癖の末路

昨日の話題の枝葉末節です。癖はおおむね、ないほうがよいとか、あるなら直せと言われがちな偏りとされていますが、聞き癖に関しては使いようだと思うんですね。ポイントは二つ。一問目を投じるタイミングを計ることと、相手が答えている最中は話に集中すること。
これが二大要素と自信を持って語れる背景には、人はそもそも教えたがりという僕なりの経験則があります。たとえば周囲から無口と評される人でも、あるいは防衛本能の裏返し的に自分の話ばかりする人も、本当のワタシを知ってもらいたいという本質的な欲求があるはずです。それをくすぐる場合、ポイントを心得ている聞き癖は有効なツールになるのです。言うまでもなく、あくまで業務上の話です。仕事でなければ自分の話しかない人とは距離を取りますから。
そうした教えたがりの本質を個人的に分析してくると、自分という人間の中にも本質が潜んでいる事実に気づくことになります。そのタガが恒常的に外れると喋り癖になるわけですが、僕はその癖を抑制してきました。理由の一つは、自分の意見や見解を極力控えるインタビュアが僕の重要な業務だから。もう一つは、口を開いた瞬間に説教臭くなるのが嫌だから。
20代ないしは30代の前半あたりまで、「将来どうなりたいか?」について考えても漠然とした答えしか浮かびませんでした。けれど、「どうなりたくないか?」はわりと明確でした。とにかく避けたかったのは、説教を垂れるような大人です。何かにつけ自分の経験談を持ち出し、それらしい教訓とされてもウザいだけじゃないですか。
ところが歳を重ね、周囲が年若ばかりになってくると、自分の口から転がり出る言葉のすべてが説教に転換してしまうんじゃないかと、そんな恐怖に怯え始めました。特に素直そうな若者が僕の話を「ふんふん」と頷きながら聞いてくれると、うっかり気持ちよくなっちゃうんですよね。だから「ふんふん」を見た瞬間、もしや説教臭くなってない? とたずねてしまうという、それこそウザい癖が身に着いてしまいました。
説教癖を持たない手近な策は、ひたすら喋り癖を抑えることでしょう。でも、それを頑なに守ろうとすると、心を開かない大人という悲しい存在になりそうです。果たして偏りが強い人間にはどんな末路が控えているのか? 考えると寝られなくなりそうです。

自分の住まいのとなりでも工事が始まったらしい。何ができるんだろう。

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