切実ながらも頬が染まる河川敷の軌跡

毎日何かしらの記念日になっている律義さが微笑ましくなります。今日はお見合い記念日。「そんな日があるんだ?」とほっこりしそうですが、由来にはいささかナーバスな部分があったようです。
1947年の11月6日。名称からして胸に迫るものがある『希望』という結婚紹介誌が、多摩川の河川敷で集団お見合いを開催し、20歳から50歳までの男女386名が参加。今なら婚活パーティって呼ぶのなか。そこに集まった人々のほとんどが戦争によって婚期を逃しており、なおかつ当時の適齢期男性の多くは戦死しており、ゆえに参加者の大半は女性だったそうです。切ない話だったんでしょうね。
ひとつルールがあって、「これは!」と思う相手に対して最高3名まで身上書を申し込むができたとか。それを聞くと、何というかホッとします。どんな状況だって相手は選びたいだろうしね。
ちょっと計算してみたんです。その1947年の今日の出会いによって結ばれて、たとえば1年後に子供を授かったら、その子は今73歳になっているわけです。となればお孫さんなんかもいたりしますよね。お見合いというのは、そんなふうに家族がつながっていく奇跡の始まりなんだね。一度くらいしてみればよかったな。
奇しくも今日、僕は多摩川の河川敷に行きます。野球でね。74年前の切実ながらも頬が染まるような出会いの軌跡を感じてみようかと思います。仲良く散歩している老夫婦がいたら、もしやそうなのかもね。

ノラ発見。視線を感じていながら無視するのは彼らの性癖だね。

やはり絶望的な確率で

昨日のここで『ゴジラ』に触れましたが、身長が50メートル(後々100メートルになるそうな)もあるモンスターが突然都会に現れたら、そりゃもう確実にパニックが起きますよね。「迫りくる恐怖。逃げ惑う人々」みたいに。しかし物語は、最終的に怪物を退治する主人公をフォーカスして進んでいきます。ビルの下敷きになった群衆や、蹴散らされた戦車を操縦していた兵士の生死にいちいち構わず。そうでないと完結にたどり着かないから。もちろん主人公は、これ以上の犠牲を出さないためにあらゆる知恵と勇気を絞り出して戦うわけですが。
知識も経験も乏しい子供の頃は、何があっても生き延びる主人公の視点で物語に没入することができました。けれど大人になるにつれ、誰かの人生に光が当たるのであれば、それ以外の人々の人生に影が差すという演出の基本を学びます。その観点で映画のパニックシーンを見ると、自分は逃げ惑った末に絶命を余儀なくされる群衆の一人になるかもしれないと、そんな諦めを覚えたりもするんですね。何しろ主人公になれる確率は圧倒的に低いし。
とは言えフィクションに向き合うとき、たとえば『ゴジラ』の上陸一歩目で踏みつぶされるキャストにばかり感情移入していたら、もうぜんぜん楽しめません。そんなところに意識を傾けるならどうか見ないでくれと、僕が制作側なら呆れを押し殺しながら懇願します。注目してほしいのはそこじゃないでしょうから。
しかし現実世界でパニックが起きれば、誰をフォーカスするではなく、あるいは誰もフォーカスされないままの無残が実現してしまう。どんなに不意を突かれても冷静に対処するアクション映画のヒーローに憧れようと、筋書きのないリアルな混乱現場で無軌道に暴れるモンスターには手も足も出なくなってしまう。となれば僕などがパニックに放り込まれたら、やはり絶望的な確率で、身がすくんで動けなくなる名もなき群衆の一人になるんだろうと。
そんな嫌な妄想に迫れられる事件がこの世界にはあります。モンスターを生み出さないのが正しい社会であるべきでも、それが潜んでいると疑って過ごすべきなのが現実社会というのは、なかなかに気落ちしますね。

都心にも小さな森はあるね。

 

ゴジラが訴える祝日の意味

1日過ぎてしまいましたが、文化の日に関してもう一ネタ。
ハリウッドで度々リメイクされたり、日本では「シン」まで制作された『ゴジラ』の記念すべき第1作目の公開が1954年の11月3日でした。文化の日が生まれてから4年。GHQによる統制が解けて2年で怪獣映画をその日にぶっこんで来るなんて、これほど文化的な挑戦はなかった!
なおかつ物語の設定も意欲的でした。『ゴジラ』というのは、海の奥深くでひっそり生き延びていた古代生物が度重なる水爆実験で変異したモンスターなんですよね。それが居場所を失う形で東京に上陸し、街を散々破壊する。言うまでもなく、当時でわずか9年前の広島と長崎を襲った原子爆弾、というか戦争の悲惨さが記憶にしっかり焼き付いている中でそんなストーリーを世に出したというのも、今では想像できないほどの勇気が必要だったのではないでしょうか。
その1954年3月には、アメリカ軍によるビキニ環礁の水爆実験で日本の第五福竜丸など漁船数百隻が被曝する事件が起きました。おそらく映画製作中の“奇しくも”でしょうが、そういう新たな戦争の恐怖も『ゴジラ』は想起させたわけです。その観点に立てば、『ゴジラ』は反戦映画と言っていいのかもしれません。そしてまた人間の大罪のメタファに大怪獣を抜擢したのは、その後の日本文化に大きな影響を与えたと思うのです。
そのあたりからも、やはり文化の日は11月3日じゃなきゃダメだぞと、祝日の意味を尊ぶべきだぞと繰り返しお伝えしたくて『ゴジラ』を引き合いに出しました。しつこくてごめんなさい。

かと思えば道端では真っ赤な実が南の楽園みたいに激しく生ってる。秋は意外に忙しない。

枝葉末節的文化風行為の一環として

こうるさい頑固ジジイと嫌われても、これだけは文句を言い続けたい。とりあえず3連休を増やそうと設けられたハッピーマンデー制度は最悪だと。そんなもんがまかり通ったおかげで、意味を持ってその日に制定されたいくつかの祝日がただの月曜休みになってしまったなんて、思い返すたび腹立たしい気持ちになりませんか? いやまぁ、悪法をまかり通させてしまったのも、それを受け入れちゃんと休んでしまったのも僕らではあるけれど。これ、元通りにできるのかな? たぶん無理だな。
そこへいくと文化の日は、オリンピックがあろうとなかろうと、今年もちゃんと11月3日です。施行されたのは1948年。その日を選んだのは、1946年の同日に日本国憲法が公布されたから。そしてまた前年の1947年までのその日が明治天皇の誕生日を記念した祝日でもあったから。
それなら憲法記念日でもよかったのではないか? 実はそういう案もあったらしいんです。しかし、当時の日本を統治していたGHQが強硬に反対。天皇制の解体に躍起になっていた立場だけに、自ら草案づくりを行った憲法と天皇の誕生日が重なるような国民の祝日制定は避けたかったのでしょう。それにしても想像がつきませんね。1945年の秋から1952年の春までこの国に主権がなかったという状況は。
さておき、それでも11月3日を祝日にしたかったのは、当時の政治家の意地だったのかもしれません。憲法と天皇に紐づかないことを求められた末、新しい憲法が平和と文化を謳っているとして、文化の日という名称を捻り出したようです。とは言え、その憲法自体が完全オリジナルではないので、当時の心ある政治家の中には、ある種のねじれを後世に残してしまうことを憂いだ人がいたかもしれない。どうなんだろう。
というような話ができるわけです。意味を持ってその日に制定された祝日であれば。てな文句をことあるごとにボヤいていきたいです。枝葉末節的文化風行為の一環として。

真っ黄色になる直前の、薄く緑が感じられる様子も素敵。この写真で伝わるかな?

数字嫌いが説く数字の意味

あるいはそれ自体に意味がない数字について考えてみました。
前の首相も宣言したように、温室効果ガスの排出をゼロにする、いわゆるカーボンゼロの達成を2050年とするのは世界的な潮流だそうです。そのためにはまず、2015年にパリで開催されたCOP21(第21回気候変動枠組条約締約国会議)で採択された「世界の平均気温上昇を産業革命前と比較して2℃未満に抑える」という取り決めに従わなければなりません。その2℃未満は後に1.5℃に改められ今日に至っており、10月30日にイタリアで閉幕したG20サミット(主要20か国の首脳会議)でも、それら気候変動対策が重大な焦点のひとつになりました。
要するに世界的な会議の場では、参加する各国がそれぞれに様々な事情を抱えた上で、共通の目標を持つことを結論としたいわけですよね。特に、このまま放っておいたら悪くなるばかりの環境問題に関しては、科学に基づいた具体的な数字を示して。
ところが先般のG20サミットでは、カーボンゼロの達成について「今世紀半ば」という宣言に留まりました。世界的潮流が2050年を目指す中で、中国とロシアが2060年を主張したため、そうした曖昧な文言に落ち着いたらしい。けれど数字ではなく文字にした途端、目標に対する精度が明らかに落ちますよね。それで救われた首脳は少なくなかったかもしれないけれど。
ただ、2050年ですら今から29年後という近年です。今年生まれた子供は29歳。10歳なら39歳。20歳でも49歳。30歳だと今の僕と同じ59歳。いやいや、すぐに来ちゃうなあ。その程度の明日の具体的目標すら明確に定められないのが僕ら人類というのは、何というか、やはり残念という他にないですね。
何もかも数字で決めたくはない、というのは僕の個人的な見解です。もし数字だけですべてを判断されたら、僕などは生きていけません。しかしありがたいことにこの世の中は、どうにでも使い回せる言葉や文章で稼ぐ道を残してくれているので、今日も僕はご飯が食べられるのです。
そんな自分であっても、ここまで連ねた約850字の中で数字の記述は不可欠でした。数字自体に意味はなくても、前後の文脈でどんな意味を持たせるか。それもまた文章には不可欠な要素です。数字嫌いが言うと説得力は薄そうですが。
ところでG20サミットに引き続き、11月1日から英国でCOP26が開幕しました。首脳たちによる曖昧な宣言に対してどれほど鋭い数字を突きつけられるか、よかったらいっしょに見守りませんか?

こういうアナログティックな”卓”は消滅方向らしい。迫力あるのにね。

三振と灯台

それから丸1日が過ぎても、まだ失敗を悔やんだりするタイプです。土曜日の野球の試合で2三振。最初はスローボールでタイミングを狂わす投手で、次は草野球じゃ違反レベルの剛速球投手。すべては自分の技量不足が原因だけど、まぁいいように手玉に取られました。ちょろいヤツって思われただろうな。たぶんそれがいちばん心に引っ掛かっているんでしょうね。
頭じゃいろいろわかっているんです。ミスは誰にでもある。しかしそれを取り返そうと躍起になるほど同じか、または別のミスを犯す。大事なのは、ゼロ起点までリセットすること。さらに重要なのは、リセットは頭ではなく体で行うこと。いわば本能の部分で毎回新しい敵に立ち向かうように。過去の記憶にとらわれずに。
それを可能にするためには、体が勝手に反応するまで練習を繰り返さなければならない。じゃ練習するしかないじゃんと、そういうループをたどってまたどこかで手玉に取られ悔しい思いをする。
やれやれ、何でそんなことをしてるんでしょうね。これほどまでに非生産的な反復はないだろうに。でも、生産性を求められる仕事でミスを繰り返すわけにはいかないから、失敗の恐怖を趣味で体験しておくのは一種の学びになるのかもしれない。どうなんだろう。よくわからなくなってきた。
ここは切り替えが必要ですね。都合よく新しい月になりました。悔やみそうなことはよくな先月においてこよう。切りのいい11月1日は、例によって様々な記念日となっていますが、明治元年の今日に日本初の洋式灯台(観音埼灯台)が起工されたことから灯台の日に制定されているそうです。ヒットが打てる方角をぜひ照らしておくれ。いやしかし、ここまでくるといよいよ年末まで明るみになるそうですね。今年もあと2カ月とか、ちょっと考えないでおこう。

何度見ても惚れ惚れする建造物って、東京では他にないかもしれない。

買わない宝くじは当たらない理論

出掛けに支度をしながら見たので、もしかしたら間違った情報かもしれませんが、投票所でもらえる証明書を出すと、割引だか大盛だかのサービスを行う飲食店があるそうです。そのときは「ふ~ん」と流したのだけど、後になって、それって良いことなのかどうか考えてみました。
いろいろ頭を巡らせて、それぞれの立場の損得を勘定してみて、結果、これという答えは見つかりませんでした。その意味合いでは、僕にとってはやはり「ふ~ん」という反応がもっとも的確な気がします。
低迷気味と言われて久しい投票率。そうなってしまった理由の一つに毎度挙げられる若者の政治無関心は、ここに来て事情が変わったと聞きました。おそらくどんな時代もパンデミックが浮き彫りにするのは弱者の存在でしょう。そして今の若者の多くは、今回のコロナ禍で自分たちが弱者だと気付いてしまったというのです。
なおかつ予測される未来は必ずしも明るいものではなく、先に生まれた者たちのツケを一方的に払わされる可能性すら高まっている。それはやっぱり苦しいですよね。そういう人々がいよいよ政治に参加しようと個々の権利を行使し始めるのが今回の選挙になるそうな。
様々なサービスを利用する意欲が沸く性質ではなく、もはや若者でもない僕ですが、投票には行きます。叱られるかもしれませんが、買わない宝くじは当たらない理論に従って。このあたり「ふ~ん」と聞き流してください。

たぶん昭和の頃から変わっていない東京。プリンス&タワー。

引退に触れて

10月23日の東京ドーム、今季のジャイアンツのホームゲーム最終戦で2つの引退が発表されたそうです。一つは、プロになって17年目の亀井善行選手が現役を退くこと。もう一つは、東京ドームの場内放送係、いわゆるウグイス嬢を45年間勤めた山中美和子さんがその日を最後に退職されること。
いずれも観客に向けた試合後の原監督の挨拶で語られましたが、特に球場で働く人への長年の感謝をそういう場で伝えたのは素晴らしかったと思います。選手たちとグラウンドで記念撮影を行った姿も感動的でした。
亀井選手のセレモニーもよかったです。今年39歳なのでチームメイトからはオジサン扱いされていたそうですが、それは愛情の証ですよね。大記録を達成したわけじゃなかったけれど、常に存在感のある人だったな。そして言わずもがな、少なくとも年齢的な面でアスリート人生を全うできたという点で、優れた野球選手でした。それにしても、ベテランたちが去っていく時期なんですね。なかなかに寂しいです。
僕の今の願いは生涯現役。それゆえ引退のイメージは沸かない、というより沸かないように努めているところがあるのだけど、さて、その日はどうやって訪れるんでしょうね。件の2つの引退に触れて、こう思いました。あんなふうに感謝されながら辞められたらいいなと。いや、ライターの末期なんて華々しさの欠片もないのかな。やっぱり今は考えないでおこう。

地下鉄の出口のすぐ脇に国指定重要文化財。有章院霊廟二天門だそうです。

何かよくわからないけれど4Kセブン

しばらく控えるので、もう一回だけテレビの話をさせてください。NHK BSプレミアムで放送中の『ウルトラセブン 4Kリマスター版』。10月7日に第1話から第8話まで。翌8日には第9話から第18話まで一挙再放送って、そんな無茶苦茶なスケジュールがあるか! って怒鳴りました。現在は週に一度1話ずつの常識的な放送に変わりましたが。
それにしても最近のNHKってのはズルいですよ。この手の古い特撮番組がリアルタイムで放送されていた時代には、局にそぐわないからと手を付けなかったはずですからね。それを4Kだのリマスターだのと最新技術を謳って今見せるなんてさ、卑怯じゃない? 観ちゃうじゃない!
ウルトラセブンは、1967年10月から1968年9月までに全49話がTBSで放送されたウルトラシリーズの初期作品。巨大ヒーローが登場する前作の『ウルトラマン』が大怪獣を相手にしたのに対して、『ウルトラセブン』は地球侵略を目論む宇宙人との戦いが描かれました。宇宙人が日本語を話せるのもおかしなポイントだけど、対話できるところが特徴となったのか、けっこうシュールな演出が多かった。というふうに、当時5歳でたぶん全話を観た僕は記憶しているわけです。
特に有名なのは、第8話の『狙われた街』と最終話の『史上最大の侵略』。前者は、ウルトラセブンに変身するダンとメトロン星人が小さなアパートの部屋でちゃぶ台を挟んで対話するシーンの、あまりの奇妙さをよく覚えているんですね。さらにこの回は、ことさら陰影を強調するシーンも多かった。それは最終話もそうです。ウルトラ警備隊で共に戦ってきたアンヌ隊員に、自分はウルトラセブンだとダンが告白する場面では、背景が突如きらめく海に変わり二人の姿がシルエットで浮かび上がる。
そういう子供ながらも大人っぽくて贅沢だと感じさせた映像を見せてくれたのが、ウルトラセブンでした。
だから、「何だよ今さら」と愚痴りながらも観てしまった。観てしまったら、ツッコミどころ満載だった。宇宙人から地球を守るために創設されたウルトラ警備隊は、ウルトラセブンが侵略者を倒すと、終わりよければって感じで高笑い。そもそも簡単に宇宙人の侵入を許すほど隊施設の警備は甘いしで、珍しく画面に向かって指さしツッコミをする始末。その点ではやっぱり子供番組だったんだなあと。ただ、アンヌ隊員の不思議にエロい存在感は昔のままだったけれど。
そんなこんなで最後まで観ちゃうでしょうね。新たな発見もあるだろうし。一つ言えるのは、当時のフィルムの荒い画像のままだったらここまで関心を持てたかどうか。単なるノスタルジーを超えた興味を抱かせてくれる最新技術に感謝です。よくわからないけれど、4Kってスゴいんだね。

これくらいの高さなら高いところが苦手な僕でも大丈夫だろうと高をくくってみる。

”淡々”でよかった

今日はテレビの話です。朝ドラの『おかえりモネ』。いよいよ最終週に入りました。気付けばもう終わる、という感覚が実はありません。淡々と着実に物語を進めてくれたので、すべてを観終わったあとできっと程よい満腹感を与えてくれるのではないかと、そんなふうに期待しています。
ただ、このドラマの展開の“淡々”については意見がわかれるのではないでしょうか。東北に住む登場人物の多くがなかなか腹を割って喋らず、言葉を選ばずに言えばじりじり・もたもたしている姿は、朝から元気になりたい人には苛立たしく映るかもしれません。特に百音の妹の未知はその代表格かもしれない。何でそうなのよ? って何度画面に向かってつぶやいたことか。
でも、朝ドラにふさわしくない展開であれ、僕はこの物語の“淡々”が好きで見続けました。あくまで個人的見解ですが、東日本大震災から10年目の今年、ほぼ現在の東北を舞台にした物語をつくる上で、あらゆるキーワードの中から“淡々”を選んだのがこのドラマの個性になったと思うのです。あるいは、あからさまに復興を謳わなかったことも。
このドラマに登場する被災地には、今も静かに鎮魂歌が流れているようです。その重く沈んだ響きに縛られ続けている人がまだたくさんいる。実際の被災地が同じ状況かどうかはわかりません。ただ、架空の人物と同じような痛みに苛まされている人たちがいるだろうと想像させてくれたことが、変な言い方になりますが僕にはありがたかった。
いずれにせよ、心の奥底に仕舞い込む他にない人の痛みを理解するには時間が必要です。この『おかえりモネ』は、半年という放送期間をフルに活用して、ある意味でNHK的にわかりやすく紐解いていった。一方で多面性を重視した結果、主要登場人物の分だけ伏線の数が増えてしまった。それをこれまた淡々と回収しているのがこの2週あたりなんですね。いやまったく丁寧です。その辺の昨今のドラマにはない大らかさが原因なのか、視聴率は今一つ振るわなかったそうです。僕が好むテレビドラマはなぜかそういう傾向にあるけれど、まぁいいです。物語はそれぞれの心と対話するものだから。
これは書いておきたいのですが、モネを演じる清原果耶さんの、人の言葉を待つときに見せる横顔が好きです。自分を見つめてもらうより、その他人に向いた瞳を眺めているほうが彼女への好意が高まる感じ。
って、何を言ってんだか。残すは今日と明日の2話。ここに至って“じりじり未知”の伏線回収が始まって、淡々とはらはらさせてくれます。

直線恐怖症にしたら、この風景は地獄絵図だろうね。