柿と父親の話。過去記事がすっかり消えたのをいいことに、以前にも書いたネタに触れます。主旨は、しばらく会わないでいると好みが変わるという、たわいのないものです。
父親は柿が苦手でした。秋になったからと言って我家の食卓にしょっちゅう上がる果実でもなかったけれど、まぁ食べませんでした。理由は知りません。たぶん子供の頃に柿の木からもぎったのが酷い渋柿だったとか、そんな程度のことでしょう。ただ、好き嫌いがなく、というか母親が出す食べ物を拒むことがなかったので珍しいなと、倅としてはそういう記憶を持っていたわけです。
ところが、自分が実家を出てだいぶ経ったある日、見るのも嫌そうだった柿を美味そうに齧っている父親を目撃したんですね。目撃と言ったって、やはり母親が皮を剥いた実をいつもの食卓で口にしただけのことですが、何だか驚いてしまいました。なぜ食べられるようになったのか、聞いたんだっけ? よく覚えていないな。「食えるようになった」とだけつぶやいたんだっけかな。
この件でしみじみ感じ入ったのは、たとえ父親であろうと倅が知らないことはあるという事実でした。当然ですけどね。ただ、いつの間にか柿が食べられるようになった話が衝撃を伴ってよみがえったのは、父親が亡くなる前後でした。父親が加入していた写真クラブの方々から、「あんなことがあった」「こんな人だった」と初めて聞くエピソードを伝えていただき、僕はただ頷くことしかできなかった。親子というだけで何でもわかっているつもりでいた不遜を悟られたくなかったからかもしれません。
そんなこんなで柿を見ると、父親を思い出すという話です。奇妙なのは、父親ほどではないにせよ特に好物でもなかった柿を、最近の自分はわりと買ってしまうことです。先週の新潟でも、ふと立ち寄った道の駅で見かけたいかにも柿色の3個入りパックを、気づいたら手に取っていました。今さら似るのかと、何かね。証拠写真を撮る前に一気に食べてしまったのも、まぁ何かね。

実に小春日和。
