「気をつけて」と言う他になく

それが微かに残された動物的本能によるものかはわからないけれど、何かが来る不穏な気配を感じて、それが気配ではなく実際の現象だと体感できた瞬間、全身が強張るのを感じながら僕はこう思います。「これはどれくらい続くのか?」
今年の元日の、今では石川県能登半島地震と呼ばれる大きな揺れを自宅で感じたときも、そんなふうに身構えました。そして、僕の部屋でもっとも足元が弱いテレビを支えながら、どれくらい続くか様子を見守りました。
その、おそらく1分にも満たない時間はとても嫌です。この揺れがもっと大きくなっていったら、僕が生きている間でも比較的最近になって繰り返される大災害につながるのではないかという不安がせり上がってくるから。その不安のイメージは、一切の慈悲なく能登半島で現実のものとなってしまいました。
ここに来て、千葉県東方沖を震源とする地震が多発しています。そのあたりはかなり前から震源地になっていたらしいのですが、いずれにせよ能登の震災があった直後なので、体感できる揺れが増えれば否応なく怖さが募ります。それを群発地震と呼ぶなら、そうした予兆とすべき現象は能登でも起きていたと聞きました。
だからとても心配なのです。母親もひどく気になっているようです。最近の地震で特に強い震度が表示される町に住む妹家族への気遣いを、まずは口にしながら。そんな母親に向かって僕は、「気をつけて」と言う他になくなります。無策かつ無責任なのはわかっています。いつどこで起こるかわからない地震に気をつける方法なんて、僕ですらわかっていないのに。
結局のところ、いまだ正確な予知が不可能な地震は受け入れる以外になく、起きた後の最善の対処を考えておくしかないみたいです。けれどそれだけに意識が集中してしまえば、身も心も強いストレスに襲われかねません。ゆえに日常生活の楽しいことも苦しいことも、ある意味では普通に経験すればいいと思うけれど、瞬時の身構えはできるようにしておきたいです。決して甘く見てはならないという経験則のもとに。
それにしても恐ろしいのは、この瞬間にも大きな揺れが来るかもしれない可能性なんですよね。そうならないために、祈る気持ちでこれを書いています。

通算3度目の両国国技館。そろそろ音楽ではなく相撲を見なければと……。

 

誓いを思い出す日

やはり一昨年も昨年もこの件に触れていました。題して、3月3日の奇跡。
厳しくなるのを覚悟の上で踏み出した人生のターニングポイント。それから3カ月後の桃の節句の日。お世話になっている社長を囲んだ男3人の会食の席で、その社長から思いがけぬ仕事のオファーをいただけた件を、僕は奇跡と信じ続けています。
常識では起こり得ないような不思議な出来事。または神様の存在を認めたくなる思いがけない力の働き。これが奇跡の意味。仕事に関することなので、神様をめぐるスピリチュアルな要素は省きたいと思います。何しろ雛祭りに男3人の集まりってのがすでに幻想的じゃないから。
ただし、常識では起こり得ない仕事内容という点では、まさに不思議という他にありません。その社長の定期的な社内SNS用原稿を聞き書きする仕事なんて聞いたことがなかったし、外部依頼されている同業者もいまだに知りません。
その場の思い付きでした。トップとして社内のコミュニケーションを充実させたい思いはあっても、原稿を書く時間がとれなかったらしいんですね。そのジレンマを抱えている最中、何度かインタビューした僕と酒を飲みながら、「あんたがいた!」みたいな、まさに膝を打つようなひらめきを覚えたのだそうです。
思い付きはすぐに実行されました。週2回、社用車による通勤ルート上に設定された、某駅近くの国道沿いの集合場所でクルマに乗り込み、会社までの約30分間で話を聞き、自宅に戻って本日分の原稿を提出。そんなルーティンが数年続いたある日、前日に「明日は話があります」と連絡してきた社長が徒歩で集合場所に現れたときの、何だか清々しい笑顔は忘れられません。
様々な事情によって、同業他社に移る決意をしたと話してくれました。駅近のコーヒーショップで。少し前からそれとなく気配は感じており、ついにこんな日が来たんだと感慨に耽りつつ、さてこれからどうしようと思っていたら、こう言われたのです「新しい会社には、この仕事を続ける条件を飲んでもらいました」
そうして約8カ月のブランクを経て再開。社長が新天地で巻き返しを図る様子や、一方では人生初の転職による戸惑いや愚痴を聞く仕事は、今も続いています。気がつけば、あの会食から10年。何というか、この世には一瞬で終わらない奇跡があることを実感し続けています。奇跡に応じ続けられる人でいたい。今日はそんな誓いを思い出す日です。

階段でひな祭り@両国駅。

 

捨てなかったビールの空き瓶

奇妙な夢でした。左側のだいぶ低いところに線路が走っている、横に3人は並べないほど細い坂道。どこかで見たことがあるような場所で、僕はその坂を上っていました。空は暗めなのに下ってくる人が多かったのは、近くにあるらしい駅から定時的に帰宅する人の集団に当たったせいかもしれません。
そんな狭い道に次から次へと人が流れ込んでくること。なおかつ誰もが不愉快そうに坂を下ってくるのが不思議でならなかった。ふと右脇を見たら赤や黄のビールケース。飲食店などないこんなところにうずたかく積まれている理由は見当もつかなかったけれど、通行の邪魔をしているのは明らかでした。
次に僕の視線がとらえたのは足元。空き瓶、空き缶。さらには砕け散った茶や緑のガラス片が散乱していました。僕はたじろぎます。なぜこんなに荒んでいるのだろうと。そうして目を上げると、また何人もの人が正対する形で向かって来ます。ビールケースの脇では1人しか通れなくなっているから、僕は相手に道を譲るため立ち止まるのですが、譲られた相手は会釈しないどころか、僕の存在自体に苛立っているような表情を浮かべながら通り過ぎていきます。不穏に完全があるとすれば、それ以上ないほど完全で完璧に仕上がった不穏の雰囲気でした。
その最中ではっとなりました。気づいたら僕は左手にビールの空き瓶を抱え込んでいたのです。その理由も不明。ただ、今この場で空き瓶を放り投げても誰にもとがめられないだろうと。その考えに逡巡しながら目が覚めました。
町の中で1枚でも割れたガラスを放置すると、やがて町全体が荒廃し治安が悪くなっていく傾向を、環境犯罪学という学問では割れ窓理論と呼ぶそうです。確かに、その奇妙な夢が示唆せずとも、環境の悪化が人の精神に芳しくない影響を与えそうなことは体感で理解できます。とは言え、環境がどうあれ罪を犯した者は正しく罰せられなければなりません。
しかし、窓が割れるたびに修繕し、空き瓶が砕け散ったなら即座に回収すれば、犯さなくていい罪の発生を防げるかもしれない。あるいは、罪も微かなうちに留められるかもしれない。そういう修繕や回収の手間を思いやりとしたいです。
などという提案は、罪人側の言い訳とされる可能性が高いでしょう。けれど清廉潔白かつ品行方正を自負する人の心の中にも1カ所くらいは割れ窓があり、つまりは大小の差こそあれ互いに欠損があり、誰かがそれに気づいてくれることで救われる場合もある気がします。
夢の話に戻りますが、何もわからないまま抱え込んでいたビールの空き瓶を、僕は最後まで捨てずにいました。この場に放り投げてもいいと思ったのに。その意味とは何だったのでしょうか。

チームメイトが発見した、より広い室内練習場。オレたちどれほど野球好きなんだと苦笑。

越夜

月面ピンポイント着陸を目指したJAXAのSLIMプロジェクトに触れるのは、これがたぶん3回目。2月初めの前回は、着地に失敗してSLIMの機体が転倒しつつも、1月30日から31日の2日間で所定の作業を修了。2月1日から月の夜を迎えるところまで書きました。
その14日間に渡る月の夜が終わってから約10日後、JAXAはSLIMとの通信が再開したと発表。また新たな調査ができる可能性を示しました。それは、月が朝を迎えSLIMに装着された太陽電池が機能し始めた結果らしいのだけど、通信再開はかなり困難だったそうです。なぜならSLIMは、昼間100度で夜間はマイナス170度という極端すぎる寒暖差に対応できる設計ではなかった。それゆえ本来なら、月が夜を迎えてしまえばSLIMの復活はあり得なかったらしい。
以上の最新トピックスの中で僕が引っ掛かったのは、月の夜に耐え抜くことを「越夜(えつや)」と呼ぶ事実。初めての単語でした。僕のPCも未知らしく、一発で漢字変換できずにいます。
どうやら宇宙機に関する専門用語みたいです。英語に直すと、至極簡潔なOvernightが妥当なのでしょう。なのに日本の宇宙開発関係者は、月の夜越えに対してそんな言葉を用意したようです。
僕はこの「越夜」という単語の字感に、極めて日本人的なセンチメンタルを覚えます。字面そのままの意味合い以上に、夜を越える辛さや寂しさまで封印したような、そんな風合いというか。今回のSLIMの「越夜」に関しては、開発者たちの「もう一度動いてくれ」という期待または願いも含まれた気がします。前にも書きましたが、無機質な機械を擬人化して応援したくなる心境が芽生えてしまうだろうから。
例によって、そういう数値化できないロマンみたいなものが漂ってくるから宇宙関連は放っておけなくなります。「そうだよな、独りで夜を過ごすのは切ないよな」みたいな青い感傷に共感しちゃうんですよね。越夜、これから上手に使えるようになりたいです。

こんな町の隙間からでも拝みたくなる心理が、自分でもよくわからない。

反省のボーナス日に

2月29日は閏日。この件に関して、今日あたりあちこちでウンチクが語られそうですが、4年に1回なので僕も喋っておきます。
なぜ4年に一度を閏年とし、2月を1日増やすのか。すべては、人類が長い時間をかけて正確な暦をつくってきた長い歴史に由来します。が、要点だけつまみ上げます。
現時点で世界標準となっているのがグレゴリオ暦。この暦は、地球が太陽の周りを公転する周期を365日と定めています。ところが実際の公転周期は365.2422日で、1/4日ほどの端数が出る。それを放ったままにしておくと、公転によって変化する季節と暦がずれていくので、1/4日の端数が溜まって1日分に満ちる4年に1度、閏日を設けるのです。
そういう調整法を考えた人たちには頭が下がります。何と言っても歴代の暦の専門家たちは、正確かつ簡単に太陽の動きを計測できる機械がなかった時代にそれを決めたわけですから。今となっては「今年は1日多いんだ」くらいの、さして特別な感じがしない閏日だけど、今日こそ暦の日として記念すべきではないでしょうか。先人たちの偉大な仕事に感謝するために。いや、4年に1回じゃ、むしろ申し訳ないか。
そんなわけで留意したいのは、平年より多いこの1日の過ごし方です。「たった24時間で何が変わるもんか」という見立てでは大変な目に遭うかもしれません。たとえば、2月29日に過去最高の、または過去最悪の売り上げを記録したら、それは1年の業績を大きく左右することになります。あるいは、毎月末が何らかの締め切りだったら、その1日がより良い結果を導く猶予になるかもしれない。その一方、月給を日割り計算している経営者にしたら、1日分の給料を足すことに溜息をつくかもしれない。いずれにしても1日は、様々な事柄を変えるのに十分な時間を擁しているということです。
などと偉そうに言っていますが、僕はこの2月がどうも思わしくないので、心機一転を願って早く新しい月にならないかとボヤいていました。昨日の話です。そんな翌日に閏年の閏日。けれど3月になったとしても、自分を起点にした因果は追いかけてくるはず。なので今日は、2月の何がよくて何が悪かったかを改めて分析する、反省のボーナス日に充てることにします。

この時間に戻れたら……。

 

健気までに必死な物欲

頻度は低めながら、一度湧いたら抑えきれないのが僕の物欲の特徴です。直近では、野球のスパイクでそれが露見しました。
長く履いているヤツがくたびれてきて、そろそろ替えたいなあと思っていたわけです。草野球ながら、新しいシーズンを迎える前に。そんな気掛かりを持つと、なぜか呼応してしまうんです。そのつもりもなく入ったスポーツショップで。
真っ赤なニューバランス。棚には「NEW」の文字。僕が知る限りニューバランスは、少なくとも日本国内では野球にそれほど積極的なブランドではありません。なのに、ここに来て「NEW」。なおかつ僕のチームカラーに合う真っ赤。その理想的なデザインを目の当たりにして、たぶん僕は「ヤバい」とつぶやいたはずです。
そのまま飛びつけばいいのに、なぜかためらうのは臆病が働くからでしょうか。あるいは、沸き上がった物欲をあえて押さえつける自虐性を楽しもうとするのでしょうか。何となく、両方のような気がします。いやいや、あまりの突然の「NEW」に関して、それがどういう商品なのか、はたまたニューバランスはオフィシャルでどういう位置づけをしているのか等々、一度調べてみたい別の欲求がわくところもあるのです。
けれど本当は、そんなのどうでもいいんです。というより、あえて間を置くせいで焦りが募ってしまうんです。売り切れたらどうしよう、とか。なんかもう、健気なまでに必死。そうして初見から1週間後、自宅から近いショップに行って購入。慌ててネット注文せず、0.5センチ刻みで履きくらべて27センチが妥当と見極めた自分の冷静さを褒めながら。
こんなにソワソワした買い物は久しぶりでした。もうバレているかもしれませんが、物欲に火を注いだのは、ニューバランス契約の大谷翔平さんです。「野球やろうぜ」と呼びかけながら全国の小学校にグローブを贈ったりするから、小学生でもないのに呼応しちゃいました。そんな連鎖を言い訳にしながら物欲の罠にまんまとはまる大人が、各草野球チームに一人はいるはずです。真っ赤なニューバランス、流行るかもしれない。

せっかくなので披露します。これが健気で必死な物欲の発露。照れるほどに真っ赤。

SNSの多勢に無勢

どういう仕組みなのかよくわからないけれど、SNSあたりでは昔の写真が突然上がったりしますよね。「こんなことがあったでしょ」と、飲みの席でとなりに座った長い付き合いの知人が語りかけてくるみたいに。ついこの間は、10年以上も前の集合写真が出ていました。僕は左端で、当然のことながら確実に若い顔で写っていた。
いいんです。自分でも「こんなことがあったなあ」と懐かしなったりもする。ただ、「上げますよ」と事前に連絡してくれたらいいのにと思うわけです。今さら晒したくない表情だったり、あるいは二度と見たくない光景だったりする場合があるかもしれないから。けれどおそらくこのご時世、「さあ撮りますよ」と言われてレンズの前に立った時点で、ネット世界に投じられる流れを了承したことになるんでしょうね。
そしてまた別の場所では、僕がしたことが僕の知らないうちに報告され、まるで予期しない場面で「そんなことしてたんですね」と言われたりします。それは、交差点で出会い頭にマンモスとぶつかりそうになるくらいの驚きを伴います。
いいんです、それも。その記事的なものを確認していなくても、何が伝えられたか察しはつくし、話しかけてくれた方の表情を見れば悪い印象を与えた内容じゃないこともわかるから。けれどたぶんこのご時世、「さあやろう」と誰かと行動を起こしてしまえば……。
「気にすることないじゃん」といった程度の話なのでしょう。しかし、気にする範囲のジャッジは誰がどんな形で行っているのか。それこそがとても気になるわけです。
いやまあ、自ら積極的に利用せずともこれだけSNSが広まってしまえば、何を言っても多勢に無勢ですね。でも、誰かが上げてもいいと判断した自分を特定する報が、自分の知らないところで紹介されるというのは、慣れの問題以前に居心地の悪さを覚えます。こういうことを言うと、もう二度と集合写真に入れてもらえなくなったりするのかな。それはそれで仕方ないけれど。

もう終わりかなと庭先の梅の花を撮っていたら、その家の奥様が現れて「先週の雨で散っちゃったのよ」と教えてくれました。「満開を撮っておけ」というクレームだったかもしれない。

 

 

手を動かすこと

時代遅れに苛まれるとき、いつも僕を救ってくれるのはホムンクルスの図です。ご存じの方も多いと思いますが、ホムンクルスの図とは、ペンフィールドというカナダの脳神経外科医が描いた、脳の部位と身体の機能の対応関係です。よかったら『ホムンクルスの図』で検索してみてください。平面図と、それをもとに立体化した人間の姿が確認できます。
この図の最大の特徴は、脳における感覚器の重要度を示すため、重要な身体部位ほど大きく描かれるところです。そのホムンクルスで他を圧倒するほど巨大化しているのが手。これが意味するのは、脳は手を使うために多くの面積を割り当ているので、手を使うほどに脳は活性化するということ……。
思い当たる節があります。仕事で人の話を聞くとき、僕は手書きでメモをするのですが、最近の若い子たちはスマホを使います。そのほうが速記できるらしい。旧式の僕にしたら「ひぇ~」だけど、しかしその場でデータ化したほうが後々便利なのは確かなんですよね。僕も、ごく稀に音源から文字を起こす場合はPCを利用します。ただし、それでデータ化した文字には思い入れが沸かないというか、物語性を感じられません。だから、いざ書こうとすると内容の凝縮や筋道の立て方に苦労します。
一方、手首を痛めながら大事なキーワードだけ記したノートを眺めると、不思議と相手の表情や声まで思い出せるのです。それは文字の大きさを変えるなど、自分なりの表記法が記憶の再現を助けているのだけど、何というか、リアルタイムでメモしている場面や、それを読み返すときには、手に脳があるような感じになるんですね。まさにホムンクルスの図そのままに。
いやまぁ、単なる慣れの問題だろうとも思います。あるいはスマホやPCを使っても指先は動かすから、それで脳が指先に宿るような感覚を覚えるのかもしれない。となれば、現代人のホムンクルスはまた別の形態を示す可能性もあるのでしょう。
それでも僕が信じられるのは、手を動かすこと。周辺機器がいくら進化しても、脳と確実につながっているのは身体の各部だから。旧式を改められない言い訳ではなく。
(今日の話、以下の工作体験が元になっています)

左は、5年前に購入したキャッチャーマスクの顎パッド。破けるし変な匂いがしてきたので替えたかったが、日本未発売モデルなので交換パーツ入手困難。そこで、右の一般的な顎パッドから代用品をつくることを決意。

切り貼りして完成したのがこちら。左右のずれはあるけど、使用に耐えそう。何をお伝えしたいかというと、「自分の手を動かしてつくろうと思ったオレ偉い!」です。

指先に侘しさ

こういう話題は、たとえお世辞でも「まだそんなことないですよぉ」と笑ってもらえそうなうちに喋ったほうがいいと思ったりします。
この冬の身体的悩み第1位は、指先のひび割れ。左右関係なく、特に人差し指と親指の頂点からやや下がった部分で多発しました。何の前触れもなくパカッと切れて、少し経ってから痛みが顕著になって、水に浸すとイラつく染み方をします。ひとまずの対処法はバンドエイド。貼っておくと治りが早まるみたいですが、気がつけば2箱ほど消費していました
それで支障が出るのがギター。痛みとバンドエイドで弦を抑えるのが困難になるのです。とは言え素人奏者なので大袈裟に語るまでもないのだけど、先月末の音楽祭的イベントの1週間前にもひび割れが起きたので、実はけっこうヒヤヒヤしました。
続く第2位は、これまた指先関連の爪。ギターを弾くために右手の人差し指から中指までの3本だけ意図的に伸ばしているのですが、人差し指と中指の爪は妙に割れやすいのです。人差し指の爪は、いつからか右半分だけ薄く弱くなったようで、何かの拍子でペランと倒れ込む。人差し指の爪には限界値があるようで、弦を爪弾くのにちょうどよく伸びてきた頃にど真ん中にヒビが入る。瞬間接着材では上手く補修できないんですよね。なので仕方なく、倒れ込みやヒビの根元まで切って再生を待つわけです。
ただし爪に関しては、音楽祭的イベントに向けて予防措置をとりました。マニキュア? ネイルって言うんですか? その類に爪の表面を強くするコート剤ってのがあると聞いて、イベントの2週間ほど前から塗ってみたのです。これは効きました。最初の塗布から1か月が過ぎても、いまだ爪が割れないどころか強化されている感じ。その絶好調がイベントの日に当たらない間抜けさには苦笑いが浮かびますが。
指先のひび割れも爪のトラブルも、以前にはなかったものでした。それがここに来て出るというのは、やはり加齢を疑う他にありません。もはや体内の潤いは末端まで届かないのでしょうか。そうしてまたひとつ諦めの溜息を覚えながら、久しぶりにコート剤を塗ってみました。乾くまで指先を眺めていたら、なんだか侘しくなった。ネイルって、本当は楽しい気分になるものなのだろうけれど。

こんなもん見せられてもお困りでしょうが、鈍い光沢と侘しさが染み込んでいる過程です。

陰鬱

まだ寒い時期だけにジトジト感が薄いのはましだけど、今週は梅雨みたいな天気が続きました。気分を漢字で表すなら、陰鬱。字面も字感も、底辺まで押し込まれて身動きできないイメージが強い。音も同様。普段から声が高い人でもこの熟語を読むときは、言葉の雰囲気に引き込まれて思わずローな声音になってしまうのではないでしょうか。声の低い人が発声したら、ホラーの始まりに聞こえるだろうな。
一方で対義語とされている明朗は、すべてがハイな印象です。終わりがロウなのは奇妙なダジャレみたいだけど、明るさを遠くまで放り投げるような清々しさがありますよね。偽りなきフェアな支払いを明朗会計と言いますが、食事を共にした人々と店を出た後の爽快感まで予感させてくれるので、悪くない表現だと思います。それが陰鬱会計だったら、その人たちとは二度と同じテーブルにつきたくない後悔を招きそうだ。
そんなわけで文章を書く身としては、陰鬱のような、周囲をダークグレーに染めかねない強い力を持つ言葉を用いる際には、相応の注意を払います。もし僕が書くものが、小説など自身の個性を存分に押し出せる作品であれば、グレーというより黒のグラデーションで統一した、読むほどに滅入る熟語を並べ続けることも可能でしょう(売れるかどうかは別として)。
しかし僕に与えられるのは、およそ商業的ライティングです。そこでは、個性が不要とまでは言いませんが、作品性はそれほど求められません。とにかく、広く伝わる読みやすさが大事。それを承知していても、書き手としては展開に振り幅を持たせたくなるし、文章に推進力を与える意味でも、それ自体に力が具わっている言葉を選びたくなるのです。
そうして、ひとつの気分を表現する上で類義語を知っていても、インパクト重視であえて陰鬱を使ってみる。その判断を下したときに大事なのは、一度低下した雰囲気を必ず引き上げられる明朗な次節、またはオチを用意しておくことです。そうでないと、僕の職域では買ってもらえる原稿にならないし、実は書いているほうもしんどくなります。
ではなぜ今週の終わりに陰鬱を用いたか? 今日の僕の町には、晴れ間がのぞく天気予報が出ているからです。ようやくウツウツした気分を干せそうで、かなりホッとしているんですよね。

濡れ続けたベランダの手すりに溜まった水滴も、もはや形態を保つのが億劫そうに見える。