最後にハワイへ行ったのは、確か2018年の4月。あの世界中の人たちから愛される麗しき島とはマラソンでの縁が深く、そのときも現地の言葉で半分を意味するハパルアを冠したハーフマラソンの取材でした。
ほぼ仕事ながら10回以上も降り立っているホノルル。今から6年前に到着した空港で、ちょっとした驚きがありました。ハワイ通の方には片腹痛い話題でしょうけれど、名称がダニエル・K・イノウエ国際空港に変わっていたのです。片仮名であれ聞き覚えのある名字だし、移民が多かった土地柄だけに、ダニエルさんが日系人であることは察しがつきました。
1924年(大正13年)ホノルル生まれの日系二世。日本名は井上 健。17歳になった彼がハワイ大学に通っていた1941年12月、祖国の日本軍による真珠湾攻撃が行われ、日米は戦争状態に突入。アメリカに住んでいた多くの日系人は捕らえられ収容所へ送られました。
そんな辛い日々を送っていた若者たちの中から、アメリカに忠誠を示す形でアメリカ陸軍日系人部隊が組織されます。ヨーロッパの前線に向かう第442連隊戦闘団に配属された井上青年は、イタリアでの対ドイツ戦で、後に全米中から称えられる英雄的戦果を挙げたそうです。右腕切断を始めとする大怪我と引き換えに。
1947年に除隊し、ハワイ大学に復学。卒業後はジョージ・ワシントン大学の大学院に進学。1954年、退役軍人の日系人とともに、ホノルルに本社を置くセントラル・パシフィック・バンクを設立。30歳になる同年、ハワイ議会の議員に当選したのをきっかけに、日系アメリカ人初の米国上院議員になるなど、88歳で亡くなるまで政治家を務めました。
1950年代後半に来日した際、時の首相に日系人を駐日大使にする案を話したとき、こんなことを言われたそうです。
「日系人は貧しい事などを理由に日本を棄てた出来損ない」
時代が言わせた発言なのかもしれません。ただ、そんな考えを持つ日本人に対して日系人の方々がどんな思いを抱いたのか、今の僕は気になって仕方ないのです。
それでもとにかく、特にハワイの人々はダニエル・ケン・イノウエの功績を後世に語り継ぐ依り代として、世界中の人々を迎える空港を彼の名前に改称しました。それが2017年の4月27日。その1年前の僕は名称が改まったことも、新たな空港名の由来も知らずホノルルに行ったわけです。今度は、もっと学んでから訪れる所存です。
このオートバイ、つま先が着くか着かないかギリなほどシートが高いのよ。