カサカサ

月曜日の宮崎取材の、帰路の話。自分のグループを待って搭乗口の列に並んだとき、一人の老人が目に入ったのです。背は150センチ程度。なおかつ細身であるのが紺色のスーツのよれ具合から見てとれました。僕が気になったのは、そんな昔の人らしい“大は小を兼ねる”着こなしの奇妙さだけではありません。
その老人は、僕の視野に自分の姿を捕らえられたことなど気にも留めず笑顔を浮かべていました。すぐそばにいた母親が抱く赤ん坊を眺めながら。その母親たちとはまるで異なるいで立ちだったので、すぐに家族ではないとわかったものの、ただの傍観者にしてはあまりに無警戒な笑顔を浮かべる違和感が目に留まったわけです。でも、それだけ。誰が何を着てどんな表情で飛行機に乗ろうと、僕にとやかく言える権利はないから。
不意打ちを食らったのは、場面が機内に移ったときでした。そのよれたスーツをまとった老人が、先に通路側の席に座っていた僕の脇に立ちすくみ、今度はその視野に僕を捕らえたのです。
まさに予期できない状況でした。驚きのあまり、もしや「わしを目に留めた理由をゆっくり聞かせてもらおう」と詰められるんじゃないかと身構えたほどです。
ほんの束の間、事態の進展を待ちましたが、さすがに小説みたいな展開にはなりません。その老人のシートは、偶然にも僕と同列の窓側だったようです。遅れて席に着く詫びを身体に見合った小声で述べながら、僕の横をすり抜けて静かに腰を下ろしました。
その搭乗口では聞くことのなかった声も、なぜか耳に留まったのです。舗道に舞い落ちた枯葉を踏んだときに足元から聞こえてくるカサカサとした音によく似ていたから。老いれば誰もがその声に湿り気を失うのは避け難い。自分の母親も同様です。なので乾いた声音そのものが気になったわけではありません。
けれど、高齢者にありがちな心の声が漏れるような独り言をつぶやくときにも、あるいはトイレに行きたいのか通路側の席で眠りに落ちた僕を起こすときにも、そのカサカサした声は耳の奥まで届いてきたのです。気忙しさとは別次元というか。そもそも発言のすべてを聞き取れるほどの音量でもないし。ただ、誰かが落ち葉の舗道を歩いているのが遠くからでもわかるような、ある意味では経験則で身に着いている響きを、極めて場違いな上空で聞いたせいかもしれません。
最後にカサカサを聞いたのは、着陸15分前のアナウンスが流れたあとです。その老人はおもむろに機内誌の日本地図のページを広げて、やはり小声で「品川まで行けば……」とつぶやきました。羽田空港に着いてからの行動を再確認したのでしょうが、お馴染みの日本列島の平面図から品川が読み取れるかどうかは、本人に聞く以外にありません。もちろんたずねませんでした。よれたスーツをまとった老人が一人で東京に降り立つ目的について、僕にとやかく聞き出す権利はないから。

宮崎ブーゲンビリア空港展望デッキより。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA