○○のように

「○○のように」という憧れは、とても大事なものだと思うんですね。何かを始めるきっかけとしてはもちろん、その後も続けていくモチベーションの源泉、または時々の自分と比較するための指標として。
それらがもっとも明快な領域はスポーツでしょうか。サッカーであれ野球であれ、スター選手のプレーを見て、まるで一目惚れの恋に落ちたみたいに「あんなふうになりたい」と思って同じ競技を始める。気付けばプレー以外の振る舞いまで気になっちゃって、そっちの真似が上手になったりする。本末転倒だろうけど、気持ちはよくわかります。
最近の話で言えば、「大谷翔平選手のようなホームランが打ちたい!」なんて記事が出ると、草野球をやってるオジサンたちが色めき立ちます。わかっちゃいるんですよ、どうあがいても無理だってことは。でも、「大谷のように」という憧れというか幻想は、ごく普通の暮らしに小さな明りを灯してくれます。それが大事。そうなれるか、そうできるかよりもはるかに。
あるいは、可能性が無限でも経験の幅が狭い子供より、あれこれ現実を知ってしまった大人のほうが憧れを失ってはいけないと思ったりもします。人に言えば笑われそうでも、憧れに背中を押してもらいながら今とは違う者になろうとしたり、違う場所に行こうとする衝動こそが、モチベーションの源泉になるはずだから。
僕であれば、少し前にも書きましたが、音楽のような原稿を書きたいという憧れを持ち続けています。ただ、どういう原稿が音楽のようなのかは、自分でも正しく説明できません。ひとまずのところ、センテンスの長短や読点を打つ位置でビートやリズムが出せるよう努めますが、それでメロディやグルーブを感じてもらえるかと言ったら、独り善がりになっているケースのほうが多いかもしれない。
それでも、僕がこの世でもっとも素敵な瞬発力を伴った表現と信じている音楽が授けてくれる感動に近いものを文章で表せたらと、奇跡を願うような思いを抱いているのです。そうなれるか、そうできるかは言及しないでくださいね。あくまで、僕にはそうしたモチベーションが必要という話ですから。

先月の終わりくらいからハロウィン気分で微笑ましい。

 

イガの不思議

昨日は北西にクルマで約3時間の山へ。気持ちいい広場の真ん中に栗の木が植わっていました。その真下にはイガ栗がごろごろ。落ちて割れた中には、マットなのに光沢のある実がパンパンに詰まってる。こういう感じだったよなと近づいて、めちゃくちゃ細いイガの先端だけをつまもうとしたら、これがすっと指先の肉に差し込むのです。血が出たんじゃないかと思うくらい痛くて、オレは本当にこういう感じを知ってたのかと、しばし自分の記憶の曖昧さを呪いました。
ではなぜ栗にはイガがあるのか? そんなに鋭利ってことは、動物に実を食べられないための防衛策と考えるのが合理的ですよね。その広場の持ち主は靴の裏でイガを割って実を獲っていたけれど、そんな器用な真似ができるのはたぶん人間くらいでしょう。ゆえにそれ以外の生物、たとえば木の実を好む鳥は容易に近づけないはず。
ところが、防衛策には反論があるようです。ゾウムシの一種はイガをよけて実に卵を産みつけるそうな。ゆえに完全な防衛には至っていないというのがその根拠。ただしそのゾウムシの一種は、イガが青さを保った柔らかいうちに産卵を済ますらしい。ということは、彼らだけは栗の生態を知っているんじゃないだろうか。なおかつ、やがてイガが硬くなったら完全無欠のシェルターとなり誰にも襲われず子孫を残せる技を代々受け継いでいるんじゃないだろうか。
結局のところ、なぜ栗がイガを持つのか、ある特定の虫だけがイガを避けられるのか、その真相を人間はつかんでいません。あくまで合理的な判断を下す他にない。
確かに、わからないことだらけですよね。よく思うのはタンポポの綿毛です。風に吹かせてここではないどこかに種を飛ばすための手段とされていますが、その成功を誰が見届けたのか。誰が次世代に報告したのか……。実に不思議。タンポポに直に聞いてみたいけれど、「まぁ、そういうもんだ」とかわされそうだな。
知っておくべきこともありました。栗の実とは、いちばん外側の鬼皮と、その内側の薄い渋皮を指すんだって。僕らが実だと思ってホクホク食べているのは、何と種らしい。栗っておもしろいヤツだな。何てことを調べつつ、へぇそうなんだとフムフムしながら帰ってきました。

地面に落ちるときにボゴッて音がする。かなり重いから。真下にいたら頭頂部に刺さるね。

未来は過去からやってくる

説教臭い大人になりたくないと思いながら生きてきましたが、伝えたいなあという件があるので、嫌われないよう注意しながら話します。「未来は過去からやってくる」。一言にまとめれば、そんな感じ。
あるメーカーに勤めていた方が退社を決めたタイミングで、こんなことを言ってくれました。
「これから始める自分の事業でお願いできることがあれば、必ず連絡します」
もうその時点で十分にありがたい。身に余る光栄ってやつです。ただ、すべては正式な依頼を受けてからの話です。どんな願いや希望も、日々の事情で変わっていくものだから。なのでこういう場合は、お気持ちに感謝しつつ、そういう日が訪れるのを待つ他にありません。たとえ自分に依頼が来ずとも、その人の新しい道に光が射すことを心から願って。これ、綺麗事に聞こえるかな。でも、個人事業主なら誰もがそういう気構えでいるんじゃないでしょうか。
そして、あれから2年近く経つのかな。先日その方から突然「いよいよお願いできそうです」と連絡が来ました。この案件ならあんた以外に頼めそうな人を知らないし、やっぱりあんたの原稿が好きだからと、そんなことまでおっしゃっていただいて。わりと寝起きだったのに「うう」ってなっちゃいました。もらい泣きしてくださってもいいですよ。
電話を切って鼻をすすった後で、改めてこう思いました。僕らは、成果または結果という過去でしか判断されないのだと。その方が僕の仕事の何を気に入ってくれたかはわからないにせよ、あらゆる時々で可能な限りの全力を発揮しておかないと、こういう未来につながらないのだと。これ、自慢に聞こえるかな。僕としては責任感を伴った自負を話しているつもりです。
とは言え、今となっては過去の正当な評価は不明です。もっとよいものを提供していたら、現在の僕はこうじゃない場所にいたのかもしれない。それもまた不明です。そんなことより時間が経っても自分を思い出してくれたこと、その一点だけでも稼業冥利に尽きますよね。
ですから若い皆さん、最近はキャリアパスだの先々を考えるような言葉や意識が方々で出回っていますが、まずは目の前の仕事に全力で向き合い、現在最大限の成果を出してください。きっと未来の自分が感謝するはずです。これは信じていい。
って、説教臭くなってない? 大丈夫?

10月半ばの紫陽花。骸感、いよいよ高まる。触るとカサカサ。

首都圏の子

答えが定まらないまま書き散らかすのは毎度のことですが、今日のテーマもそうです。ひとまず、僕には上京感がないというところから話を始めます。
いよいよ佳境を迎えるらしい朝ドラの『おかえりモネ』ですが、ここのところの主人公は自分がやりたい仕事のために東京へ出て、お天気お姉さんになってそれなりに周知された上で生まれ故郷の気仙沼に戻ってきているんですね。詳細はこちらをご覧ください。
でもってモネは、自分がやりたいことを果たすなら地元がいいと決断して帰京したわけですが、軽いバッシングに遭うのです。「東京で成功していたのに何で帰ってくるんだ?」と周囲は冷ややかな言葉を浴びせ、親友にすら「綺麗事にしか思えない」などと言われてしまう。大丈夫かモネ? と心配させる演出にハマりそうになりつつも、僕には地方~上京~帰郷の流れの中に潜んでいる心情を理解する要素がないので、ちょっとだけ置いていかれた感を覚えました。ドラマに対するクレームや批判ではありませんよ。どうあれ最後まで見届けるつもりでいますし。
東京で生まれて、千葉で育ったのちに神奈川に移って、今は東京に住んでいる僕は、いわば首都圏の子です。ゆえに上京の必要に迫られたことがありません。あるいは、一極集中による都会ならではのあれやこれやに驚く機会もなかった。こういう生い立ちだと帰属意識が薄くなります。たとえば宮城県出身の人が口にする東北人とか、はたまた熊本県生まれの人が九州人のプライドを語るような、地域に対する愛情みたいなものが芽生えたことがありません。そもそも首都圏の子って聞かないでしょ。
その心情が根差しているのは中途半端さです。都会への憧れもなければ、地元への執着もない。これはこれでなかなか詮無いものです。だからモネのように(一時的な懐疑に晒されようと)都会から戻ってきて「おかえり」と言ってくれる人や場所があるのは、子供の頃からうらやましいと思ってきました。
そういう気持ちを小説やドラマや映画で何度も抱かされ続けてきたってことは、どちらかと言えばこの世界には地方~上京~帰郷に共感できるものを持つ人が多いのかもしれません。首都圏の子が主役になる物語とか聞かないですよね。中途半端なんて、きっとおもしろくないよね。

007のテーマ曲の最後に使われるらしいEmM9。不穏な響きなのでスパイコードと呼ぶそうな。

憧れの現場で

凄いなあ。カッコいいなあ。やっぱり憧れるなあ。これが僕の音楽観。
先週末、あるアーティストのレコーディング現場を見学させてもらいました。いわゆる仕事です。役得系のね。その日はドラムパートの録音。緊急事態宣言が明けてスタジオも稼働できるようになったけれど、いまだコロナ禍ゆえ各担当が集まって「せぇの」で音が出せないので、今回はパート別での作業となったそうな。
でもってそのドラマーもまた、ちょっとくらいの音楽好きでもその名を知っているはずの日本代表選手級の凄腕です(名前を言いたい!)。僕もこの方の生演奏を聴いたことがありますが、ドラムがフューチャーされると打楽器なのにメロディを感じるんですよ。これには背中がゾクゾクしました。ご本人は、「棒で打ち付けるなんて、こんなに野蛮な楽器はないよね」とおっしゃっていましたが。
ドラムのあとは、女声コーラスパートの録音。約束の時間にボーカリストが訪れて、ざっくばらんにお喋りしたあと、すっと歌い始める。まったくもってさり気なく。
詳しい段取りはよくわからなかったのだけど、ドラマーもボーカリストも事前に音源や楽譜を渡され、こうしてほしいリクエストを受けているのでしょうが、スタジオに来てすぐさま望まれる以上の仕事をする姿があまりにカッコよかった。それが可能なレベルの超一流だと理解はしていても、目の当たりにすると言葉が出てきません。たぶん、持って生まれた才能に加えて不断の努力を怠らない成果なんでしょうね。そしてまた、そういう人だからこそ引く手あまたになるのだと思います。
叱られるかもしれませんが、音ってどうにでもなりそうですよね。譜面通りに奏でられるなら誰が演奏したっていいのかもしれない。でも、「こうでなきゃ」というものが必ず存在していること、僕なりに知っているつもりです。だからこそ(少し論理が飛躍しますが)、僕は僕なりに音楽のような原稿を書ける人間になりたいと思っているのです。現時点ではミスタッチばかりですが。
それにしても、スタジオの端っこに座って流れを見ていただけなのに、何だかレコーディングに参加したような気分になり、やがて完成するアルバムが自分のものになった驕りが芽生えました。憧れの現場に対する冒涜かな? いやでも、今回は許してください。発売時期が迫ったら、今度は実名入りで紹介します。

あとで聞いたら、実はとんでもなく貴重なセットなんだそうな。

 

 

 

 

 

職務質問

「街の防犯にご協力ください」
そのセリフはちょっと違うだろうと思ったけれど、異を唱えず依頼通りにご協力しました。いわゆる職務質問ってやつです。日曜日の晩、というのは午後9時を少し過ぎたところ。場所は公園の駐車場。午後7時から2時間の野球の練習を終えてクルマに戻り、道具を仕舞って走り出そうとしたら、ヘッドライトも点けていないパトカーがぬっと現れました。その瞬間、こりゃ来るなと。
形状や大きさのせいなのか、自分のクルマに乗っていて職務質問される機会は過去に何度もありました。警察官職務執行法第2条を意訳すると、警察官の判断で何かヤバそうなヤツ、あるいはヤバそうなことをしたと確信できたヤツを止めて問い質す行為を職務質問と定義するそうな。ということは僕のクルマは、あるいはそれに乗っかっている僕は、彼らにとって職務を執行する対象になるのでしょう。まったくもって失礼な話ですが、昨日のここで書いたように「こうでありたいMeとこうであろうYou」が異なる通例に従えば、そこは一旦相手の見え方を受け入れたほうがよいでしょう。というか、経験値で言えば得策です。特に警察官の場合は。
無駄な抵抗をすると拘束が長くなる。これが結論。とは言え、公権力の横暴さに対して文句を言いたくなる衝動も沸きますよね。そんなこんなで若い頃は、それこそが市民の主張と無駄な抵抗を何度もしました。特に交通違反。取り締まりの仕方に納得がいかない等々。この場合はプライドが顔を出します。
あれは女の子をバイクの後ろに乗せていたときだったな。通行区分違反か何かで止められて自分の主張に時間を費やしたら、女の子にすっかり呆れられたことがありました。それで悟りました。男の意地は女に理解され難いものなんだと。
さておき、これまた経験上、何を言っても職務を遂行するのが警察官ですから、そんなところにライトを当てたってヤバいブツなんか出てこないよと思っても、一通り仕事をさせてあげるのも善良な市民の務めってやつです。あれこれ罵声を浴びせられたりもするのだろうと、そんな察しもしました。若い頃の自分を棚に上げて。
それでもやっぱり、僕や僕のクルマに時間を割くことが街の防犯につながるとは思えないけどなあ。そんなにヤバそうに見えるのかなあ。

言葉は通じずとも、「だから何だよ」って言いたげなのは伝わるね。

 

こうでありたいMeとこうであろうYou

初めてお会いした方に「格闘家みたい」と言われました。ふむふむ、そっち方向ね。あえて残念ながらと申しますが、わりとよくあるパターンです。特定の人物に似ていると評されることも少なくありません。その方に対して特別な思いはないけれど、たまに写真など見て自分と見比べてみて、そうなのかなあと首を傾げたりします。おそらく、不服とまでは言わないまでも納得はできていないんでしょうね。元々が傲慢なので、誰かに似ていること自体が好きじゃないのかもしれません。
それにしても、格闘家。荒くれてる印象ですかとたずねたら、ガタイがよく見えるからなんだそうです。僕がイメージする格闘家は、今の自分よりはるかに筋肉が盛り上がった大きな体を持ち、なおかつ近寄る者立ちどころに斬り倒すような鋭い眼光をその顔に具えている人です。だから、自分とは似ても似つかないはず。
ポイントはそこなんですよね。自分と他人のイメージは、おそらく90パーセント以上の確率で交わらない。要するに、こうでありたいMeとこうであろうYouは異なっているわけです。ゆえに、こうでありたいと願うMeの気持ちはたぶん誰にも伝わらないから、極力口にしないほうがいいのではないか。だって、そんなに線が太いわけじゃないと思っていようと、格闘家に見えてしまうというその人のイメージを止めることはできないから。
これこそが本質的な残念かもしれませんが、こうでありたいMeの承諾が周囲から得られない事実に対しては諦める以外になさそうです。そうしてとことん諦め続けて、どう見られようと仕方ないというある種の境地に達したとき、人は本当の自分を悟るのだろうと、今はそんなふうに考えています。だいぶ近づけたと思っていたんですね。ところが不意に格闘家と言われて、意外にがっかりして、おやこれじゃダメじゃんと小さく肩を落とした週末でした。
関係ないけれど、さっきまで今日は休日だと思っていました。

ホームと車両、先に延ばそうとしたのはどっちかなあと思ってね。

 

結果オーライ

優れた経営者は結果オーライを認めないそうな。最大の理由は、再現性が極めて低いから。良きにつけ悪しきにつけ、およその結果には原因が存在するので、その辺の事実関係を正しておかないと会社経営の舵取りなんてできないと言います。つまり「ま、いっか」はあり得ないと。
そうだろなあと納得する一方で、となると個人経営のフリーランスであっても仕事量に波は付き物なんて口にするのは言い訳なんだろうと思わされます。波が発生する理由をちゃんと突き止めたこと、ないもんなあ。
そうした文脈に添えば、ここ最近の新規感染者数の著しい減少も結果オーライで済ますのはおっかないってことになりますよね。専門家の間でも理由はわかっていないらしい。ワイドショーなんかを見てると、「もしやウィルス自体が弱体化を進行させたのですか?」などと希望観測的な問い掛けが繰り出されたりもして、でもやっぱり専門家は「そうではないだろう」と不確実な対応をする他になく。けれど素人にすれば、拡大したときは感染対策が甘いとか、感染力が強い新しい株のせいだとか具体的な理由を聞かされたわけだから、逆の場合も何か教えてほしいと思うわけです。
過去の記事が消えたのでもう一度書きますが、昨年の冬前にはインフルエンザとの二重感染が危惧されました。ところがインフルエンザの流行は起きなかった。「多くの人が新型コロナ感染を恐れて手洗い等を励行したからだね」みたいな、いわば結果オーライ的な話でそれとなく片づけられたけれど、実は新型コロナ向け対策が一般化する少し前からインフルエンザは静かに影を潜めていたそうです。その理由もまだ聞かされていない。たぶん、どなたかが研究されているとは思いますが。
いろいろ考えてみると、やっぱり結果オーライは疑ってかかったほうがいいものかもしれません。再現性が低いんじゃ胴元が負けない博打と同じだろうし。じゃ、幸運なんてこの世にないのかと問われたら答えに窮するけれど、それはそれ、これはこれ、じゃないですかね。

右と左、助かる確率が高いのはどっち?

 

 

誰が脆くて弱いのか

7日22時41分に千葉県北西部で発生したという地震。首都圏を襲ったことでメディアはこぞって報じましたが、遠い場所に住む方々にはそれこそ遠い話に聞こえたかもしれません。それでも最大震度5強ともなれば、やっぱり慌てます。僕はそのタイミングで自宅にいて、「こりゃ来るか?」と思った瞬間に跪いてテレビを押さえました。部屋の中で唯一倒れそうなのが脚の弱いテレビなので、これはいつものパターンです。
グラグラしている間は何人かの顔が浮かびました。その中でもっとも心細さを感じているのは母親だと思い、揺れが収まったところですぐに連絡を。無事を確認し、何の根拠もなく「もう大丈夫」と断言して電話を切りました。少なくとも僕の町ではそのくらいの冷静さを保てる揺れ方だったと、逆説的にはそう言っていいかもしれません。
気掛かりだったのは被害状況でした。地震発生から一晩明けたら、あちこちで水道管の破裂事故が起きているのが確認されたそうです。それを聞いて、前の部屋でトイレが詰まったことを思い出しました。トイレが使えないってのはどうしようもなく厄介ですね。暮らしが立ち行かなくなるから。しかも、すぐさま不動産屋に電話したら「こっちで業者を呼ぶ」と押し切られ、待つのも面倒なのでホテルに泊まる始末。
あ、いろいろ思い出してきたぞ。業者さんが来たのは翌日で、僕は立ち会ったんだ。だから理由をちゃんと聞けたんだ。
「今は使っていない鉄パイプのせいですよ。中が錆びちゃってるのが原因です。今回は直せても、近い内に他の場所で同じようなことが起きますね、こりゃ」
要は築年数の問題。古臭さに多少の風情を感じたのと家賃の安さで選んだ部屋だったけれど、生活の根幹を支える造りに根源的な支障があるとわかったら、もう無理。そこから引っ越しを検討し始めました。もう一つ思い出した。その晩のホテル代を不動産屋が支払ってくれたのは引っ越し後だったんだ。
何か事が起きてから問題の深刻さに気付くというのは、やはり愚かな行為です。予見できていたならなおさら。今回の水道管事故はその顕著な例と言っていいでしょう。「都会は脆弱」とよく聞くけれど、誰が弱くて脆いのかって話かもしれません。そのあたりを定期的に諭すため地球がくしゃみやしゃっくりをしてくれるのかもしれない。できれば震度3以下だとありがたいですけどね。

日暮れ近くになると、この時期らしい顔を見せる。帳尻合わせが上手いっていうか。

 

間に合ってよかった

真鍋淑郎さんの物理学賞受賞を記念いたしまして、今日もノーベル賞に触れます。
真鍋先生が取り組んだ気候変動関連は地球科学分野に属するそうですが、この分野が物理学賞を受賞するのは稀だそうですよ。電話で話した方は、ここに至り世界各地で多発する自然災害や、あるいはサステナビリティといった社会課題と受賞理由がリンクしているのかもしれないとおっしゃっていましたが、さてどうでしょう。
さておき、ノーベル賞に関してきっと誰もが抱いていそうな疑問の一つは、受賞者に高齢の方が多い事実ではないでしょうか。調べてみたら、最高齢は2019年に化学賞をとったジョン・グッドイナフ教授の97歳。逆に最年少は、2014年の平和賞受賞者マララ・ユスフザイさんの17歳。これは、1915年に25歳で受賞したウィリアム・ローレンス・ブラッグ氏の記録を99年振りに更新したことで話題になりました。で、ブラッグ氏が受賞したのは物理学賞。「何だ、若くてもとれるんじゃん」と思ったでしょ。ところが科学分野の受賞者高齢化は、1950年代から顕著になっているらしいんですね。
理由はあれこれ。100年前の世界には物理学者が1000人ほどしかいなかったが、現在は推定で100万人もおり、どんなに新しい発見をしてもすぐに受賞候補者になれない等々、数に起因するところが多いそうな。
数においてはさらに心配事があります。ノーベル賞には亡くなった人に授与しない(ただし発表後は別)という取り決めが設けられているので、あるいは順番待ちの間に他界されてしまった科学者が少なくないかもしれないという部分。これもどうなんでしょうね。選考情報を50年は公開しないのがノーベル賞の規定なので、僕らにはよくわからないままです。
世間から死の商人と思われた化学者が自分の死後を慮ったのがノーベル賞の起源。その創設が後の科学者たちを奮い立たせたとすれば、ノーベル本人こそが科学の発展に大貢献した人物と評していいとでしょう。もしやそう言ってもらいたくて賞をつくったのかもしれない。死生観もあるでしょうが、できれば自分が生きているうちに褒められたいと思うのが人間の本音ではないかと、僕はそう思います。死んでから偉かったと称えられてもねぇ。そういう意味では90歳の真鍋先生が間に合って、本当によかったです。

こういうマークが消えるのはまだ先か、または戒めの記念碑として残るか。