我が身の恥だけを笑ってもらうべき古い記憶

出身地や母校など、それぞれの生い立ちで動かしがたい事実というのは、自分の中の古い記憶を呼び覚ますきっかけになります。この週末に呼ばれた年少の友人宅で、参加者の一人が口にした学校名を耳にした瞬間、頭の中でパチンと大きな音が鳴りました。それが19歳のときに好きだった女の子の出身校であれば、自分自身ですらスイッチが入るのを止められません。
しかし、パチンと鳴った勢いで何でも自白するかというと、そこは年長者なので自制心が働きます。そもそも恋愛関連のネタを吐露するなら、我が身の恥だけを笑ってもらうべきだと思うんですね。何より特定の相手の感情や事情を一方的に説明するのは卑怯な感じがするし。
その上で19歳のときに好きだった女の子の話をしたのは、どこまでも僕の片思いだったから。これはいいですよ。相手を美化したままの情けないほどに美しい思い出なので、聞いているほうも恨みつらみの登場に身構えなくて済みます。
そんなこんなで頼まれもしないのに何十年も前の恥をさらけ出し、皆が一盛り上がりしてくれたあとで、こんなことを思いました。あの子は今どうしているだろうと。
まぁ、感情としては当然の流れですよね。ならば会ってみたいかというと、それはいいやというのが常の結論です。あれから長い年月を経て、同い年だったあの子も還暦を過ぎ、あるいは孫がいるかもしれない。そんな姿を見たくないというのも、同じ歳を重ねた自分を棚に上げた、一方的な卑怯に他なりません。いやまぁ、自分の思い出だけ美しいままにしたいというズルさが恥の本質なので、それを引きずったまま完結しないと笑ってもらえませんが。
このタイミングで古い記憶を呼び覚まされると、否応なく年の瀬感が高まります。結局のところ、何のかんの年末は人と会うとホッとするというオチです。しかし、話を具体的にしたほうが伝わりやすいという職業的サービス心から、好きだった女の子の実名を出したのは失敗しました。これでまた若者たちにいじられてしまうなあ。

電飾をまとってもらった木もあれば、禿げて忘れられる木もある。禿げは関係ないか。

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