宇宙を都合よく利用している一例

「小惑星アポフィスが2029年に地球へ接近」
これは、よく見るニュースサイトの『あなたへのおすすめ』で表示された見出しです。ほお。確かに宇宙関連のトピックスには興味があるので、特に気にせずクリックすると、こういう親切を受けるんでしょうね。
さておき、小惑星が地球に接近するという話題から転じて、もっと頻繁に落ちてきそうな隕石について調べてみました。
ある資料によると、1913年から 2013年までの100年間で、隕石の落下が確認された地球全体の回数は605回。平均すると年6回。日本はどうかというと20回だそうです。いずれいせよ、多いんだか少ないんだか、ちょっとわかりません。
ただ、その数字は確認数なので、人が落下を目視できていなかったり、地表に到達する前に燃え尽きてしまったものまで含めると、実際は1年で何千個もの隕石が落ちているんだとか。
そう聞くとおっかなくなりますが、これまたある文献によると、隕石の落下で死亡する確率は、最大で25万分の1。対して地震が13万分の1で竜巻が6万分の1。飛行機の墜落事故が3万分の1で自動車の衝突事故が90分の1。それらで死亡する確率よりはずっと低いと説明されていました。
ならば安全か? いやいや、あくまで確率の話。しかも隕石に当たらなくたって、地震や竜巻や飛行機や自動車の事故で命を落とすこともあるから、僕らの日常はそこら中に死亡確率が潜んでいることになります。
自然災害は起こるべくして起こるものとして覚悟せねばならず、ゆえに相応の準備を整えておくようにと言われています。しかし、空から降ってくる小惑星や隕石にはどう備えたらいいのか、これもまたよくわかりません。
そこで聞いてみたいのは、正確な予測結果を知っている(たぶん一部の)人は、今から何をするかということです。でもきっと、僕のような普通の市民には最後まで情報が伝わってこないんでしょうね。であれば、案じたところでどうすることもできないという、ありきたりの結論で納得する他にありません。それに、案じるほどによくない想像ばかりしてしまうものだし。
その上で宇宙関連のおすすめトピックスをクリックしてしまうのは、僕らは小惑星や隕石が飛び交う空間に生きているという、いわば大局的な感覚を失くしたくないからだと思います。あるいは大局に意識を向けて、日々の局所的な問題や悩みから目を背けたいからかもしれません。これは、宇宙を都合よく利用している一例と言っていいでしょう。

こちら杭打ち作業。打ち込むというよりねじ込むようで、けっこう静かでした。

 

釣りへの興味

わりと気を引かれてしまうのが、テレビの釣り番組。その類は腕の立つプロがガイドを務めているので、たいがいは狙った獲物を釣り上げます。そんな予定調和を了解していながら、それでも「来た!」みたいなロッドが大きくしなる瞬間にワクワクしちゃうんですよね。
実はとても釣りをやってみたいのだと思います。しかし僕には、どうもセンスがない。子供の頃に何度か、父親が僕ら兄弟を釣りに連れていってくれました。砂浜の記憶が多いから、おそらく夏休みの海水浴のタイミングだったのでしょう。ただ、そこで何かを釣った覚えがありません。あるいは父親も弟もボウズ(釣果ゼロ)だったんじゃないかな。
そんなこんなで「来た!」みたいな感覚を味わえないでいると、どうしたって飽きます。あるとき、そうしてすることがなくなって、みんなも釣れずに暇だろうからと、母親がつくってくれたおむすびの袋をクルマから出しました。いつでも食べられるようにという配慮で。すると父親と弟が声を荒げたのです。
「日向に出したら傷むだろ。だからアニキは……」
この叱責はトラウマになりました。おむすびより少年の心のほうが傷みやすいのに、「だから」って何なんだよ。おかげで二度と釣りなんて行かないって決めちゃったじゃないか。
そんな苦い思い出があっても釣りへの興味は消えず、大人になってからリベンジを果たします。30代で携わった自動車専門誌で長く連載した釣り企画。知り合った二人のアニキたちと、フライフィッシングの旅をするというものでした。そこでも自分のセンスの乏しさを思い知らされます。
釣りは道具を扱う楽しみも与えてくれますが、結局は釣れないとおもしろくない。ではどうすれば釣れるかというと、究極的には狩猟を成功させる野生の感が必要みたいです。二人のアニキのうちの一人は、水辺に行くと野生感がぼわぁっと漂うんですね。雲行きや風向きが目をつむってもわかるみたい。そして、何としてでも狩ろうとする。この感性は僕にはないものでした。
にもかかわらず興味が失せないのは、僕の悪いところ。当時買った2本のフライロッドも、次にいつ振るかわからないまま捨てられずにいます。こんな僕でも誘ってくれる方がいたら、ぜひ。二度と日向におむすびを出しませんから。

これだけの空の広さは、工事中だけのものなんだろうなあ。

町のうわさ

盗撮と言われかねない形で撮り続けている工事現場。その変化を伝える写真は、ここの下のほうで時折紹介しております。元はガソリンスタンドがあった場所。その解体作業の始まりを確認すべくスマホの写真データをひっくり返してみたら、2023年9月4日でした。まだ1年も経っていなかったのが意外に感じたのは、地中のタンクを掘り起こしたり、その穴を埋めたり、そうかと思うとまた掘り返したり、あるいはいつかの停電がその工事によるものだと勘違いした近隣の人々が押しかけたりと、いろんな光景をベランダから見下ろしたからだと思います。
直近では6月12日のここで、工事現場の周囲を覆うフェンスが撤去され、空き地然となった様子をアップしました。その写真を撮ったのは6月1日。そこからまた動きがありました。新たにフェンスが設けられた現場で杭打ち作業がスタート。素人判断ですが、これからつくられる建物の基礎になるものだと思われます。そうであれば、もはやガソリンスタンド撤収工事は完全に終わり、まったく別のフェーズに入ったことになるのでしょう。
そうした僕の覗き魔的ワクワクよりはるか以前から、町の人たちには「今度は何ができるんだ?」というソワソワがありました。その情報はなかなか聞こえてこなかったのですが、つい先日、信ぴょう性の高そうな話を聞くことができたのです。
教えてくれたのは、ごく近所の食べ物屋さんの御主人。数階程度の病院になるそうな。それをご主人に伝えたのは、これまた至近かつ工事現場の真向かいのコンビニの御主人。
「工事現場から道を挟んですぐの建物、元は焼肉屋だったビルがあるでしょ」
はいはい、その工事も見守った建物には薬局やクリニックが入っていますよね?
「そのビルの工事現場側の3階あたりに、各テナント名を記した看板ができたじゃないですか。それは、ここに医療関係が集まっていることを、新たにできる病院にアピールするためだと、コンビニの御主人が言うんです」
いいなあと思いました。情報の確度がどうあれ、そういう町のうわさが響いてくるほどの距離にいられることが、何だかうれしかった。ますます離れ難くなるな。
果たして何ができるのでしょうか。病院じゃなかったときの御主人たちの解釈も聞きたいので、通報されない限りは監視し続けます。

新フェーズに入った現場では、目視で10本の杭を3日間かけて打ち終えた様子。

 

 

「ぜいぜいはあはあ」

4月から5月の怠慢を反省して、ここのところは(少しだけ)ランニングする機会を増やしています。毎度のことだけど、間を開けて走ると「こんなにきつかったっけ」とめげそうになります。それを覆そうとするのは、「ここを乗り越えれば次は楽になる」という経験値。そういう面倒臭い自問自答の繰り返しを撤廃したいなら、走る習慣を保つ他にないんですけれどね。
そんなこんなで「次」に期待して間を開けず走ると、今度は「前よりいいタイムを出したい」という欲が顔をもたげてきます。これも本来は撤廃すべきです。僕が自発的にランニングする目的は、記録の向上ではないから。
何よりも(自分から切り出したくはないけれど)相応に歳を重ねてきたら、タイムを目的にするのは危ないと理解しているのが大きいわけです。怪我以上に怖いのは、タイムの変動を気にしすぎた挙句、走るのが嫌になること。だからこそ、絶対的な数字よりも、相対的でいいから今日も走りたくなる意欲を持てる感覚を大事にしたほうがいい。
なのにこの阿呆はいまだ青臭い。信号待ちやスナップを撮る際に立ち止まるたび、ランニングアプリが示すラップタイムが目に入ってしまうと、頭でわかっていることがすっ飛ぶのです。これがよくない。遅ければ巻き返そうと、速ければさらにと意気込んで、どちらにせよ頑張ってしまうから。
それが自分とスマホの間だけで済むならいい。ふと気になったのは、そうして住宅地を走る自分が町の人の不安材料になっている可能性です。ずいぶん前に教わった、一定のペースを保つ呼吸のリズムは「すっすっはっはっ」それがペースアップを図ると「ぜいぜいはあはあ」になるのは必然。けれどこれは獣じみていて、いくら日中であれ背後から荒っぽい息づかいが迫ってきたら相当におっかないだろうと。そういうのは専門のトラックか公園でやってくれと、そのうち通報されるじゃないかと思ったりします。
いろいろ間違っているみたい。何か行動を起こせば反省はつき物だけど、他人を巻き込んで猛進や増長しない策を考えなければいけませんね。今日も走りたくなる意欲が失せないうちに。

夏季の麗しき給水ポイント。見てないで飲め!

腐っていく自分を見捨てないでくれる人たち

今日は、1948年に亡くなった太宰 治の命日です。愛人とされた女性と玉川上水で入水自殺した遺体が発見されたのは6日後。その6月19日を、交流のあった小説家が太宰の作品名にちなんで桜桃忌としたので、命日が混同されているかもしれません。
さておき、まだ若く将来が見込まれていた作家や音楽家が自殺した件は、感性が豊かな人ならではのドラマティックな結末として受け止められ、伝説的と崇められたりもします。
そんな思いが理解できなくはありません。自殺や、それに近い死はあまりに衝撃的なので、ある意味ではこれ以上にない美しい物語の終わり方として、永遠に語り継がれる力を宿すだろうから。けれどそれは、遠い場所にいる他人にだけ響く力ではないでしょうか。
時々考えるのは、人間は心臓が止まった瞬間から腐敗が始まってしまうということ。相応の保存方法はあっても、自発的な血液循環が止まってしまえば、べっぴんだろうとイケメンだろうと、生きているときの形態は確実に崩れていきます。であれば、形状に自身のない僕は少しでも早く荼毘に付してほしい。しかし当然のことながら、自分では火葬場に行けないので誰かに任せる他にありません。
ゆえに一人の死は、致し方なく周囲に負荷をかける一大事と言って間違いわけです。その申し訳ない迷惑を想像するだけでも、簡単に死ねないし、死んじゃいけないと思う。正しく送るべき人の荼毘全般が迷惑という意味合いではなくて。
死の淵に瀕した状況で、どこまで他者を慮れるかは、そうなってみないとわかりません。でもできれば、腐っていく自分を見捨てないでくれる人たちの顔を思い浮かべたいです。親しい人に限らず、死んでから会う業務関連の人々の存在も含めて。
こんな話が自殺の抑止につながる自信はまるでないのだけど、そんなことを考えます。いやいや、やっぱり簡単に手を出しちゃいけない話題だったな。

イベントの準備は着々と。

 

テレワーク近況

かつては呆れ混じりでよくこんなことを言われました。
「家で仕事できるなんて信じられない」
これ、最近はめっきり聞きません。多くの方が僕と同じように自宅で仕事をするようになったからだと思います。
最近の会社員の方の取材では、テレワークの話題が出る機会が増えました。コロナ禍という社会の在り様を変えた時期が一応の落ち着きを見せ、相応に振り返ることができるようになったからでしょう。
そこで耳にするのは、かつてあり得なかった在宅勤務が始まったことで心身に不調を来した話や、予想外に労働時間が長くなってしまった問題。つまりテレワークの弊害です。このあたりも具体的な整理と検証。そして、選択肢として確立した働き方の改善などが実施されていくのだと思います。
一方、弊害ばかりではなかったというエピソードにも触れます。出産や育児のタイミングを考えていたという働く女性は、コロナ禍となりテレワークが実施されたおかげで、子供を産み育てる機会を得ることができたそうです。すでに小さな子供がいた家庭でも、子育て全般を夫婦で共有できるようになったと聞きました。
そうして、何にせよ良い面と悪い面があるにせよ、皆さんが等しく口にするのは、リモートによる会議の不慣れさです。この数年間でかなりの数をこなしてきたはずなのに、それでも苦手意識が拭えないとなると、やはり人とのコミュニケーションにおいては無理のある方法なのかもしれません。
昨日、久しぶりに関西の方とオンラインのインタビュー取材がありました。やっぱり今もって難しい。あれって、インタビュアとして連綿と培ってきた間の取り方を平気で殺すんですよね。毎回、何か食い足りない気分で終わる。これもひとつの選択肢として残っていくのでしょうが
その取材に先駆けて、ついに午前中からエアコンの冷房を起動しました。窓の下の工事現場がぐぁらぐぁらと音を出してうるさかったから。いろいろ取り決めがあるはずですが、会社員の方々の場合、こういう電気代は経費として認められるのでしょうか。あれこれ心配になります。

ガソリンスタンド跡地を覆っていたフェンスが撤去。ついに空き地となるか?

 

僕の知らないランチタイム戦場

一般的なランチタイムに外食する習慣がありません。なので、ごく稀ながらランチタイムに当たると、ちょっとワクワクします。世間の流れに乗れたような、まっとうな人間に慣れたような気がして。
ただ、そのたび驚かされるのは量です。定食であれセットであれ、この時間に食事する人はこんなにたくさん食べるのかと、自分のオーダーが届いた瞬間に満腹感を覚えることもしばしば。あくまで僕にとってはいささかトゥマッチという話ですが、毎日そんなランチを摂取していたらどんな体型になるだろうと心配になるほどのボリュームです。その設定もまた世間の常識かもしれませんが。
それから、決まった時間にお昼を食べるというのも、かなり大変な作業だろうと推測します。
先日、10時から14時まで都心のオフィス内で複数名にお話を聞く仕事がありました。12時から13時が休憩に充てられていたので、もしやお弁当が用意されるとか、担当の方々と食事に行くのかなあかか、期待ではない予想をしたのですが、ごくシンプルにリリースされました。まぁ、そうですよね。
そんなわけで、外に出て何かを食べようとしたのだけど、そのビルにいくつも入っている企業もお昼の休憩時間が定まっているようなので、どわっと人が出てくるわけです。13時前までには戻らなければならない僕は、大いに焦りました。これだけの人たちとのランチタイム競争に勝てる自信がまるでなかったから。状況に慣れている方にしたら、ただの日常なのだろうけれど、僕は本気で「食いっぱぐれる!」とビビったほどです。
洗練された都会的オフィスビルの近くでは、少なくとも昼間はかなり浮いて見える、魚料理を推す居酒屋の焼き魚定食を選びました。その日はサバ。鮭の切り身入り味噌汁とサラダと漬物と焼きのり。そして丼飯。やはり量と時間に挑まれるんですね。まだ知らない戦場があまりに多いこと、改めて思い知らされました。日々戦う方々にエールを。

不意に雲が切れてのぞいた晴れ間に、入梅の予感。

時の記念日にこんな話

人生初の給料で買ったのが腕時計。シンプルかつ安価な円形のSEIKOでした。おそらく、社会人となった証に自分で買うことに意義を見出したのでしょう。このSEIKOは約40年の時を経ても、ヘッドだけが机の中に残っています。初任給の買い物という以外に特別な思い入れもないのに。
ふと気づきました。もしやそのSEIKOは、これまでの人生で自ら購入した、最初で最後の腕時計かもしれないと。他に腕時計をしなかったわけではありません。仕事関連で何本かいただいたものの、装着が不慣れだからすぐに外してしまいました。そしてそれらは、極めて不義理ながら行方不明のまま。
僕が腕時計に興味を示せなかった理由はいくつかあります。ひとつは、20歳あたりで一般的な社会人になることを嫌ったから。ただのどうしようもない若気の至りですが、スーツやネクタイに革靴。そして腕時計といった、かつてのサラリーマンスタイルに縛られたくなかったのです。そうして嫌な型を構成するアイテムを遠ざけた。そのせいで、別の型を見つけるのに時間を要してしまうことになるのだけど。
それから、若い方には噂の範疇かもしれないバブル期に、有名な高級腕時計をつける人が異様に増えて、かなり深刻にうんざりしました。彼らは互いの腕時計について語り合っていただけかもしれません。けれど僕には自慢合戦にしか見えなかった。あるいは、身に着けるもので互いを値踏みしているように感じられてしまった。これもまた、ただのどうしようもない貧乏人のひがみと言われたら返す言葉はありません。
けれど、既定の価値の競い合いに参加したい意欲はまるで沸かなかったし、むしろ多くの人々が気づけていない未定の価値を見出せる人間になりたいと思ったんですね。そんな指針を持てたのは、忌み嫌った腕時計のおかげなのだろうか……。
高精度の技術を集約させた機械として、または気分を高揚させる装飾品としての腕時計およびその趣味性を否定するつもりはありません。そこにはまらなかったことで、大きな損をしている可能性も否めないと思っています。いずれにしても、自分なりの価値基準を尊重したい思いの裏に潜む、価値観自体に敏感過ぎる性質が素直さを歪めているのかもしれません。
こういうへそ曲がりを納得させるのは、実は自己顕示欲を刺激する「世界にひとつ」なんでしょうね。そんなものには滅多に出会えないとしたら、初任給のSEIKO?
時の記念日に合わせてこんな話をしてみても、腕時計をつける自分が想像できずにいます。

その奥にこちらをうかがう目。これだけ警戒されたら仲良くなるチャンスはないな。

 

 

カーテン日和

土曜日の野球は午前9時スタート。僕の通常始業時間より早いわけです。当然のことながら、午前9時から体を動かすとなれば相応の準備が不可欠。特に毎朝のストレッチは、早起きを言い訳にしてサボることはできない。それで怪我でもしたら、この時間に設定した誰かを恨みかねない。そしてまたエネルギー補充も欠かせないけれど、行きのクルマの中で何かを食べることで解決。
いずれにせよ始業が早まると、ルーティンを崩さなければなりません。僕の場合は、前夜の終業時間にも影響が出ます。それも、午前中に身体を動かすなら最低限の睡眠時間を確保したいという賢明さ、というより欲求に従うせいです。これまた当然のことながら、早めに寝るなら何時に飯を食うかも問題となります。いろいろ面倒臭いですね。おそらく世間の多くの人に身についている午前中を活用する習慣があれば、こんな厄介を招かないだろうに。
土曜日を迎えるに当たって、ひとつ閃いたことがありました。カーテンを洗おう! 実は金曜日から作業に取り組んでいました。あれって、干場となるウチの狭いベランダだと、1日じゃ干し切れないんですよね。ゆえに完遂には2日がマスト。で、金曜日に洗い切れなった分を土曜日に。しかも午前9時前から干せば、すっかり乾くじゃないか!
「いい人だって思われたいんだろ?」
これは、おもしろがってもらえたらと思ってカーテン洗濯作業をチームメイトに話したときのリアクションでした。
カーテンを洗うって、いい人のすることなのか? 違うか。見た目からして苦手そうな午前中の活用ができたことを自慢したいと思われたのかな? まあ、どっちでもいいですね。実際にカーテンは夕方までにすっきり乾いたし、午前中から動く有効性も体感できたから。
しかし、野球の練習は午前11時で終了。その後にメンバーとデニーズで飯を食べても、まだたっぷり午後が残っていました。その使い方がよくわからない。結局は午後1時過ぎにシャワーを浴びて、黒ラベルの500を飲んで、メジャーリーグの録画を見ながら寝落ち。それがいい人のする行いかどうかは不明だけど、ひとまずカーテン日和だったのは確かです。

ところで、僕の町の入梅はいつ?

これから誰かを慮るとき

自然災害で住む場所を失った人々の痛みや、病気を患った人々の苦しみについて、それを遠くで見守るしかない者が慮るときには想像力が大事。そのようなことを何度か書きました。しかし、同じか、または似たような体験をしないと、想像の範囲はニュース映像のフレームに留まってしまうのかもしれません。
昨日報じられたので、耳にした方は少なくないでしょう。厚生労働省の人口動態統計から判明した国内の新型コロナウイルス感染症による死者数が、累計で10万人を超えたそうです。驚いたのは、2023年に亡くなった人の多さでした。5類に移行したことでコロナ禍が終了したと安心したのに、現時点では概算ながら3万8080人。2020年から2022年の3年間の確定死亡者数数が6万7870人。もっとも多かった2022年だけで4万7638人なので、昨年の数字に鑑みると、この感染症の恐ろしさが改めて浮き彫りになります。
こうした統計を目にしたときこそ、想像力をフル回転しなければならないでしょう。言うまでもなく合計10万5950人の方々には、一人ひとり大事な命が宿っていました。そして、大事な命が失われたことで悲痛に暮れた家族や仲間や恋人がいたはずです。その事実までは何とか必死で思いを巡らせなければならない。でも、悲しみの総数が大きすぎるから、考えるほどに自分の首を絞めるような辛さを感じるかもしれません。
前にも書きましたが、僕の母親は、感染症ではない理由でコロナ禍に入院しました。あの頃は見舞いが禁じられたので、入院した日は、もしやこれが最後に見る姿かもしれないと思いました。そのときに、幾ばくかであれ、感染症で入院した方のご家族の気持ちを察することができたのです。お葬式にも立ち会えなかったそうですもんね。
このタイミングで感染症の話題に敏感になったのも、ほぼ1カ月前に自分が感染したからに他なりません。おそらく、症状としてはもっとも軽微の部類に入ると思うので、この病気の怖さを語る資格はないでしょう。それでも滅多に出ない熱に惑わされたり、1週間ほどの外出自粛をした経験は、適切な表現ではないだろうけれど、これから誰かを慮るときの財産になるんじゃないかと、そんなふうに思っています。

桜の木陰。花だけが魅力じゃないと思うけどな。