幇助

ここのところ気になっている言葉の一つが、幇助。気になって調べても、誰かを納得させられるような見解が得られないのが常ですが、ひとまず小さめの風呂敷を広げてみることにします。
まず、空で書ける自信がない幇。この難しい漢字には、昔の中国にあった同業者や同郷者などで結成された相互扶助組合の意味があるそうです。その団結力の強い仲間を助け合う行為、またはその思いを表す形で幇助という言葉ができたのかもしれません。そんなわけで幇助には、援助・補助・力添えという心温まる印象を持つ類義語があてられています。
しかし僕らの日常では、そのような意味合いで幇助を用いません。理由はおよそ、刑法に沿った犯罪行為の一つというのが常識になっているからでしょう。この熟語を耳にするニュースではたいがい、その前に殺人や自殺と言った不吉な言葉を組み合わせて耳触りのよくない四字熟語としていることも、日常に取り入れたくない要因になっているのかもしれません。
あるいは刑法においても、幇助の概念はなかなかに曖昧らしいので、僕らに使いこなせないところもあると思います。
でも、僕が気になったのは言葉の意味ではなく、どこまでが罰せられる幇助となるのか、その線引きについてなのです。たとえば、今世間を賑わせているという、「マスコミの報道に追い詰められて死に触れた」とされる事件。この場合、それがどんな内容であれ誰かを追い詰めるような報道をしたマスコミは幇助罪に問われないのか? あるいは、その報道を好んで手に入れた人々はどうなのか?
これはおそらく、罪に問われないでしょう。けれど法廷では遠因として語られるかもしれない。要するに刑罰の外側という距離の遠さによって、無罪を宣告するまでもないただの状況に帰すると思います。しかし、道はつながっているような気がしてなりません。
以上は、自分が何かを伝えるメディア側にいるからこそ深く感じ入ることかもしれません。でもそれだけではなく、さして気に留めないまま誰かを追い詰め、その手に凶器を握らせてしまうような言動を取る可能性があるんじゃないかと、つまりは刑法的な意味合いの幇助は日常のそこここに潜んでいるかもしれない怖さにも思いが及びました。言葉遊びのようですが、援助に満ち溢れた世界ならいいんですけれどね。

見ただけではわからない外気の蒸し暑さ。我がオンボロのクーラーが快調でよかった。

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