長い仕事の最後に

今となっては後出しジャンケン的な指摘を受けそうですが、予感が当たってしまった話をします。
少なくとも日本でいちばん有名な通訳の、それこそ今となっては最後の姿をテレビで見かけたとき、ふとこんなことを思いました。彼はそこでいつまで働けるのだろうと。そばにいるべき相手はかなり現地の言葉を話せるようになったみたいだし、この先さらに自力で深いコミュニケーションが取れるようになれば、遅かれ早かれ通訳が不要になるのは自明の理。そんな時期が来るんじゃないかと勝手に推測したのです。
これは、業務のすべてを個人契約している職業的危機感が発した心配なのでしょう。もちろん件の通訳の契約内容は、額を筆頭に僕のそれとはまるで違うはず。それでも、長年続いた仕事が終わるというのは、経済的不安だけでなく、すぐには解消できない寂しさにも襲われることは僕にも想像できます。だからこそ、特に継続期間の長い契約または仕事が終わるときには、よいお別れをしなければならないと思うのです。
けれどそうはならなかった最後を、僕もいくつか経験しています。分かり合えなかったというよりは、ある種の裏切りを感じて、けっこうな額の仕事を自分から切ったこともありました。受け手のフリーランサーとしてはあるまじき行為だし、自分の潔さに痩せ我慢しつつ大口を失ってしまう恐怖にも怯えたけれど、それはおそらく潮時だったのだと思います。
そんな行きつ戻りつ引いては満ちる折の連続を体験させてくれるのが、長く続く仕事の醍醐味なのかもしれません。逆説的には、どんなに長くても終わりを迎える事実を教えてくれる案件と言えるでしょう。ありがたいことに僕を支えてくれるのは、10年超のお付き合いをさせてもらっているクライアントばかりです。それらからも何らかの理由で解雇される日が来るでしょう。そのタイミングにこそ、ベストを尽くせたと胸を張りたい……。
なんてことまで考えたのに、例の件は僕の予感の甘さを嘲笑うような急展開を見せました。だから余計に残念というか、残念という感覚さえ当てはまりません。長い仕事にはそんな衝撃的な最後もあるんだという、まるで隕石の落下を目の当たりにした気分です。

昨日はオートバイのお仕事。巨漢相手だったけれど、晴れてりゃ問題なし。

 

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