意固地な日焼け

先週末は、久しぶりにアウトドア3連発でした。金曜日は午前中から夕方まで宮下公園、じゃなくてMIYASHITA PARKで新車の発表会。会場が屋上の芝生ひろばと呼ばれるスペースで、昔より高い位置になったせいか、日差しが一段と強かったです。
土曜日は、関越道東松山ICからクルマで約15分のビール工場内での音楽フェス。確か5月としては記録的な暑さだったにもかかわらず、これまた日差しを遮るものがほとんどない広場でした。
そして昨日の日曜日は、金曜日の新車発表会に関連するMIYASHITA PARKのイベントを昼過ぎまで取材したあと、ビール工場内音楽フェスの2日目へ。東京から埼玉あたりは曇りがちだったので、日差しや気温にひぃひぃ言うことはなかったです。いずれにせよ、どのイベントもうんと前から屋外で開くことが決まっていたので、関係者の皆さんは晴天に感謝されたと思います。
僕も感謝しました。ここが日焼けのチャンスと思ったから。毎年5月くらいにアウトドアでの取材があって、そこで一足早く夏仕様の自分になるのが楽しみなのです。
今時日焼けが流行らないのはよくわかっています。風邪の予防になるというのは古い迷信らしいし、紫外線の類が体によくないという研究結果もよく目にします。悩ましいことに、光老化なんて現象もあるらしい。長年紫外線を浴び続けると、肌に生じた活性酸素のダメージが蓄積されて、肌の老化が進むんだそうです。シミや深い皺やたるみをつくるだけでなく、白髪や白内障、皮膚ガンまでも……。
それが客観的事実なんだろうと思います。だけど、これからやって来る半袖短パンの時期に白い肌というのが、どうにもしっくりこないんですよね。あくまで個人の主観であり、これだけ語られている健康被害を無視する阿呆の考えに過ぎません。ただ、こういう自分でいたいという意固地が僕を日焼けに導くのです。
飲み仲間にアフリカ系アメリカ人がいて、彼がよく自分の腕と僕の腕をくらべながら、こんなことを言うのです。「黒人の僕より黒いんじゃないの?」。ジョークなんだろうけど、返し方がわからないですよね。ちょっと面倒臭いので、今年は彼より黒くなってやろうと思っています。いやいや、それでまた意固地が膨らむのも大人げないよな。

あの麦わらのでっかい束。大人も乗ってみたいはずだよね。

深刻に考えない母の日

「私もついにボケたねぇ」
そんなことを母親は、例によって電話でカラカラと言い放ってきます。カラカラは明るい響きのオノマトペ。なので言葉尻を真に受けないようにするのだけど、ひとまず老人の発言なので、軽く身構えたりはします。
「わざわざ銀行まで行って、通帳を忘れちゃうんだから困るよねぇ」
どうやら前の日に、外出で済ますべき用事を細かくメモしておきながら、当日の出がけに別のことに気を取られて、それで通帳を持ちそびれたらしい。
確かにボケてはいます。本人がどう思っているかわかりませんが、昔からおっちょこちょいなところは多分にありました。あるいはさすがに高齢なので、認知症が始まっている可能性を完全には否定できません。
ただ、あくまで勝手な判断ながら、通帳を忘れてしまった原因を正しくつかみ、ミスを後悔した上で笑い飛ばしているうちは、それほど深刻に受け止めないでおこうと思っています。僕にしても、加齢によって起きるいくつかの情けなさを本気で情けないと悔やんでしまえば、ひたすらしんどくなるからです。それに、本人は笑い話にしたいのに周囲が真顔で心配したら、当人が不安に駆られてしまうだろうから。とは言え、そうした猶予がいつまで続くかは、さりげなくも注意深く見守らなければならないと思いますが。
さておき、今日は母の日。今はどうか知りませんが、僕が小学生の頃は、お母さんが生きているなら赤いカーネーションを。お母さんが亡くなっているなら白いカーネーションを贈ると教わりました。実際に白組だった同級生がいたりすると、それとなくクラスが無言のざわつきを見せて、ずいぶん残酷な区別をするもんだと子供ながらに悩んだものです。
色分けの正式な理由はわかりませんが、アメリカの母の日の起源とされる行事で、亡き母を偲んだ娘が、母が好きだった白いカーネーションを参加者に配ったらしいんですね。それが後々の色分けに紐づいたところがあるような。何にせよ型は大事ですが、母が好きな花なら何でもいいんじゃないかと思うのは罰当たりでしょうか。
いやいや、罰当たりを続けているのは、母の日に何も贈らず今日まで来ている僕です。だからと言って突然赤いカーネーションを届けたりすれば、驚いた拍子に体調を崩すかもしれません。何もしないことが定番なら、それを深刻に考えないのも大事だろうと、そうして今年の母の日も何事もなく過ぎていくのだと思います。

カーネーションよりバラが好きなお母さんもいらっしゃるでしょう。

弱り目に祟り目

弱り目に祟り目? いや、泣き面に蜂。あるいは、踏んだり蹴ったり……。ふむ、どれもふさわしいようでいて何か違って感じるのは、偶発的不運の連続ではないと思うからです。
部屋の鍵をなくしました。見当たらずに焦ったのは、近所まで買い物に出ようとしたときです。つまり僕は部屋の中にいた。ということは、最後に出かけて戻った昨日の午後、僕は鍵を開けて部屋に入ったわけです。となれば鍵は、この部屋から外には出ていないはず。なのに、どこを探しても見つからない。狭いと評すべきささやかなスペースなのに。
大事なものは、常に置き場所を定めておけばいい。その通り。普段は、自宅に戻ったら机の隅に置くようにしています。クルマの鍵も同様。なのでたいがいは、机上が散乱していてもその中からカチャカチャと現れてくれます。
しかし今回に限り、最後に机の上に置いた映像記憶がない。ふとよみがえったのは、最後の外出から戻った瞬間の様子でした。たぶんちゃんと部屋の鍵を開けて下駄箱まで入り、一抱えの荷物を近くのテーブルの上に投げ出した。その刹那、意識の中では「あ、鍵」とつぶやいたんじゃなかったか。ただ、意識下の文言をもう一度なぞるようにして鍵の在りかを確認しなかった。
敗因はそれ。とは言え室内の出来事だから、本格的かつ本質的に消え去るはずはない。そういう思いが焦りを募らせていきます。今日だって出かけなくちゃいけないのに。
結局のところ大家さんに連絡し、マスターキーの合鍵をつくるのではなく、シリンダーから全交換してもらいました。親切な方だと知っているので、こんなことでお手間を取らせたくなかったです。
そんなわけで、このあと従来の鍵が見つかったところで使うことはできません。なのに、死んだ子の齢を数えると言えばよくないか、割った茶碗を継いでみるというか、いまだに古い鍵が気になって仕方ないのです。この町に住んだときから使っているキーホルダーだったなあとか、昨年の夏に手放したオートバイのオリジナルキーもつながっていたなあとか。
そういう思い出が、紛失に連鎖する弱り目に祟り目なんでしょうね。特に根拠はないけれど、しばらくしたらふっと出てくるような気がするんです。冷蔵庫からとか。まぁ、そこもくまなく捜索しましたが。

アルファベット表記になってからのMIYASHITA PARK。初めて行きました。よいところね。

愛鳥

本日5月10日から16日まで愛鳥週間。野鳥保護思想普及のために鳥類保護連絡協議会が設けたそうです。って言われても、ピンときませんよね。僕にしてもそうですが、記憶の中ではささやかな接点が無きにしも非ず。
小学6年生のとき、飼育部に入りました。その当時はセキセイインコを飼っていて、近所の小さなペットショップにもよく出入りしていたので、それとなく飼育に興味があったのかもしれません。そんなわけで部員としては、愛鳥週間に何かを企画しなければならなかった。けれどたぶん、自作のポスターをつくって校内に貼った程度だったと思います。それがどんな効果を挙げたかはまったく覚えていません。
さておき、最初に飼ったセキセイインコは、10年を越える長寿でした。借家住まいなので犬猫とは無縁。ペットと言えば金魚が関の山だったので、肩や手にとまるそれは生物のぬくもりに満ちた、本当に愛しい存在でした。それゆえ愛鳥という言葉に触れると、あの黄色に緑が混じったダミ声のインコを思い出します。僕より父親に慣れていたのは、ずっと癪だったけれど。
いやいや、愛鳥週間は野性の鳥向けだった。
4月末のニュースですが、千葉県野田市ではコウノトリの自然界における繁殖が確認できたそうです。両翼を広げると2メートルに達する国の特別天然記念物なので、野生化に努めてきた方々にすればうれしい限りだと思います。
他方、ウチのベランダあたりから毎日見かけるのはカラス。次いでスズメ。池の公園まで行けば、水辺に集まる野生の鳥が何種か確認できます。意外なのはオウムの類。大学の森を根城にしているらしく、けっこうな数の群れで生息しているようです。あれほど鮮やかなグリーンが日本固有種のはずはなく、目に入った瞬間なかなかの違和感を覚えますが、飼われていたものが逃げ出したか追い払われたかで野生化したのでしょう。すべては人間の仕業。この1週間を機会に、それも愛する心を持ちたいと思います。

右折車線の高架下に、なぜか造花。自然じゃないものって、不自然が際立つなあって。

何でも当事者になるのも

メジャーリーグが開幕してから、午前中はほぼ毎日ドジャーズの試合を見るのが習慣になっています。大谷翔平さんが気になるから仕方ないのだけれど、弊害がないわけではありません。最大の懸念は、前夜を含めた、その日そこまでの世間の情報を知るのが遅れること。まぁ、試合の録画やライブ中継を見た後で知ったところで、実質的な問題は起きたりはしないんだけど。などという呑気さは、まさに高を括った悪い見本でした。
昨日のライブ中継の合間、先発の山本由伸投手も大谷選手も画面に映らないタイミングで他局のニュース番組にチャンネルを移したら、食品の異物混入報道が飛び込んできました。これがまた僕が好んで買う食パンブランド。「さっき朝飯で食べちゃったじゃん!」と声が出るほど驚いて、慌ててネットで調べたら、ブランドは同一ながら製品が違っていました。生産ラインも異なるらしいので、たぶん僕の食パンは大丈夫だと思うけれど。
何にせよ、テレビやネットで伝えられる事件や事故は、なぜか遠くでき起きているように感じがちです。それはおそらく、すぐ近くで事件や事故が起きていない幸運の連続がもたらす危機感の喪失に他なりません。だからできるだけ、数少ない自分の経験をもとに、実際の被害に遭っている方々の大変さを想像しようと努める。けれどやはり、想像は現実に勝てません。
ここのところは、当事者になったからこそわかる心情の変化に触れています。いやまったく、「そうらしい」と「そうだ」は完全に別物ですね。他者を思いやるなら、あれこれ経験しておいたほうがより親身になれるのでしょうが、かと言って何でも当事者になるのも、なかなかしんどいものですね。
さておき僕の食パン。袋の中をのぞいた限り異常は確認できず。でも、どうしたものだろう。

雨の日に履くべき靴は、完全に濡れないか、濡れていもいいかの二者択一。

当事者の気持ち

1年前の今日は、新型コロナが季節性インフルエンザ等と同様の5類に変更された日。これを持って外出時のマスク着用は個人の判断に託され、2020年に始まったコロナ禍の終幕と受け止められました。
この件に関しては、当初から何かしら書くつもりでいました。それまでとそれからで変わった気分の記憶とか。しかし、まさかこのタイミングで感染すると思っておらず、よって現在の気分は大きく変わってしまいました。
医師から指示された自宅待機期間が終わり、食料など調達せねばならないので買い物に出るわけですが、誰かに害を及ぼさないため積極的にマスクを装着しようとしたのは、おそらく人生初かもしれません。インフルエンザが流行しても無視してきたし、あるいはコロナ禍であっても、手軽な感染予防として利用したけれど、どちらかと言えば世間に同調する措置として取り入れた感が強かったと思います。元より自宅仕事なので、マスクをつけている時間も短かったし。
そうして街に出てみると、マスクをされている方がけっこういることに気づかされます。いや、何となく目に入ってくるというより、装着率を自ら確認しにいっていると言うべきですね。この時期にマスクをしている自分が変に見えないか心配になって。
そこでこんなことを思うのです。大方は予防でマスクをされているのだろうけど、中には僕と同じ事情の人がいるかもしれないと。
気分や心情の変化に伴って、新たに気にし始めたのが、新型コロナの定点把握データです。5月7日に速報値が発表されました。東京都は前週から0.38人減の2.39人。全国も0.42人減の3.22人。以上は4月22日(月)から4月28日(日)の平均値なので、都の場合は約400の指定医療機関数、全国なら同様に約5000を掛けると、1日当たりの概算実数が見えてきます。
ちなみに、僕が行ったクリニックが指定医療機関かどうかは不明ながら、5月2日(木)に診てもらったので、僕の結果が速報値には含まれるのは来週になりそうです。数字に名前はないけれど、たぶん気になってチェックするはずです。不謹慎と叱られそうですが、当事者になってみないとわからないことは多いというのが、今の偽らざる気持ちです。

連休明けでいきなり嵐みたいな天気。厳しい現実を突きつける気?

 

粉もん

今日は、『コナモンの日』だそうです。片仮名だと、くまモンやピグモンの同類っぽいですが、「粉もん」と書けば間違うことはなさそうです。5月7日の語呂合わせなんだろうね。けれど、コナコーヒーの日ではないらしい。
僕はこの言葉、大人になってから知った記憶があります。関西方面の表現ですよね。おそらく小麦粉を原料にした、お好み焼きやたこ焼きの類を指していると考えて間違いないでしょう。極めて庶民的な食べ物を、自虐的愛情に包む感情が見え隠れして、僕は好きな言葉です。
そういう感覚からすると、粉もんの拡大解釈など聞きたくないと思いますが、小麦粉を始めとする穀物を挽いた粉を加工して食べることを粉食と呼ぶそうです。ちなみに、お米のように穀物を粒のまま食べるのは粒食。日本人は好奇心旺盛なので、どちらも主食にできます。
さておき、粉の加工品となると、かなり多くの食品が粉食、というより粉もんの傘下に入ることになりそうです。麺類は、ほぼ粉もん一家。イタリア発のパスタもそうだし、非小麦粉なので別に思える蕎麦も同族。ただし、関西人ではない僕が言うのもナニですが、個人的に原料たる小麦粉の白さが残っている食べ物こそ粉もんと認めたい感覚があります。
うどんは、その代表格ですよね。僕は蕎麦好きなので、滅多にうどんを口にしないのだけど、讃岐でうどんを食べたときは、それまでの行いを反省したほどでした。あの美味しさに対して良心的すぎる価格にも驚いたなあ。お会計担当のお兄さんは、レジ前に立ちながら、腰を出すためにひたすら生地を踏み続けていました。そういうたゆまぬ努力に粉もんの底力を感じたんですよね。
それから、明石の卵焼。これも地元でいただいたのだけど、わざわざだし汁にくぐらせる手間に感動しました。それで気づかされたんです。関西の粉もんは、実は出汁文化の上に成り立っているのだと。
ならば関西に対抗できる関東の粉もんは何かと探してみて、ひとつ見つけました。僕は、ちくわぶが好きです。でも、全国的な理解は得らないでしょう。おでん以外で活躍しているのをあまり見たことがないし。あるいは関西出身者の中には、いまだ存在を認めていない人が多いみたいだし。けれど、ひとつの国の中にも食の文化圏の違いがあるのは豊かさの証だと思うのですが、いかがでしょう。

この連休は、ずっとお天気がよかった。

 

ウィズ……

今日はもう、ほぼ愚痴なので、読み飛ばしてもらってけっこうです。
そんなわけで新型コロナと診断されたものの、発熱に悩んだのは二晩だけ。いただいたお薬を飲んだらすぐに熱は下がり体調も戻り、医師から指定された自宅待機期間もついに昨日で終わりました。しかし、この感染症の面倒臭さはここから始まるみたいです。
ウイルスを排出する期間は、個人差はあるものの、発症2日前から発症後7~10日間。僕は4月30日(火)に発熱したので、今週半ばまでは歩く感染源の可能性を秘めているわけです。
それだけに、こんなに天気がいいからランニングしたくても、あるいは今日の午後から野球の練習があろうとも、すべて自主的に断念しなければなりません。よく知っている人はもちろん、ただすれ違う人であっても他者の健康を脅かしてはならないから。
ふと思いました。今回、もし僕が発熱初期段階で市販の解熱剤を服用して平熱に戻ったら、「治った、ラッキー」でごく普通に誰かと会っていたかもしれないと。あるいは僕が感染したのも、すでに感染していたどこかの誰かの「ラッキー」が原因だったのかなあと。
その不特定の「ラッキー」は責められませんね。この病気が重症化し難くなったのは何よりだし、それで危機意識が低下するのも止む無しです。僕だってマスクはしていなかったわけだし。そこで実感したのが、これがコロナ禍に望まれたウィズ・コロナなんだということでした。その当時は、そんな時代が来るのかと訝しがったんですけれどね。
よくよく考えてみると、僕らは病気以外にもたくさんのウィズを許容しなければなりません。ウィズ雑な指示とか、ウィズ乱暴運転の自転車とか、ウィズ無慈悲な自然災害とか、数え上げたらきりがなくなるな。それでも病気よりはいいやと思って、みな同じ場所での共存に耐えていくのでしょう。けれどやっぱり、迷惑なものは遠ざけたいのが本音です。
いよいよ何を言っているのかわからなくなってきました。それほどに感染症が招いたウィズ退屈は厄介だと、そういう話です。

ギターの素敵な貝細工を眺めて過ごす。これがけっこう退屈を食ってくれる。

元子供の観点に立つ他にない

男子の成長を祈願するため様々な行事を行っていたのが、旧暦の五月五日の端午の節句。それが「こどもの日」の起源。この日を祝日に定めた1948年7月20日公布の「国民の祝日に関する法律」によると、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨なんだそうです。
「いやいや、今時なら母親だけに感謝するとか言っちゃダメでしょ。両親もNG。そもそも、人格や幸福の定義を説明しないまま重んじろだの、はかれだのと文字にすれば他人事みたいになっちゃうのに。結局、いつの時代も大人は子供に対して何もわかっちゃいない」
というような、いつの時代の大人が聞いても生意気に聞こえる発言を、僕が現代を生きる子供だったら、誰にも聞かれない場所でつぶやくかもしれません。え~と、ちょっとだけウソです。ここまで饒舌には語れないですね。大人との会話で対等に渡り合える語彙を、まだ持ち得ていないだろうから。
けれど適切な言葉は知らなくても、10歳あたりともなれば適当な感覚が発達していると思うんですね。何が正しくて何が間違っているか。あるいは正誤を逆手に取って、どうすれば気に入られるか嫌われるかも、10歳なりにわかるようになる。
以上は、へそ曲がりな子供だった僕の持論です。しかし僕だけではなく、元子供だった多くの大人も昔の記憶をたどれば、似たような感覚で周囲を見渡していたんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。
何が言いたいかというと、人間の成長過程にある子供も、多くの事柄を感じ取っているはず、ということです。一定の成熟に達した大人と同等か、場合によっては感性のキャパに余裕がある分だけ大人以上に。
ただ、経験に要する時間量が圧倒的に少ないから、論理的な表現方法が身に着いていない。ゆえに感情が先走ってしまう。気持ちが昂って泣くしかできないというのは、そういう状況を指すのでしょう。それを大人たちは幼いと揶揄する。でも、子供がもっとも嫌うのは、幼稚とか子供っぽいと言われることじゃないでしょうか。それは大人になっても嫌だから、人間全般において「幼い」は耐えがたい侮辱に当たるのかもしれません。
すべて個人の意見です。勝手なことを申してすみません。「こどもの日」について考えるとき、子育て経験のない僕は、元子供の観点に立つ他にないなあと思うだけなのです。

この道が真西に向かって伸びていることがわかる瞬間。

2.77/1108

逃げ切れると思い込んでいた感染症に追いつかれてしまったのは、なかなかのショックであります。しかし、こうならなければ実感できないこともあるので、タダでは転ばずにいようと思います。
完全防護服なので表情はうかがえなかったもの、声は優しかった医師が告げた「ここに来て、また増えているんですよね」という言葉が気になって、直近の新型コロナ感染者数を調べてみました。
4月26日に発表された、僕が住む東京都の“ぱっと見”の数字は2.77人。ちなみに全国平均は3.64人。「そんなに少ないの?」と思ってよくよく確認したら、定点把握による数値という説明がありました。
定点把握とは、「1週間に確認された、特定の1医療機関あたりの感染者数の平均値」。特定医療機関は全国で約5000カ所。東京都は約400カ所。2023年5月8日に新型コロナが5類に移行されたのに伴い、それまでの全数把握から切り替えられたそうです。この段になって、そういうニュースがあったことをようやく思い出しました。
感染傾向を判断する指標になるらしい定点把握ですが、実数がわかりづらいので、勝手に計算してみました。4月26日発表の2.77人に、都内の特定医療機関数400カ所を掛けてみると、1108人。同じ方式による全国数は、全国平均3.64人×特定医療機関5000カ所=1万8200人となります。
以上の数字を、2023年5月8日発表の全数把握の感染者数とくらべてみます。東京都は1331人。全国は9310人。なるほど、人間が決まり事を変えても、ウィルスの感染力はさほど変わっていないんですね。これじゃ医師も完全防護服を脱ぐことはできないでしょう。
「それでも、かつてほど重症化し難くなりましたから」
これも優しい声の医師の言葉です。その響きをなぞるように、幸いにして発熱以外の症状はほとんどなく、すでに安定的に平熱に戻っているので、ほどなく全快するはずです。ただ、5日まで外出を控えるよう釘を刺されたのは、現在の自分が歩く感染源になるから。このゴールデンウィークの楽しい予定を断念された方も少なくないと思います。今の僕なら、とてもリアルにその胸中をお察しできます。

外出できないので、いつかの風景を@お茶の水橋。