物語のためとは言え

勝手な勢いにお付き合いいただくことになりますが、およそ昨日の続きです。
そんなわけで『Dr.コトー診療所』は、僕にとって生涯最高のテレビドラマなのですが、全話を観直すには相応の覚悟が必要になります。
おそらく医療ドラマの見どころは、医師という命と向き合う職業の深刻さともに、命に危機が迫っていく展開ですよね。架空の世界なので、そういう要素が遠慮なく繰り返し用意されなければ、人の興味を引かないのはわかっています。
『Dr.コトー診療所』も、基本的には医療ドラマの常套手段に則っています。ただし、登場人物の距離感が素朴なまでに密なので、そこに病が関わると、極めて重い責め苦を与えられたような気分になる。ただの視聴者なのに。
ネタバレ必至ですが、家族のように付き合う老人に始まり、無医村に招いてくれた世話人の家族。さらには最愛の看護師。極めつけは医師本人まで患者になっていく。だから、物語のためとは言えそこまで生贄を用意しなくてもいいだろうと、妙な怒りを覚えたりするのです。
この感覚、つまるところ物語の創作に向けた一種の嫌悪のようなものは、年々高まっている気がします。前に話した覚えがありますが、人が容易にたくさん死ぬドラマや映画を好まなくなったのも、その感覚の発露なんでしょうね。少なくとも空想の世界において、死によって展開を急いだり過激さを増すような展開は見飽きたんだと思います。そういう有体のカードを切らずとも、心を揺さぶる物語はつくれるんじゃないか。いや、僕の探索不足のせいだろうけれど、最近はその類にあまり出会えていないというのが事実です。
じゃなぜ辛くなる展開を知っていて同じドラマを何度も観ようとするのか? それはもう矛盾という他にないのですが、ある一定の周期でコトー先生に会いたくなるからです。あるいは、医療関連の物語でこれ以上しんどくなりたくないから、これを生涯最高と打ち止めにしたいのかもしれません。
そして改めて痛感するのは、僕にはこうした物語は書けないということです。登場人物を殺す勇気、自分には持てません。
とか、いろいろ言ってますけれど、今はあちこちで視聴可能ですから、よければぜひ。お薦めは、何と言ってもテレビの第1シリーズです。

本棚に残しておいた、懐かしい資料。

渡難

「これで何度目?」と呆れながら、繰り返し観てしまうドラマや映画があると思います。僕のそれは、『Dr.コトー診療所』。この1カ月余り、2003年と2006年のテレビシリーズ全22話と、その間に放送されたスペシャル版2本。さらには2022年に公開された映画のすべてを再鑑賞しました。執着が強いタイプなので、こういうのは一度取り掛かると途中で引けなくなります。
そして必ず、泣く。特にテレビ第1シリーズの第8話。医師としてやり直すため最西端の島の無医村に来たコトー先生が、この島で診た患者を始めて亡くす回ですが、どうしようなく落涙必至。思い出すだけでも感極まります。
20年近い年月を要したこのドラマは、最初から最後まで優しい湿り気を感じました。その類稀な空気を醸したのは、ロケ地になった与那国島の自然だったと思うのです。それをどうしてもこの目で見たくて、あれは確か第1シリーズが終わった翌年の秋。あらゆる手段を講じ、取材という形で訪れました。要は聖地巡礼ってやつです。
おおむね、あるがままの自然に満ちた場所でした。10月でもまた暑くて、けれどそれとなく風には湿り気があって。ただし島を巡る道路では、まず人と出会わない。その代わりと言ったら何だけど、おそらくタイトルバックでコトー先生が自転車を漕いだ海沿いの道には、放牧された牛があふれていました。よけきれないほどの馬糞だらけ。撮影時はどうやって片づけたんだろうと心配になるほどでした。
ふと道を外れれば、ジャングルと呼ぶに等しい森が待ち構え、漁港の堤防からのぞく海はどこまでも澄んでいて、色鮮やかな魚に手が届きそうに見えました。
2泊の滞在中、何度か訪れた食堂のおばちゃんが、お土産にと手渡してくれた泡盛も懐かしいです。その名前は、渡り難き島を意味する『渡難/どなん』
2016年3月、台湾有事への対応を目的に、与那国島に陸上自衛隊の駐屯地が開設されました。さらにここに来て、迎撃ミサイル部隊の配備計画も持ち上がっているそうです。そんなきな臭い流れを受けた島は、僕が見た20年前とは何かが違っているかもしれません。あるいは人も牛も。渡り難き場所にしたくないので、またいつか必ず訪れたいと心に誓っています。

最近はいろいろあるんだと、つい手を伸ばすのは良い癖とは言えないな。

お話にならない世界ランキング

「男女間の平等調査 日本 148か国中118位に」
これは、それとなく留め置いた、先月のニュースクリップのタイトル。毎年6月になると、世界経済フォーラムが各国のジェンダー不平等状況を分析した『世界ジェンダー・ギャップ報告書』を発表するらしいんですね。それを受けた記事です。
スポーツにたとえていいのかよくわからないけれど、下から数えたほうが早い世界ランキングなんて、お話にならないですよね。4種の指標をもとに格差を算定するそうですが、日本の教育と医療アクセスに関しては世界トップレベルなんですって。つまり、そこに男女の格差はほぼ皆無。極端に足を引っ張っているのは、女性閣僚の少なさによる政治参加。加えて、経済における女性役員不足も、さして改善されていないようです。
この件、自然と日本の国会議員に占める女性議員の比率に飛びました。2024年11月現在、衆議院は465の議席数に対して73名の15.7%。参議院は同じく240に対して61名の25.4%。約10%ながら、男女格差が小さい参議院のほうが健全っぽいけれど、その理由について分析した早稲田大学の研究リポートがなかなか興味深かったです。
かなり端折りますが、「参議院の権限が小さい」ことを伝えられた有権者は、参議院議員は女性候補者がふさわしいと判断する傾向が高まるそうな。また、「参議院からは実質的に首相が選ばれない」ことを男性が伝えられると、立候補意欲が下がる傾向に向かうらしいんですね。
結局のところ、衆参の男女比率然り、根付いて剥がれない男女それぞれのマインドが改まらない限り、ジェンダーのギャップは埋まらないのかもしれません。それに、議員であれ役員であれ、女性が半数以上を占めるようになるには、おそらく男女共々、その状況で働く環境に慣れるための時間も必要になるでしょう。であれば、男女間の平等調査で日本の順位が上がるのは、たぶんまだまだ先なんだろうと思います。
そんなわけで今日も結局は、来る参院選に関連した流れになりました。いまだ明確な投票先が決まっておりませんが、こうなったら女性というだけで投じちゃおうか。いやいや、それでは男性というだけ何かを選んできた経緯と何も変わらないよな。何かね、けっこう悩んでおります。

いよいよ明けるか?

「なぜあなたは?」

僕に任されるインタビュー取材は、主に仕事の領域で注目に値する成果を挙げた方がインタビュイ(話を聞かれる側)になります。そこで必ずたずねるのは、その仕事に就こうとした理由です。記事によっては、きっかけ自体をフューチャーしない場合もありますが、それでもやはり、始まりを聞かずして今を知ることはできないだろうと思うわけです。
そうしたインタビューのルーティンを続けていると、当たり前と指摘されるかもしれませんが、話を聞くたび感心してしまうんですね。たとえば、長く担当しているゴルフ専門誌のお仕事インタビュー記事では、それこそ当然ながら、誰もが人生のどこかでゴルフと出会っているという一定の条件が存在しています。ただし、挫折や失敗、ないしは外的要因の種類はもちろん、それらと遭遇するタイミングがまったく同じというケースはありません。
その一方で、振り返れば人生の転換期となった、その時点では点に過ぎなかった出来事に感化され、その後に訪れたいくつかの点を線としてつなげる労力を惜しまなかったところは、およそどの方にも共通しています。時には、あまりの運の悪さに言葉を継げなくなることもありますが、それでも踏ん張ってきてくれたからこそ、今僕らは会えているという事実がうれしくなる。その感動を伝えるのが、僕の役割だと勝手に信じ込んでいます。
というような職業観念をベースに、政治家になろうとする方々に話を聞いてみたいと思うのです。今度の日曜日は参院選で、清き一票を投じるための様々な情報を見聞きするのだけど、ほぼ毎度のことながら、というよりますます、どう選んだらいいかわからない。特に、個人は判別至難。だからこそ、まずは自分のために、「なぜあなたは立候補したのですか?」と、僕なりのトーンで聞き回り、誰かの役に立つ情報にできたらと。
そんなことしたって、結局は耳目を集める流行のトピックスを軸に、ありきたりのことしか口にしてくれないかもしれません。しかし、個人で発言のニュアンスは異なるはずなんですよね。その直感に訴える個別の雰囲気だけでも、投票の手助けになるんじゃないかと。
東京選挙区だけで32人の立候補者でしょ。聞けたなあ。まぁ、今となってはすでに手遅れですが、次にそういうお仕事があれば、積極的に手を挙げたいです。

無秩序が極まる向日葵。梅雨空に戻り、太陽の居場所が不明になったからかな。

「AIでちゃちゃっと」

「作文は一度、AIにちゃちゃっと書かせてみたんですよ」
これは知人の言葉。いわゆる転職の採用試験は、書類と面接による審査の他に、作文の提出があるそうな。それをテスト会場で書くのか、事前に伝えられたお題に沿って書いたものを送るのか、そのあたりは聞きそびれました。IT方面に詳しそうな気配を漂わせなかった人だけに、僕にとっては「AIでちゃちゃっと」というセリフが衝撃的だったからです。
文章書きが不慣れな人にすれば、誰かに上手にまとめてほしいと思うのは無理ないことかもしれません。そこでAI。なるほど。おそらく、包丁で行っていたみじん切りをフードプロセッサーが代行してくれるくらいの手軽さが、最近のAIにはあるのでしょう。
そう言えばいつだったか、フードプロセッサーが欲しいみたいな話をしました。実はまだ買っていません。あれば楽だろうけれど、その重宝さを実感できるほど料理に凝る予感がないから。あるいはそれ以上に、いまだヘタクソながら、包丁でみじん切りする技を追求するほうが楽しくなったところが大きいんですよね。
というような文脈からは、僕がAIを嫌っている感情がダダ漏れになると思います。職業的に恐れているのは、生身のライターとして一字一句まで神経を巡らせて書いた文章と、要点を入力してちゃちゃっと仕上げてくれるAIのそれに、どれほどの違いがあるかわからないところです。
いや、違いは出ると思うんですね。僕の癖はAIにはないだろうし、AIが真似するはずもない。ただ、どちらが選ばれるかは不明。課題がみじん切りだった場合、フードプロセッサーがもたらす均一な立方体が好まれるなら、どうしても粗みじんになってしまう僕は機械に太刀打ちできないかもしれません。
今日の話題、普段使用しているメールソフトが、「AIで下書き生成」という機能をしれぇっと追加したことに端を発しています。絶対に使ってやるものかと思っています。加えて冒頭の知人の試験結果も、いろんな意味で気になっています。

閉店して久しい、かつての典型だった角のタバコ屋。

All-Star Break

レギュラーシーズンだけで年間162試合もこなすメジャーリーグは、現地アメリカの日付で14日の月曜日から、オールスターウィークに入ります。
ここで言うオールスターとは、文字通り輝く星のごとく輝く選手たちが一堂に会して戦う特別な試合の通称です。ファン投票を軸に、メジャー30球団から60名あまりのプレイヤーが選ばれ、今年は現地時間の15日に行われる、年に一度のスペシャルゲームに臨むことになります。
いつからかリーグ別のユニフォームを着るようになったけれど、以前は各選手が各チームのユニフォームで参加して、そのバラバラな感じのお祭りっぽさに興奮したんですよね。
日本のプロ野球でも、7月23日と24日にオールスターゲームが開催されます。こちらの選手選出方法も、基本的にファン投票。ただし、あくまで傾向の範囲ということですが、投票結果には日米の違いが現れるようです。
アメリカの場合は個人の成績重視。前半戦で調子のいいチームから複数名が選ばれるケースも見られるけれど、それでも単に人気だけではスターの称号を与えてもらえないみたいです。対して日本は、時にファンの組織票によって、ひとつの球団から多くの選手が選ばれる場合があります。ファン投票なので、それはそれでよいのでしょう。でも、評価軸が個人と集団でわかれるのは、国民性をうかがわせるようで、なかなか興味深いです。
ちなみにアメリカでは、オールスターゲームが開催される今週を、All-Star Breakと呼ぶそうです。オールスターの約60名をのぞくメジャーリーガー約1200名にとっては、1週間近くレギュラーシーズンの試合がなくなるんですね。それで一時中断を意味するBreakが充てられるのでしょう。
そこで「休めてラッキー」と思うようなら、スターになれないんだろうな。本当は休みたくても、「選ばれちゃったので、ちょっと行ってきますわ」というような人に、人生で一度はなってみたいものです。何のオールスターでもいいから。

昨日の晴天写真から3時間後。やがてマンホールの蓋が飛ぶような大雨に。異変は雲が教えてくれるなあと思って。

ペリー提督と懐かしい痛み

アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督率いる4隻の蒸気船、通称“黒船”が東京湾の浦賀沖に現れたのは、1853年7月8日(嘉永六年六月三日)。その6日後の7月14日。通商条約の親書を時の将軍に手渡すため、提督自ら久里浜に上陸。そんなわけで、今日はペリー上陸記念日に定められているそうな。
襲来とまで表現された黒船のインパクトは、海外渡航に飛行機を利用するのが当然の現代人には理解できないものでしょう。たぶん、今日の東京にUFOが着陸するのと同じくらいの驚異と恐怖を感じたんじゃないかな。
いずれにせよ19世紀末の世界は、西洋諸国の海外支配拡大が盛んになり、鎖国という手法で国を守ってきた日本も、いよいよ時流から逃れない事実を突きつけられた。これが国際関係における黒船の意味。そしてこの事件をきっかけに、江戸時代は一気に終焉へとなだれ込むのです。
そうした史実はさておき、かつての僕はペリー提督に憤りを覚えていました。なぜ神奈川県寄りに船を停めたのか。もし千葉県側だったら、その後の千葉の栄え方、というより人気度が変わったんじゃないかと。
なにゆえ確定している歴史に怒ったのか? 最大の理由は、千葉県で暮らしていた当時の僕がオートバイで横浜に行くと、ナンバープレートを見た現地の人から「ああ」と言われるのが癪に障ったから。それはすべて、黒船を機に横浜が国際港として開かれたせいです。そうして浦賀や久里浜を含む神奈川全域が、オシャレな感じなのに海も山もある素敵な土地として認知されていった。千葉だって、横浜がないだけで海も山もあるというのに。
いやまぁ、黒船艦隊は先に琉球王国へ寄港しているので、西方から日本の首都が控える東京湾に入るなら、西寄りの三浦半島のほうが好都合だったのもわかります。けれどもし僕が時空を飛び越える能力を持っていたなら、木更津とは言わないまでも、せめて館山あたりにペリー提督を呼び込みたかった。
なんて詮無い思いに苛まれながら、逃げるようにして横浜から帰ってきたことを思い出しました。ペリー提督への恨みも含め、それはそれで懐かしい痛みです。

それが来る数時間前。予兆は雲の勢いに見て取れた。

 

「あんたバカ?」と呆れられるのを通り越して、「死ぬよ」と真顔で言われるほどになってしまった、この時期の屋外運動。「それでも」と言い訳するのもナニですが、暑い時期に体を動かして、盛大に汗をかくのはめちゃくちゃ爽快なんですよね。その点では、ウェアの身軽さも含み、冬に走るよりうんと好きです。
この汗、調べてみるとなかなかおもしろいヤツなんですよ。行動時でも一定の体温を保つために汗をかけるのは、哺乳類だけだと知っていました? その中でも全身に渡って汗腺を発達させたのは、ヒトとウマくらいなんです。
たくさんの汗をかけると何がいいのか? 運動時にこもる体内の熱を発汗によって放出できるので、持久力が高くなる。だから、イヌなら15分しか走れないところを、ヒトは2時間以上も走るマラソンなんて競技ができるんですね。ヒトが荷役用にウマを飼うようになったのも、長距離でもタフに走り抜く生き物だったからです。
汗による体温調節機能は、やはり進化によって得たらしい。サルとヒトの分かれ道は、樹上生活を続けたか否か。生存競争に負けたのか、あるいは好奇心が勝ったのか。後にヒトになる生物は森を捨て草原を歩き、食用の獲物を探す旅へ。しかし簡単に獲物が捕まるはずがないので、おのずと行動範囲は拡大。そうして方々歩く上で、汗をかいて体温を一定に保つ仕組みを手に入れたそうな。あるいは、ヒトの分布が全地球的なのも、発汗機能によって長大な遠征が可能になり、新たな住処を見つけることができたからなのでしょう。
大ご先祖が森を出た結果、僕は30度越えの中でもどうにか動くことができる。そんな恩恵について考えながら走るのは、なかなか悪くないです。しかし、獲物を探すためでもないのに屋外行動する意味は、大ご先祖様には理解できないだろうな。ましてや、地上の気温がこんなに高くなることも予想できなかったに違いない。
こういう時代に僕は、どんな進化を果たせるのだろう。そんな答えの出ない疑問が頭に浮かんだら、まずは休憩ですね。水が体を潤し、やがて汗に代わる循環を実感するのも、この時期ならではの醍醐味です。

声は絶叫する鶴瓶さん風だけど、粋な着流しみたいな羽色のオナガがいるの、見えます?

「オ兄サン、オ兄サン」

今いる場所がどこかわからないまま始まる夢は、わりとよく見ます。ただ、その中で聞こえてくる言葉が、自分では喋れず、耳にした覚えもない外国語のケースはまずありません。なのに、という話です。
夢の展開はまるで覚えていません。ただ、誰かが大きめの声でまくし立てていました。何を言っているのかさっぱりわからないのは、どうやらアジア圏の言語だから。韓国語の響きじゃないのは確か。中国語のようでもあり、もっと南の国の言葉かもしれない。いずれにせよ声は音量を増しながら、自分にのしかかるように響いてきました。
それ以上は耐え切れなかったんでしょうね。パッと目を覚ましたら、その声はカーテンの裏側という、現実世界で鳴り響いていたことに気づかされたのです。
再び、僕の住まいの大規模改修工事ネタ。姿は見えないその声の主は、ベランダに降りた作業員でした。当日の段取りを確認していたのかもしれません。いずれにしても僕の知らない言葉でした。しかもキーが高くてよく通る。午前8時半まで寝ている自分の非社会性を棚に上げ、ベランダに向かって「うるさい」とつぶやいてしまいました。それでも声が止まなかったのは、聞こえなかったか、意味が通らなかったからでしょう。
声の主が女性と判明したのは、コインランドリーに行くためドアを開けたときでした。
「オ兄サン、オ兄サン。ペンキ塗リタテ。服ニ着カナイヨウ、気ヲ付ケテネ」
外国人感を強調するため、片仮名多めのセリフ表記にしてみましたが、日本語は流暢でした。しかも親切な感じ。夢から続く声の主とわかったのは、キーの高さが同じだったからです。
こういう現場にも、あるいはこういう現場だからこそ、外国出身者はいらっしゃるんですね。言葉も覚えているし、確かな技能もお持ちのようだから、日本に来て長いのかもしれません。邪魔になるので控えましたが、この国で働くようになった経緯を聞いてみたかったです。
今度の参院選では、在留外国人に関する政策も論点のひとつになっているそうな。あの女性にとって不利にならない結果が出たらいいと、そう願うより先に、連日30度越えの環境で働く人々のご苦労を思いました。それでもフレンドリーだから、ことさら感謝が募りました。

出かけようとしたらこの状態。このサイズのカバー、あるんだね。

 

「壁ぇ~」

「イップスになる気持ち、わかりますよ」
気遣いがこもった言葉であることはわかっています。けれどイップスは、精神的な原因で特定の動作が突然かつ長期的にできなくなる状態なんですよね。差異が微妙なスランプも、原因の一部は精神面とされていますが、こちらはパフォーマンスが一時的に下がる状態を指すようです。
しかし僕のそれは、基本が身についていないのが原因だから、できたことができなくなったのとは違うんじゃないか?
そうしてこの残念な様子について検索していくと、いろんな専門用語が見つかります。プラトーは、あるレベルで一定期間成長が止まる状態のこと。脳の中にある短期記憶の容量がいっぱいになるのが理由らしいので、努力を続ける人ならだれでも起こり得るそうな。
原因不明ゆえ極めて深刻なのは、楽器奏者が見舞われるミュージシャンズ・ジストニア。普段の生活では問題が起きないのに、楽器を演奏するときだけ手や指の筋肉が思うように動かなくなるらしい。別名の局所性動作特異性ジストニアは、体の一部を酷使する執筆家やタイピスト、ゲーマーなどでも起こり得るそうな。僕の手首が痛むのは、そういうことなのかな。いや、キーボードを打つときだけ筋肉が強張るわけじゃないから、それもきっと違うな。
心理的な面を言い表したのは、認知心理学者の言葉でした。「defensive failure/防衛的な失敗」は、失敗を恐れるあまり失敗から身を守ってしまうこと。ここにたどり着いたのは、「したいのにできない」と検索した結果でした。
僕がしたいのにできないものとは何か? いくらかアカデミックな気配を漂わせた末に発表するのも気恥ずかしいけれど、キャッチボールです。野球の話題に散々触れておいて、そんなこともできないのかと思いますよね。僕だってそう。ゆえに悩んでいるのです。
明確な症状は、壁に向かってならけっこういい球が投げられるのに、人に対しては酷い球になる。これは、失敗というより迷惑を恐れてしまい、「防衛的な失敗」のサイクルから抜け出せずにいるからなのでしょう。
とどのつまり、基本を学び直し、ひたすら練習を繰り返す他にないんですよね。僕がそこそこできるものは、すべてそうして身に着けたわけだし。とか言っていても野球の試合は明日。今からでは間に合わないので、全員を壁だと思い込むマインド設定で臨みます。「壁ぇ~」って叫びながら投げてみようかな。成功したら、また報告します。

そんなわけで、冷房が効かず蒸し暑い室内でも練習しているのです。