同じネタを繰り返すと嫌われそうですが、我を通すことにします。
そんなわけで太陽の塔についてですが、大阪まで見に行ったと何人かに話したら、「岡本太郎、いいですよね」と言われました。その言葉に違和感を覚えたんです。なぜなら、僕は岡本太郎のファンとして太陽の塔まで足を運んだわけではなかったから。稀代の芸術家を尊敬していないという話ではありません。僕は岡本太郎という人をよく知らず、あるいは正面から向き合ったことがなかった。その事実を、太陽の塔を目の当たりにした後で気づかされたのです。
よくわからない人でした。1981年のテレビCMでご本人が放った「芸術は爆発だ」というセリフがまさにそうで、その意味不明ながらも強い口調だけが印象に残ったわけです。同時に、芸術家とは奇異な存在という刷り込みが行われました。あるいは世間も、変わり者のレベルで岡本太郎を楽しんだのかもしれません。
ただし調べてみると、岡本太郎は太陽の塔が完成する以前から「芸術は爆発」と語っていたらしいんですね。そしてまた、方々で多くの言葉を残してもいたみたいです。しかしいずれも、芸術に理解がないというか、杓子定規な常識でしか持ち得ない人々によって、奇人扱いされてきたところがあったようです。
僕もその他大勢の一人ながら、太陽の塔の中で触れた言葉に目を覚まされました。
「芸術は呪術である。」
それは、太陽の塔の内部見学の下り階段の壁に、目に留めてもらう期待もないかのように、ごくシンプルに書かれていました。だからなのかと。55年を経ても太陽の塔が残っているのは、それ自体に呪いがかかっているからなのだと、呪いが何かもよくわからないまま、なぜかすごく腑に落ちてしまったのです。
これもご本人が語っていました。「芸術とは、共通の価値判断が成り立たない、自分だけにしか働かない呪い」なのだそうです。矛盾を感じますよね。外部の理解を拒絶するような考え方なのに、芸術家としては人に見せるものをつくり続けるのだから。
一方、実は万博後に解体されるはずだった太陽の塔の保存が決まったとき、「いろんな人に見てもらったから、あれはもはや自分のものでない」と言ったそうです。それは岡本太郎自身の呪縛からの解放だったのでしょう。そしてその瞬間、呪いは見る者すべてに働くものになったのかもしれない……。
などとあれこれ考えを巡らせたくなるのが性分だとしたら、僕はもっと岡本太郎の言葉を知らなければなりません。それがある種の旅の始まりになるとしたら、呪いに導かれるまま進みたいと思います。
この言葉を選んでここに記した方に、心から感謝します。