映画の日に映画を語る資格はない

今日を映画の日としたのは、わりと古めの史実が由来になっているそうです。
今から127年前の1896年11月25日から12月1日、神戸の神港倶楽部で日本初の映画上映会が開催。その60年後の1956年。上映会最終日に切りの良さを感じたのか、映画産業団体連合会が記念日に制定したそうな。
この上映会に使われた、かのトーマス・エジソンが発明したキネトスコープという機械は、多くの観客が同時に映画を楽しめる映写機ではなく、木の箱を一人ずつのぞいて動く絵を鑑賞するものでした。それを映画と呼んでいいのかはわかりません。けれど、当時はそれが動画を見るほぼ唯一の装置だとしたら、驚異的な体験と価値をもたらしたのは想像に難くありません。おそらく映画とは、そういうイノベーティブなものなんでしょうね。
いやしかし、映画の日にキネトスコープについて触れるのは逃げと察していただいてかまいません。何にせよ、映画という映像作品は比較的よく観るけれど、映画館に足を運んで一定時間を過ごすという体験をほとんどしていないんですね。少なくとも今年は1回もなかった。それゆえ、寄りによって映画の日に映画を語る資格はないという認識が僕の心根に絡みついているのです
まぁ、面倒臭がりなんです。とにかく上映時間に合わせて出かけるのが苦手。よって自宅で好きなタイミングにじっくり観るほうがいいなと思ってしまう。感情があふれた場合でも、誰もいない部屋なら何も気にしなくていい。僕はそれをメリットとするタイプです。ふと気づいたのだけど、127年前のキネトスコープは僕向きの機械だったかもしれません。
いや、もちろんわかっています。この狭い部屋でごく普通のテレビで観るより、あらゆる点で現在の映画館のほうが素晴らしい鑑賞体験になることは。それに映画作品自体、映画館で上映することを第一義の目的にしているわけだし。
加えて、完成披露試写会が行われたというニュースの中で、出演俳優が「ぜひ映画館でご覧ください」と呼びかけるたび、それが好きな方だった場合には常に心苦しさを覚えます。DVDなりアマゾンプライムで観られるまで待つ僕をどうか許してほしいと、逆に訴えかけたくもなります。
「だから何なんだ?」という話をしております。日付柄、今年のナンバーワン作品などを語りたいところですが、残念ながら思い当たりません。来年の今日こそ、映画館まで出かけたくなる作品に出会たらと期待します。これも身勝手な言い訳だな。

気候のせいなのか、初夏と同じ若い色の葉を生やす緑を見つけました。

より便利な形で

我ながら、よく飽きもせず毎回同じランニングコースを走るもんだと呆れますが、同じだからこそ気づける変化もあるのです。住宅街の一角で工事が始まって、しばらくして更地になって、今度は何が建つのだろうとか、文字にすると地味ですけれど、そういう一連の経緯を眺めるのは案外楽しいんですね。しかし、時に「おや?」という違和感を覚えることがあります。先日がまさにそうでした。
自宅から1キロ当たりの地点にあった材木屋さん。通りに面して細長い材木を何本も立てかけていた、かなり古くからやってらしたと思しき風情のある佇まいでした。突然工事が始まったのが今年の6月半ば。少し目を離したすきに建物の壁がなくなり、木の柱だけが並ぶ、あえて言えば無残な姿になっていました。
その後、いくつもの重機が入って瞬く間に更地となった場所に赤い鉄骨が組まれたのは10月半ば。そのあたりの日付を覚えているのは、変化があるたび写真を撮っていたからです。
躯体を組む鉄骨が現れたとき、僕はこんな期待を寄せました。それまでの建物を一新した材木屋さんができるのだと。だから、今度はどんなふうに通り沿いに材木を並べるのか、ちょっと楽しみにしていたのです。ところが……。
今月の初め以来、久々に走って件の場所に到達したら、これまた突如といった形でコンビニができていました。あまりに想定外の景色だったので、しばし自分の目を疑ったくらいです。材木屋さんがコンビニ? 周囲徒歩5分圏内にはいくつもあるのに、まさかコンビニ?
いやいや、コンビニが悪いわけじゃありません。あるいは現実的に、材木屋さんよりコンビニのほうが地域に貢献できるのかもしれない。だとしても、というのはどこまでも個人的な感想です。
好きだったんです、材木屋さん。比較的近所に昔ながらの商売をされているところがあるのは、僕がこの町を好きになれる理由でもありました。元旦には立てかけた材木にしめ縄飾りを施してくれて、そういう粋な計らいもうれしかった。
そういうものが一つずつ消え、それを何かが埋めていく。より便利な形で。そんなどこの町でも起きているサイクルにいちいち動揺したところで、間もなくコンビニは開店します。おそらく、かつてそこに材木屋さんがあったことなどまるで感じさせないままに。そう思うと寂しい気分が募るんですよね。僕にしたって木の香りをほぼ忘れかけているから余計に切なくなります。

当然ですが、やっぱり材木の香りはしないんですよね。

ジョージ

54年前に解散し、なおかつ4人中2人が鬼籍に入ったにもかかわらず、先頃発表された“最後の新曲”が全英チャートで1位になるなんて、やはりザ・ビートルズは世紀をまたぐ圧倒的な存在なのだと改めて思わされます。
その新曲もジョン・レノンが原型をつくり、最新技術のサポートを受けてポール・マッカトニーが仕上げたそうです。そしてミュージックビデオは、メンバーが若かった頃の映像を巧みに取り入れノスタルジーを感じさせながら、存命中のポールとリンゴ・スターがすでにこの世にいない2人の遺志を受け継ぐような展開を見せます。それもあって、やっぱりジョージ・ハリスンは影が薄かったなあと、これまた定番的な印象が拭えなくなるのです。
「いやいや、ジョージにだって名曲は多いぞ」
このご意見にはもちろん同意します。ザ・ビートルズ時代にジョージがつくった『Here Comes the Sun』は僕が必死で練習した曲なので、個人的なザ・ビートルズのベスト10にはぜひ入れたいと思っています。
ただ、バンド時代に楽曲制作数が少なかった。誰の指示かわかりませんが、どうやら彼に対しては、アルバム収録に1曲から2曲という制限がかけられていたらしいんですね。それから、ギタリストとして思うような演奏もさせてもらえなかったと聞きます。そのあたりが積年の不満となり、実は誰よりもバンドから抜けたがっていたのがジョージらしいと。
彼のエピソードで有名なのは、エリック・クラプトンを始めとする腕利きのミュージシャンをレコーディングに招いたことです。閉鎖傾向に偏るバンドに新風を吹かせたかったのでしょう。
しかしとにかく、ザ・ビートルズはジョンとポールのバンドだった。それは紛うことなき歴史的事実です。じゃ、ジョージじゃなくてもザ・ビートルズは成立したのか? これは誰にもわかりませんよね。僕らはジョージ・ハリスンがいたザ・ビートルズしか知らないわけですから。
ただ、2つの巨大な星に付かず離れず存在した衛星のような彼がいたおかげで、世界中の多くの人はザ・ビートルズに親しみを持てたのではないかと。あるいは、ジョージの役割なら自分でも務められたかもしれないという、淡く身勝手な期待を寄せさせてくれた人でもあったのではないかと、僕はそんなふうに思っています。
今日は、2001年に亡くなったジョージ・ハリスンの命日。58歳はさすがに若かったです。

桜の木って、紅葉というより枯れ感が強いですね。春と違ってカサカサ散っていくし。

空飛ぶクルマ

僕が子供の頃に読んだマンガでも、大人になってから観たSF映画でも、未来都市では空飛ぶクルマが走り回っていました。走り回っていた? 飛び回っていたが正しいのか? いずれにせよ空飛ぶクルマは、理想の未来像にとって必要不可欠なアイテムだったでしょう。
先月の初旬に閉幕した『JAPAN MOBILITY SHOW 2023』でも、数多くの空飛ぶクルマが出品されたそうです。そのほとんどは複数のプロペラで飛ぶ有人ドローン型で、車輪は備えていません。となると、僕の知っているクルマではないのです。エアモビリティと呼ぶのかな。それら別物の展示が増えたから、従来の東京モーターショーから名称を改めたわけだ。
少し前、万博を引き合いにして自分の未来観を話しましたが、すべてが今日よりよくなると信じられた未来像の中で、空飛ぶクルマにだけはあまり興味が及びませんでした。理由はシンプルです。子供の頃から高所恐怖症だったから。僕にとって高いところは、「落ちたら死ぬ」という怖さに全身が支配される場所です。それゆえ今でも足を踏み入れたくないし、クルマであるなら地面にタイヤをつけていてほしいと思うのです。
何しろクルマは、海や河川を跨ぐ橋の上や切り立った崖を縫う山道などではない限り、落下の危険性は極めて低い。仮に追突事故が起きても、あるいは機械的トラブルでエンジンが止まっても、ひとまず地上に留まれる。じゃ、空飛ぶクルマは? そんなことを考えたら乗れないんですよね。
しかし、個人的な事情にお構いなく未来はやってくるのでしょう。相応のインフラとルールを整え、かつてクルマだったものが空を飛ぶ明日。それが叶えば、駐車場は建物の最上階に設けられるんだろうね。そこからすっと街に出る。その行為自体が僕には無理っぽいのですが、地を行くクルマでも開発が進められている自動運転は、空を飛ぶほうが実現に近いかもしれません。ならば膝の悪い母親が僕の部屋まで一人で来ることもできるのか……。
果たして空飛ぶクルマの一般実用化は、または旧来のクルマの自動運転化はいつか?
話は少し逸れますが、首都高速の環状線が地下化され、日本橋の上に空が広がるのは2040年だそうです。そういうニュースを耳にするたび、自分の未来観が変わる実感を覚えます。何しろ17年後なので、まずは「この世に留まっていられるか?」という疑問が頭に浮かんでしまうようになりました。未来から除外されていく現実に迫られると、どんなにビビっても空飛ぶクルマを体験しておきたい意地も芽生えてきますね。老害と言われないよう、できるだけ我を張らないようにはしたいですが。

ガソリンスタンド撤去工事。穴を掘ったり池をつくったりしながら粛々と進行中。

 

発言はセンス

ウィキペディアによると、当時の通産相だった池田勇人さんが「中小企業の倒産や自殺もやむを得ない」と衆議院で言い放ったのが1952年11月27日。この発言によって翌日に不信任案の提出と可決が行われ、2日後の29日には通産相を辞任することになったそうです。
明治生まれの池田勇人さんは、終戦後に政界に入り、1960年には内閣総理大臣にまでなったので、おそらく政治家として実力があった方だと思います。しかし、世間を騒がす暴言も多かったらしいんですね。
通産相の辞任に追い込まれることになった件の発言は、実際には少しニュアンスが違ったようです。けれど新聞記者は響きやすい文言を選ぶのが常なので、発言の中で倒産や自殺といった単語が飛び出せば平気でキリトリを行います。そう言ったのは事実だろうと。
然るべき立場の人の発言は時代に関係なく取り沙汰されます。ついこの間も、「死んだら香典いくら?」と口にしたどこかの町長さんが話題になりました。最近は簡単に録音できますから、もはやニュアンス違いの言い訳が通じませんね。
だから発言には注意しなければならない。それはその通りなのだけど、おそらく後天的な生育環境または言語環境によって、当人は注意しているつもりでも、他人を逆なですることを平気で言ってしまえる人が出てくるのだと思います。特定の環境で培った感覚だけで物を言うわけですから、ある種の世間知らずなのでしょう。
発言はセンスです。どんな言葉を選び、どんな表情と抑揚で伝えるか。つまるところ新聞記者と同じく、人に対する響き方に気を配れるか。それ以前に言葉は響くものだと理解できているか。そこがセンスの良し悪しの分岐点になります。
暴言の類はないまでも、センスに齟齬があるのか、わりとそこら中で会話泥棒と出くわします。気を利かせた誰かがパス回しできるような話題を座に放っても、すべて自分のネタに紐づけて、その場でリフティングを始めてしまう、というような。それでも会話が進んでいると錯覚するんでしょうね。ご本人はたいがい楽し気ですから。いやまぁ、センスも多様だなという話です。

ホームの先端には、どんな駅でも物語が宿るような気がする。そんなことないか。

 

一定のパッケージが地域にはまっていない

ウチからもっとも近いスーパーマーケットが10月に新装開店しました。ビル丸々1棟を建て直す工事に2年半を費やしたので、それなりに期待感があったわけです。しかし、オープンしてからは残念なところばかりが目について……。
まず、店内の導線が不思議。メインの入り口を抜けて最初にそびえるのが、視線を塞ぐような斜めの棚。その意表を突くようなレイアウトによって方向感覚が狂わされます。多くの品数を扱うスーパーマーケットには、おそらく買い物しやすい定石の導線があると思うんですね。それに従えば新しさは出せないかもしれないけれど、買い忘れをしたくない店では斬新より安定を尊重すべきではないでしょうか。他にも斜めの導線が多くて、僕はいまだに迷子になります。
もう一つ困惑しているのは、客自ら商品のバーコードを機械に読み込ませて会計するセルフレジシステム。人員コスト削減または人手不足の解消方法としては理解できます。多くの商店で次々採用されているから、いわばレジの転換期を迎えている最中なのでしょう。
ただ、わりとしょっちゅうバーコードを読んでくれなくなる。それで何度か試していると、そういう状況を予期していたと思しき店員が飛んできて、「最初からお願いします」と言う。そのために人を置くなら旧式のままでよかっただろうと、実はちょっとイラつきます。新式を使いこなせないヤツみたいに思われるのも癪だし。
そのレジに並ぶ導線にはガイドがない。だから会計スペース内に入れない客が整列できないまま通路にあふれる。ピカピカの店内で起こる無秩序。予測できなかったのかな。
導線の酷さは、建物の駐車場の出入り口設定についても言及したいところです。目の前の道路を渋滞しやすくする造りなのですが、くどくなるのでひとまず置きます。
いまだ強く感じるのは、店側の理想と客の事情のギャップです。すべてに初期トラブルは付き物で、互いが慣れれば問題は解消されていくのかもしれない。しかし、新しくなったのに以前より不便という他にありません。ま、2年半の間に利用していた別のスーパーマーケットがあるからいいのだけど。
店側が計画した一定のパッケージが地域にはまっていないんでしょうね。個人的には、1年も経たずに施設内全体の徹底的な見直しが実施されると見ています。慣れる前に変わるって、街づくりとしては失策だと思うのですが、どうでしょう。

季節の色に目を奪われがちになりますね。

 

ミスに対する最良の言葉

集団行動の中で誰かがミスを犯したとき、それをどう受け止めるかで自分という人間の底が知れます。この文脈に添えば、「オレって浅いな」というオチにつながるわけですが。
趣味の中で今もっとも力を入れている野球の話です。先日、試合がありました。今年は10戦くらいしているのかな。そうした対戦に向けて、チームメイトの考えとは違うかもしれないけれど、僕個人は勝敗にこだわらないでいたいと思っています。
結果だけを求めるのは日々の仕事だけで十分。あるいは勝利がすべてに優先してしまえば、経験の少ない者は輪の中に入れなくなる。それよりも、いい大人が少しずつでも上手くなるほうが楽しいし、試合後の酒も美味しくなる。これはヘタクソな自分の勝手な願いでもあります。
ならば負けてもいいのか? そこはちょっと違うんですね。先が読めない展開の中で自分の目の前にボールが飛んで来たら、一人ひとりができ得る最善のプレーに挑む。その気持ちがチームに連鎖したら結果的に勝てるし、挑んでも届かなかったから「今日はオレたちが勝つ日じゃなかった」と気持ちよく諦められる。
しかし、ミスは起きます。ここで言うミスとは、練習では問題なくできたことが試合でできなかったケースを指します。そうなる原因は、およそ消極的な態度です。たかが草野球でも緊張感は募り、体が動かなくなることはよくある。僕もそうなので、毎試合後の一人反省会では極限まで気分が落ちます。でもだからこそ、積極的でありたいと思うんですね。その上での失敗はミスじゃないと割り切りやすくなるから。
でも、消極性起因のミスは起きる。毎試合ほぼ必ず誰かが起こす。その瞬間に??責の声を上げずとも、思わずがっかりしたような態度が表に出てしまいます。一度ならずも二度三度と重なると、自分でも負のオーラの発生を止められなくなる。それもチームに連鎖するので、これまた試合後の一人反省会の筆頭修正課題に挙げられることになります。まあ、このあたりは勝利至上主義のチームなら解決は簡単かもしれません。できない選手は外せばいいだけだから。
明らかなミスを犯して狼狽を隠せずにいる相手(または自分)にかける最良の言葉は何か。いろいろ考えて、今のベストは「さあ練習しよう」。試合のための練習は一人じゃできないし、練習することで皆も上達するし、この言葉でチームの実力と意識が向上したらいいなあと。そういう考え方で自分の精神を底上げしたい期待も寄せています。それに加えて上手くなりたいんだから、なかなか欲張りな話ですね。

「午後5時でこの暗さか」と気づかれる以外は、これと言って特に変わり映えのない夕景。

イチローさんの好きレベル

21日火曜日の話ですが、イチローさんが高校野球女子選抜チームと行った試合のテレビ中継をフルで観ました。今年で3回目で、僕は前の2試合もチェックしています。言うまでもなくイチローさんを見たいのが理由ですが、それ以上に、レジェンドと呼ばれる人が何をしたいのか最後まで見届けたいという、勝手な使命感に背中を押されてしまうのです。
まず、実にイチローさんらしいのは、あまり知られていない高校女子野球選手と対戦するというアイデアです。この取り組みを続けていくことで女子野球に光を当て、毎年行われる試合の出場を目標にする女子野球選手が現れることを願い、つまるところ野球の発展に貢献したいのだろうと思います。
そのために当人が自らに課したのは、投手として先発完投。そして打者としてフル出場。しかし、引退後に現役時代と変わらぬトレーニングを続けても、それはなかなかに無謀な挑戦のようで、今年もまた試合中に怪我をしてしまいました。でも、最後まで投げ抜いた。真剣な表情を崩さず。
一方で皆10代の女子選手は、何かにつけ笑顔がこぼれます。三振してもそう。それはおそらく「いつでも笑顔でプレー」を標榜する現代的スローガンに則った姿勢だと思うのでずが、イチローさんが本気でプレーする様子とは対照的でした。そうした世代間のギャップを目の当たりにすると、イチローさんが道化のように見えたりします。
でもきっと、そんなズレさえ気にしないのがイチローさんなのでしょう。野球とは人生を賭けて本気で取り組むもの。だから自分の名声を単なるエンタメで利用せず、50歳になっても自らプレーすることを望んでいるのではないか。
うろ覚えですが、引退会見でイチローさんは、プロ選手時代に野球が楽しいと感じたことは一度もないと語りました。それもまたストイックな彼らしい発言でしたが、その会見では「ならば野球は好きですか?」という質問がされなかったので、そこはどうなんだろうと思い続けていたんですね。
そうしたら、件の試合の翌日に行われたJK選手たちとの質疑応答で、こんなことを言ったそうです。「今も野球を続けられるのは、野球が好きだから」
やっぱりそうなんだ、などと簡単に安心してはいけないですね。この言葉から新たに生まれた疑問は、イチローさんの好きレベルです。常人には計り知れない度合いであれ、透けて見えるくらいまではと、改めて追いかけてみたくなりました。

撮らずにいられなかった雲たち@ウチのベランダ。

合理的でなければ

「何事も合理的でなければ!」と心に誓ったのは、専門誌の編集に全面的に関わるようになった30代の初めでした。1冊の制作を締め切りまでに完了させるためには、相当な仕事量をこなさなければなりません。最初の頃は、「こんなの絶対間に合わない!」と何度も思いました。
しかし、わずかでも手を付ければ、山のような仕事の一つか二つくらいは片づくはず。だから、頂上を見上げて溜息をつく暇があったら足元に目を落として確実な一歩を踏むこと。
その重要性に気づいたとき、僕は日常のあらゆる行動でも合理化を目指しました。たとえば、この部屋からとなりの部屋に向かうまでの間でこなすべき作業がいくつかあった場合、どの順番でどんな導線をたどれば無駄がないかを考えるわけです。決して大層な作業ではありません。たとえば、畳んだ洗濯物の仕舞い方というような、いわば他愛のない類。それであっても効率を重視する動き方を習慣化しようと心掛けました。
とか言いながら、よく間違えました。いわゆる二度手間の轍を踏む。そんなミスをすると一人部屋の中で「はん!」と叫んでしまいます。それじゃ仕事に生かせないじゃないかと。
そうした合理化を推し進める上では、正論を守らなければなりません。「そんなに上手くいかない」とか「みんなが同じようには動けない」とか、確かに実際の運行では様々な障害や支障が発生し、そのおかげで非合理的な結果を招くケースが多い。それも経験値から理解できる。だからと言って最初から障害や支障で挫けても良しとする曲論や邪論に頼ってしまうと、おそらく締め切りに間に合わなかったり、あるいは間に合わせるためだけのちぐはぐなものしか生み出せない。それはもっとも避けるべき事態です。
だからこそ合理化には正論が不可欠。もちろんやり切るのは難しい。しかし目指さなければ、自分でも気づいている非合理の沼から抜け出せないのではないか。
なんて偉そうなことを、たぶん今日も働かなければならない若い編集者に電話で語ってしまいました。締め切りより早く原稿を仕上げたアドバンテージをもとに。今頃、「あいつ、うるせぇよ」とボヤいているかな。
勤労感謝の日って、仕事があることをありがたく思うのか、仕事をしている人を労うのか、どっちのための記念日だと思います?

近所の参道は、ぼちぼちいい感じ。

教頭先生

必ずしも懐かしさに偏った話にしないので、よかったら聞いてください。
僕が通った中学校は、正門をくぐると左手に体育館があり、その先には校庭に面してもっとも古い2階建ての校舎が建っていました。2階は3年生の1組から5組までの教室。1階の校門寄りに職員室。職員室の外側には、洗心という名の小さな池がありました。近寄りたくない職員室の目の前だっから、あまり詳しく見たことがなかったのだけど、鯉が泳いでいたことは“たんちゃん”が教えてくれました。
“たんちゃん”というのは、クラスメイトの消息を確認するため、今も時々当時の実家を訪ね歩く、同窓会の連絡係を買って出てくれている男です。名前が“たもつ”だから、“たっちゃん”だったはず。
この“たっちゃん”がなかなかに独創的でした。昼休みになると、クラスの男子のほとんどは校庭に飛び出し野球などで無邪気に盛り上がったのに、彼だけは単独別行動。向かった先は洗心池。そこで釣りをしていたのです。
あの頃の僕らは案外協調性に長けていたので、釣り好きと知っていた“たんちゃん”を無暗に集団行動には誘いませんでした。そしてまた、洗心池で釣りをしちゃいけないとも思わなかった。なぜなら、池の縁に腰かけて糸を垂らす“たんちゃん”の後ろに立っていた教頭先生が黙って見守っていたから。当時は知らない言葉でしたが、それはまごうことなき牧歌的な風景でした。だから僕はよく覚えているんです。
しかし、ある日を境にその風景が見られなくなりました。“たんちゃん”に理由をたずねたら、ただ一言「ダメだって」。やっぱり叱られたのかと矢継ぎ早に質問すると、つまらなそうな顔で「特に」と返しました。
本当はダメな行為だったのでしょう。にもかかわらず“たんちゃん”がお咎めなしになったのは、本来は注意勧告すべき教頭先生がそばにいたからだと思います。教頭先生だけは責められたかもしれません。あるいは“たんちゃん”をかばい通したのかもしれない。だとしたら、あの気弱そうに見えた小柄で初老の教頭先生は、とてもいい人だったのでしょう。
洗心池の釣り禁止理由は、それから40年以上たった今でも不明のまま。何より、当の“たんちゃん”が自分の行いをすっかり忘れているので、すべては想像の域から出ません。けれど僕は、なぜか真相を知りたい気持ちで一杯なんですね。なので……。
もはや初老の還暦を迎え、髪が薄くなった分だけ人当たりのよくなった“たんちゃん”を教頭先生と呼ぶことにしました。同窓会の役割的にも合いそうな名称だし、僕らが15歳のときのあの先生を忘れたくない気もしたから。釣り事件を知っている仲間が笑ってくれたので、ひとまず溜飲が下がったと、そんな話です。

停電の原因を疑われたガソリンスタンド撤去工事。すでに3本目のタンクの除去完了。