一個人のレベルで

今日3月29日は、志村けんさんの命日。2020年でした。あの頃は新型コロナウィルスの猛威が徐々に現実のものとなり、けれど僕などはマスクせずに外出して、まだ事態の深刻さを理解できていませんでした。そんな中で誰もが知っている志村さんが亡くなってしまい、ついにパンデミックの恐ろしさを知るのです。見方を変えれば、志村さんが世間に大きな警告を促したことになるのかもしれません。もちろん、ご本人の望みではなかったはずですが。
親族の方々は、見舞いにも行けず、お葬式もできないばかりが、火葬に立ち会うこともできなかったんですよね。その経緯が報じられたときも、状況の著しい変化をただ黙って見守る他にありませんでした。
そういうことかと自分事になったのは、それから2年くらい経ったのちに母親が緊急入院したときでした。緊急と言っても当人に不調の自覚はなく、定期的な診察の際に内臓方面の数値の悪さを指摘され、医師が即座にベッドの空きを確認したという、母親も僕も狐につままれるような入院でした。
この時期もまだ見舞いは許されず、僕が立ち入れたのは病棟の受付まで。そこで病室へと案内される母親を見守ったとき、志村さんの件を思い出したのです。高齢なので最悪のケースが頭を過り、ひとまず最後に見た母親の姿が不安で一層小さくなった背中になることを覚悟しました。まぁ、3週間で退院して、その後はより元気になりましたけれど。
ここに来て、なぜかあの閉塞感に苛まれた日々を思い出す機会が増えています。そして思い出すほどに、その異様さを再確認することになるのです。いささか大袈裟に言えば、人類全体として得た経験値は大きかった。しかし一個人のレベルでは失ったものも大きかった。
事件や事故、あるいは新たな病気のニュースに触れるたび、無事に生きていくのが難しい時代なんだろうかと嘆いたりもしますが、それぞれ一個人レベルで今日も健やかに暮らせたらと心から思います。志村さんのご冥福を祈りつつ。

たぶんアロエ。雨粒を受けて瑞々しいなあと思って。

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