安定の基準において

立て続けに旅人の話を聞きました。旅そのものの定義は難しく、ゆえに何をもってして旅人と呼ぶかも不明ではありますが、彼らは旅をするために働き、一定額が貯まるとすぐさまどこかへ出かけていくそうです。しかし、その繰り返しでは生計がままならないので、旅をしながらできる仕事を見つけて、一人は画家になり、もう一人は写真家になった。
いずれにしても彼らは、安定した暮らしを送るため会社に勤め、定められた休日に趣味を楽しみながら、やがて家族を設け、その過程で出世など考える一般的な社会人ではないというか、社会そのもののかなり外側か、または外にこぼれてしまったように見えると思います。
けれど詰まるところ、「安定の基準は人それぞれ」に尽きるのではないでしょうか。これは伝えておかなければいけませんが、話を聞いた彼らは、自ら世捨て人や仙人になりたかったわけじゃないんですね。旅は好きだけれど、社会とのつながりを断つつもりはなく、むしろこの社会で自分の役割を見つけたくて、各々が得意な表現によって対価を得られる道を探りました。本当に世捨て人だったら、僕が話を聞ける機会もなかったでしょう。
などと書き連ねていて、彼らが旅をする理由がわかったような気になりました。自分には未知だった風景や人や暮らしの在り様に触れながら、我が身が果たすべき役割を探したかったのではないか? でもなあ、そんなふうに文字に固定しようとするほど真実から遠ざかるものなんですよね。現実的には、当人だって旅をしたい理由がよくわかっていませんから。
一人は、間もなくアフリカに飛ぶと言っていました。辺境に行けるチャンスをネットの中で見つけてしまって、ついポチッたらしいですね。となれば彼らの非社会的な旅は、僕が分厚い肉まんを食べたくて中華街まで車を走らせるのと、気分的にはさして違いがないのかもしれません。理解はし難いですが。
言うまでもなく僕は、「文章を書くだけで飯が食えるなんて」と世間から呆れられるというか、自ら呆れるような感謝を抱いている人間なので、彼ら旅人たちに共感できる部分は大きいです。要するに安定の基準において。それを語ったところでこの社会に貢献できるものは少ないでしょうが、旅人たちの話が一般的な社会に相応の刺激を与えてくれるのは間違いありません。それは僕が保証します。

整備が進む街で踏ん張るように残る雑多な景色。ホッとするけれどね。

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