隠れて若作りに努める

ごく稀に遭遇する懐メロ番組で、半世紀近く前のアイドルが当時に近い衣装で歌っておられるのを見ると、すぐそばにいる人は何も言ってくれなかったのだろうかと、たとえば裸の王様の行列を遠くから眺める気分になります。
そしてまた、往年の代表曲をご披露される歌手の中には、かつてほど声が出なくなった方も少なくありません。加齢に伴って音域が狭くなるのは致し方ない。残念だけど、何事も昔のようにはいかなくなる。そうであれば、無理しなければいいのにと思いつつ、訓練されてこなかったのかなとも推察します。
その姿は見ている者に、少なくとも僕には痛みを与えます。それらは若作りの罪と言っていいかもしれません。
一方、いくつになっても声が伸びやかな歌手はいます。あるいはキーを下げて自分のヒット曲を歌う方もいます。キーを変えると楽曲の雰囲気はどうしたって変わってしまうし、それを承知するのは歌い手にとって勇気が必要でしょう。それでも現時点で歌えるベストを模索し、ひいては自分の年齢を受け入れることで、むしろ伸びやかな表現をする人に触れると、僕は尊敬せずにはいられなくなります。
これを若作りに対する若見えとするのは少し違和感がありますが、変に隠さず盛らず、あるがままの姿で自由にいるほうが生気に満ちて見える。それは間違いないでしょう。
まぁいずれにしても、ある人を評するときに「若」という字を用いてしまえば、現実的な若さの領域から外れたことを証明しますよね。僕も時々、「若々しいですよ」と年若に言われると困惑します。褒めてくれているのはわかっても、一種の年寄り扱いなのだろうと寂しくなるから。年長としてそれが嫌なら、若さ云々の話題にならない場の空気をつくるしかないんだろうな。
個人的に、誰かを痛める若作りはしたくないし、かと言って他人にどう見られるかは制御できないので若見えも期待しません。ただ、できれば何歳だかよくわからない状況を保ちたい。そのためにもっとも大事なのは、疲労感を出さないこと。何歳であれ、くたびれたヤツとは仕事したくないですもんね。オンボロでもポンコツにならないですむなら、僕は隠れて若作りに努める所存でおります。案外、必死で。

4年ぶりの花火大会。煙火は少し遠く、そして10月の夜は寒かった。

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