長門市の仙崎という港町。漁の往時は、捕獲した鯨の過去帳を寺に納める慣わしがあったそうです。そんな供養を絶やさなかった漁師村の人々の、命に向けた畏怖と感謝の念は、間違いなくみすゞさんの感性に大きな影響を与えたはずです。
そして何よりも、みすゞさんが暮らした日々から90年以上が過ぎていても、仙崎には言葉で表しようのない心地よい気が流れていました。初めての場所で、ここまで穏やかな心持ちになった経験はなかった。だからこんなことを思ったのです。
みすゞさんの詩は救済の調べなのか? それはさすがに短絡的な考えだったけれど、3.11をきっかけにしたこともあり、金子みすゞという人に救われた思いを感じたのは確かです。
あえて詳細は省きますが、自ら命を絶つ残酷な人生ではなく、もっと健やかに生きて、より多くの詩を残してくれていたらと。今日はそういう無念さを忍ぶ日でもあります。

いつかの夕日。または、いつもの夕日。